大王の体調は大きな不調をきたすことはないが、昔の快活で豪気な様子は見られない。いつ、胸の痛みが襲って来くるか、息ができないほどに咳き込みがはじまるのか、という恐怖がつきまとっているのだった。
昔のように妃たちを連れて、遊びを楽しまれることはない。奥の部屋でひっそりと暮らしておられる。
政や祭事には、必ず大后を連れていらっしゃる。そして、大后とともに、その長子である香奈益王子が供に大王の後ろに座られている。隣には弟の春日王子がいらっしゃるが、大王は大后や息子の香奈益王子のほうを振り向いては、意見を求められることがある。
春日王子は平静な顔をしておられるが、臣下たちは心の中で、大王は息子の香奈益王子に次代を譲ると言われるのではないかと予感させるのだった。
月の宴の開催は来月である。翔丘殿での準備は本格的になってきた。
宴で披露する舞の練習も本格的になった。選ばれた五人の少女が舞台上で舞を披露するが、右大臣の娘がその五人の少女の一人に選ばれたので、練習の場所を提供している。右大臣の邸がある三条大路に集まって練習をしていて、その音楽が外にも流れてきて、都人は宴の準備が本格化しているのを感じた。
本番は宮廷楽団が演奏するが、日常の練習ではまだ宮廷楽団で演奏を勉強している若い楽団員が練習のために邸へ赴いて演奏した。
大路を歩く実言は、向いから歩いてくる人の会話から、三条の右大臣邸で少女たちの舞の練習が行われていたことが分かった。ちょうど三条に差し掛かった時に、右大臣邸から辞去してきた一団と出会った。その列の最後尾を麻奈見が歩いていた。
実言が麻奈見の顔を見つけると、麻奈見も頭一つ抜けている実言に気付いて、会釈して、立ち止まった。
「久しぶりだな」
「本当に、なかなか宮廷内でお会いすることもありませんでしたから」
「ここにいるということは、麻奈見自身が舞の練習の演奏をしているのか」
「いいえ、私は引率係です。また、修行中の者たちを使っていただいて舞の練習をしているのです」
「そう……また、麻奈見と話をしたいけど、これから忙しくなるだろうから難しいかね」
「そうですね。月の宴が終わるまでは難しいですね」
「そうだな。宴が終わったら時間をくれよ。では、また」
実言は麻奈見と別れて、五条にある邸に帰って行った。部屋に入っても誰もいない。
「実言様、お帰りなさいませ」
侍女の澪が現れて着替えの手伝いをしてくれた。
「礼様は診療所におられます。実津瀬様と蓮様は毬様のところにいらっしゃいますわ」
毬とは、実言の実母である。
「ふうん。そうか」
実言は普段着に着替えると、机の前に座った。
「礼様をお呼びしましょうか?」
「いいや。たまには一人で過ごそう」
澪は実言の言葉に、控えの間に下がって行った。
実言は机に肘をついて、物思いに耽った。
頭の中は哀羅王子のことで占められている。どのようにして連絡を取ったらよいか、どんな方法があるかを考えているところだった。
実言が放った間者からの報告で、哀羅王子の邸には春日王子の間者が邸の周りをうろついているのが分かった。
哀羅王子にどのような心の変化があったのか。また、一緒に行動している春日王子たちとの関係にどのようなずれが生じたのか、などわからないことはあった。
哀羅王子から聞かなければ真実はわからないが、春日王子との間に何かしらの軋轢が生まれたのだろう。しかし、哀羅王子を手放せない春日王子が見張りをつけて、監視しているというところだろうか。手紙を渡すことを考えるだろうに、そのような手段を取らず、邸の下男に口伝えをさせるのは、手紙を奪われることを想定してのことだ。また、自分に近い舎人を使えば、間者の追跡にあうとの懸念から、人選も考えたのだろう。そして、大路で馬が暴れだすという偶然に、偶然を装って実言に接触することが運よくできた。何かの罠かもしれないと疑ってしまいそうだったが、あの人選が功を奏した。あの下男を実言は忘れていなかった。いや、忘れられるはずがないと言っていい。哀羅王子がいると思って邸に通った。衛兵に捕まって投げ捨てられて痛めつけられて、それでも哀羅王子が邸にいると思っていたから通うのをやめなかった。それを、見かねたあの老爺が真実を教えてくれた。本当に悲しそうな申し訳なさそうな顔をしていた。実言を気の毒に可哀そうに思ってくれたのだ。そして、こんな実言をもう見てはいられないかったのだろう。もう来てはだめですよ。哀羅王子様はここにはいないのだから。と説き伏せるように言った。
そのことが思い出された。あの老爺だからこそ、罠や嘘と疑わず、言うことを信じた。そして、それはまた哀羅王子にも伝わっているはずだ。
早くに連絡を取りたい。そうでなければ、哀羅王子は実言が伝えたことを信じられなくなるだろう。この絶好の好機を逃すことはできないのだ。
春日王子やその間者の目を欺き、安全に哀羅王子と実言が会える場はないかと思案してるが、なかなかその場を見つけることができない。
そんなことで四日も時が経ってしまった。
実言は机の上で頬杖をついていたが、その内、奥の寝所に入って寝っ転がった。
哀羅王子も出席する行事をどんな小さなものでも思い浮かべた。そして、その行事に実言自身が関わることはないかを考えた。自然にすれ違うだけでもいいのだが……。
陽が西に傾いて、部屋の中の灯台の影を長くしているのに、実言は気づかなかった。
「実言……?」
寝所を囲う御簾の前に立った影が問いかけた。
「礼」
「あなた、そこにいるの?」
そう言って、礼は御簾の内に入ってきた。腕枕をして仰向けに寝転んでいる実言が見えた。
「どうしたの?帰って来たのなら呼んでくれたらいいのに。澪はどうしたのかしら?」
「私が澪に礼を呼ばなくていいと言ったんだ。ちょっと考え事をしていてね。黙って座っているだけなのに、忙しいお前を呼びつけても仕方ないだろう」
夕方を前に、診療所から戻ってきた礼は、実言にそう言われても申し訳なさそうな顔をして、実言の隣に座った。実言もちょうど体を起こした。
「考え事、終わったの?」
「……うん。まあね」
実言は一応返事をした。
「今日は、実津瀬と蓮を一日お母さまに見てもらいました。先ほど二人を迎えに行ったら二人とも、満足そうに笑った顔で寝ていたわ」
「楽しく過ごせて何よりだな」
実言は、母と子供達の姿を想像して微笑ましく思い笑った。礼もつられるように笑顔になったが、すぐに表情を曇らせた。
「そこで、少しお母さまとお話ししました。そうしたらお母さまから、またお困りごとの相談があったわ」
「またかい」
と実言も思わず言った。母親の毬は、何か人から頼まれたことを実言夫婦に相談と言ってあれこれしてくれと言って来るので、またか、となる。礼が荒益の母親を診に椎葉家の別宅に行っているのがそのいい例である。
「お母さまのお知り合いが品の良い紙を探しておられるとか。あなた、用意できる?」
「紙?なぜ、必要なの?」
「その、お母さまのお知り合いが、宮廷の女官をされている、束佐家の泡様ですけれど、歌のお好きな方たちが集まって歌会を開かれるそうです。その日の記念に一番いい歌を紙に書いて残しておきたいので、それに合う透かしの入った紙を探しておられるとか。岩城家には上等な品があれば譲ってくれないかと言われていると」
「歌会ねぇ」
実言は風流には縁遠く、歌の素質もないと自覚している。それは礼も同じで、二人してその歌会のことを考えたが、主催者の思うほどの真剣さはなかった。
「どなたが集われるのか、訊いたかい?」
「ええ、束佐様と親しくされている物屋様がいらっしゃると聞きました。他に、束佐様は歌を介して王族の方とも懇意にされているから。その歌会には王族からもお二人ほどいらっしゃるとか。束佐様の都の端にある別邸で夜通し歌作りをされるそうよ」
「王族?どなた?」
王族と聞いて実言は表情を変えた。
「ええっと、大田輪様のお名前は聞きました」
「大田輪様……」
実言は大田輪様を思い出そうとした。王族の系譜の中で大田輪様はどのような位置にいらっしゃる方か。そして、哀羅王子にどれほど近いのか……。
「礼!」
「はい?」
実言は顔を輝かせて隣に座る礼の手を取った。
「よいことを教えてくれた!」
夫が喜んでいるのは嬉しいことだが、礼は何がそれほどまでによいことなのか、わからない。
「束佐様が探されている上質な紙は私がご用意しよう。すぐに母上に言って、束佐様に伝えていただこう」
実言は立ち上がると、母親の住まう離れにこれから訪ねると侍女の縫を使いに出した。
「礼はいつも私を助けてくれる本当の守り神だな」
実言は右腕を伸ばして隣に立つ礼の背中から腰を抱いた。実言を見上げる礼の瞳を覗き込んで笑っている。
侍女の縫が離れでの準備ができたと伝えに来た。礼は、夫の上着を着るのを手伝って送り出した。
実言は簀子縁を進みながら、礼の話す情報から思い立った筋書きをもう一度反芻した。大田輪様は、哀羅王子の父である渡利王と従兄弟の関係である。渡利王は、異文化への造詣が深く、異国から渡った美術品や絵画などを多く収集していて、邸にはそういった趣味を同じくする人が絶えず訪れていた。大田輪様も同様に交流があったはずだから、その歌会に大田輪様から哀羅王子を誘うことはできないかと思ったのだ。
歌会の行われる場所も、束佐家の別邸というのがいい。また、夜通し行われるのもよかった。
「母上、失礼しますよ」
妻戸から入って、几帳の陰から声をかけた。
「なあに、実言。どうしたの?」
母親の毬が不思議そうな声で答えた。
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