哀羅王子は、部屋の真ん中に寝転がっている。その体勢のまま高坏の上に盛られた果物に手を伸ばし、無造作に取ると口に運んだ。歯を立ててその果肉を口の中に入れると、甘い汁が広がった。子供の頃であれば、こんなものはいくらでも食べていたのに、今は貴重な食べ物で、ありがたかった。一つ食べただけで十分で、残りは邸に仕えている者たちに与えるつもりだ。
急に春日王子の邸の者がこの邸に来て、春日王子が呼んでいるというのだ。しぶしぶ佐保藁の春日王子の邸に行った。
この前会った時に、哀羅王子は春日王子に一つの出来事を問いただした。
十五年前に哀羅王子を岩城一族から引き離す目的で嘘を信じ込ませ、都から脱出させて吉野へと追いやったのは誰かということだ。
春日王子の企みだったと、あっさりと認めた。
その事実は、哀羅王子を深く傷つけた。そして、密かに決意させた。
どんな決意なのかを悟られないように、つるりとした無表情で佐保藁の邸を訪れると、春日王子は客を迎える部屋に座って待っていて、満面の笑みで哀羅王子を迎えた。
「哀羅、よく来てくれた」
媚びるような挨拶に哀羅王子は鼻白む思いで、愛想笑いを返した。
すぐに食事が運び込まれて酒の歓待を受けた。
「哀羅、先日は悪かった。この通りだ。謝る」
春日王子は一度、深く頭を下げた。
「しかし、お前も冷静になれば、私が言ったことを理解できるだろう。この血を継いで生まれた私たちは権力闘争にいやでも巻き込まれる。わが身を守るために毎日知恵を絞って考え抜いて生きている。その中で仕方なく起きたことだ。そして、それは年月を超えて克服していくことになるだろう。だから、今はお前も解せぬ思いもあるかもしれぬ。仲よくしようとなどとは言わないが、だからと言って今の私たちは敵対するべきではない」
哀羅王子は何も言わずに春日王子の言葉を聞いている。何も言わない哀羅王子に、春日王子は無理に答えを待つことなく、続きを話した。
「お前から邸の普請の相談を受けていたな。そのことは進めようと思っている。今までいろいろと不自由があったかもしれないが、渡利王のためにもこれからお前に力を尽くそうと思う」
春日王子の言葉に、哀羅王子は深く頭を下げた。「ありがとうございます」と形ばかりに言った。
どこまで話しても、空寒々しい会話であるが、二人ともすました顔で話を続けた。
いい加減なところで話は終わって、哀羅王子は邸に帰った。後に、春日王子から布や食物などが邸に届けられた。これまでの不自由を解消するための一つとして、こんなものを送ってきたようだ。その中に、地方から献上された食べ物が何品か含まれていて、高坏に載った果物もその一つだった。
邸に仕える者たちは、突然の贈り物に喜んだ。継ぎの当たったボロをまとっている家人たちにこれで衣装を作って与えてやれる。食事も毎日同じ粗末なものを食べているから、ことさらに今夜が楽しみだろう。
哀羅王子は筆を取って紙に文字を書きつけると、舎人に佐保藁の春日王子の邸に届けるように命じた。簡単なお礼の言葉を書いただけだが、春日王子は安心するはずだ。
春日王子は強気だが、一番心配しているのは哀羅王子の裏切りだろう。まずは物を与えて、不満をやわらげ、春日王子の陣営にいれば将来を約束してやると言いたいのだ。子供だましのようなことだが、貧乏王族にとってはありがたいことだ。今も侍女達が新品の衣装がもらえると嬉しさを抑えきれずに、哀羅王子にも聞こえるほどの大声で話している。
恭順の態度を示していて、哀羅王子は春日王子の手のひらの外には出られないと思い込ませなければならない。頭の中の思いは一切気取られないようにしなければ。そのためなら、手紙で礼を言うくらい簡単なことだ。
しかし、そろそろ頭の中のことを進めなければいけない。機会をとらえ損ねれば、一生春日王子の奴隷になるしかないだろう。結果としてそうなるにしても、その前に、成功しようとも失敗しようとも一勝負をしなければならない。
まず、しなければならないこと……岩城実言と連絡を取る。
簡単なことのようで、春日王子が言ったことが本当であれば、見張りがついていて下手な動きはできない。哀羅王子自身が動いて、実言に会いに行くことや、この邸に呼ぶなんてことはもってのほかだ。身近な舎人を使うのも危ういと思った。手紙を書くこともできない。もし、その手紙を奪われたとき、言い訳ができなくなる。
だれか適任者はいないだろうか。
哀羅王子は起き上がって、食べ終えた果物で濡れた手を布で拭き、立ち上がって簀子縁に出た。
春も終わると感じさせるようにだいぶ暖かくなってきた。庭には一本だけ桜の木があるが、もう全部散ってしまった。しかし、子供の頃の記憶にある懐かしい庭の光景だから、都に還ってきたことを実感させてくれる景色である。葉だけになった桜の木を眺めるために、哀羅王子は庭に降りるための階の一番上に腰を下ろして座った。ところどころに色とりどりの小さな花を見ることができるがまだみすぼらしい、殺風景な庭を見渡しながら、思案した。
庭には、老爺が一人で手入れをしていた。落ち葉をかき集めたり、伸びた草を抜いたりしている。もう、腰も曲がってその体はしんどそうではあるが、その動きは苦にしている素振りはなく、楽しそうである。
「おい、おい、そこのお前」
哀羅王子は立ち上がり、庭で作業をしている老爺を呼んだ。
呼ばれているのが自分なのか、判別しかねたようにあたりをキョロキョロと見まわしたが、誰もいないのでやっと自分が呼ばれていると分かった。
「はい」
少し腰を曲げて、階の下に駆け寄ってきた。
「どうされました、王子」
幾筋もの深い皺が刻まれた顔はにこにこと笑って、哀羅王子を見上げている。この老爺は十五年前ももっと前からこの邸に仕えてくれていた男だ。哀羅王子がいなくなっても、夫婦、親子でこの邸を守ってくれていた男である。実言が邸に来ていた時のことも知っているかもしれない。
「お前の名は何と言ったか?」
「私は、日(ひ)良(ら)居(い)と言います」
「日良居、この邸に、いや、父によく仕えてくれた」
「ああ、そのようなこと。もったいない言葉でございます」
「いいや、本当にそうだ。そこでお前に頼みがある」
「……私に?……何でございましょう?」
哀羅王子は、懐から取り出した袋の中のものを日良居に手渡した。
「これで、市に行って、夕餉の食材を買ってきておくれ」
「ええっ、そのようなことでよろしいのでしょうか?……何が召し上がりたいものはありますか」
「何でもいいさ。皆に訊いて決めてくれ」
哀羅王子は胸の中に入れていた春日王子の遣いが持ってきた品物の中の一つである貨幣を渡したのだ。最近は都の市でもだいぶ流通している。吉野の山の中では、貨幣など見たこともなかったが。
それから哀羅王子は二日後に再び日良居を呼んで、市への買い物を頼んだ。なぜ、そのようなことを頼まれるのか、日良居は不思議だったが、言われるがまま使いに行った。しかしこの日、哀羅王子は一つ注文を付けた。
「五条の田(た)原野(わらの)のあたりを通って行ってくれ」
日良居は頷いて、言われた通り五条田原野を通って市へと行った。邸の者たちは、日良居が市に行くと、食事が豪華になるので喜んだ。
一日置いて、また哀羅王子が日良居を呼ぶ。
「買い物ですか?」
「皆が喜んでいるみたいだな。いままでひもじい思いをさせて来たから、よい物があればまた買ってやってほしい」
「はい。王子はどのようなものをご所望でしょうか?あなた様のお好きなものを夕餉にご用意しとうございます」
「……んふふ。私のことは気にしなくてもよい。何を食べても味は同じだ。……何も感じない」
この日はどの道を通れと言われなかったので、日良居は初めて使いを頼まれた日と同じように都の中央を通る大路を歩いて行った。
都の中心を南北に通る大路は人や牛馬や荷物の往来でごった返している。牛や馬が列をなして通ると、人々は押しつぶされてしまいそうで、日良居は道端によってそろそろと歩いた。行きかう人の話し声を聞いていると、地方から来た者たちなのか、半分以上何を言っているのかわからない言葉だが、ただ感嘆していることはわかった。知らずのうちに大きな声を出して、口を開けたまま遠くを見上げている。見ている先は、大路の北にそびえる大極殿だ。すぐ目の前に迫っているように見えるほどの大きさなのだ。こんな巨大な建築物を見たことのない者は驚くばかりである。日良居は、そのような喧騒を聞きながら、王子に何のご馳走を用意しようか考えていた。
二日ほど、哀羅王子は忙しくしていた。三月ほど先のことではあるが、月の宴の準備があり、宮廷行事にも王族の一人として参加した。
三日後に、哀羅王子は庭の手入れをしている日良居のところにやってきた。
「暖かくなって、花も咲き乱れるようになった」
「まったくでございます」
「お前はいつも、庭の手入れをしてくれるな」
「先代からの自慢の庭でございます。私にも誇らしく大切なものです」
「そうか。……また、お前に頼みたいことがある」
「夕餉のお使いで?」
「そうだ。しかし、これから話すことは誰にも言うでない。紙に書けない秘密のことだ。お前の頭の中だけに留め、その時を待って行動してほしいのだ」
日良居は背筋を伸ばしてじっと哀羅王子は見上げた。驚いてはいるが、恐ろしさを感じている顔ではない。
「……私のようなおいぼれにできるでしょうか?」
「すまぬ。しかし、お前しかいない」
「あなた様がそうおっしゃるなら、私はやります」
深い皺に覆われ顔を哀羅王子もじっと見た。
「岩城実言と連絡を取りたいのだ」
日良居はしばらく無言であったが。
「……懐かしいお方です」
と呟いた。
「どういうことだ?」
言っていることの真意を分かりかねて哀羅王子は問いただす。
「十五年前のことです。あなた様がこの邸から去って行かれた後のこと。岩城実言様はあなた様がもうここにはいないことを知らず、会えないのは自分に何かしらの落ち度があったからだと、連日通ってきては門の前であなたに向かって自分の気づかぬ非礼について詫びるのです。声が枯れるまで。あなた様が去った後にしばらく駐在した衛兵がうるさがって、門の前から立ち去らせるために、その体を両脇から抱えて、門から離れさせ塀の角まで連れていって投げつけるのです。しばらく、悔しそうに衛兵の後ろ姿を見て帰って行きましたが、翌日にはまた現れて、あなた様を呼ぶのです。私は、その姿に感心し、また気の毒にもなりました。もう、この邸にはあなた様はいないのに、いると信じて叫ぶあの方を。そして、いつものように衛兵に塀の曲がり角まで連れていかれて、投げ飛ばされる姿を私は裏門の陰から見ていました。衛兵が去った後、私は実言様に駆け寄り、もうこの邸には哀羅王子はいないことを告げました。そうすると、あの方は言い表せぬ悲しみの表情をされて、肩を落としてご自分の邸に帰って行かれました。それから、この邸を訪れることはありませんでした。しかし、私がこの邸にあなた様がいないことを告げるまでのあの方の姿は、心底あなた様を慕われて、失いたくないと心から思っておられると思いました。あなた様が実言様と連絡を取りたいとおっしゃるとは、実言様のお気持ちが通じたように思います」
哀羅王子は自分が去った後の実言の様子を初めて聞いて、驚いた。都に戻ってきて、実言は哀羅王子の前に跪き、誤解を解きたいと言っていた。あの男は純粋に、十五年前から今でもそう思っているのだろう。春日王子の遣いが言う岩城園栄が命を狙っているという嘘を信じ込み、実言も関わっているものと思って酷いことをしてきた。
「そうか。そんなことがあったのか」
哀羅王子は、空しい顔をして苦笑いをした。
「実言と、連絡を取るのだが、お前が実言と会うのは偶然でなくてはならない。堂々と連絡を取れないのだ。私と岩城実言が繋がってほしくない人がいる。その人は、私を監視しているのだ。もしかしたら、この邸の使用人たちも監視しているかもしれない。だから、用心に越したことはない。お前も焦って岩城の邸を訪ねたりする必要はないのだ。いいな」
「はい。私は、必ずやり遂げます」
日良居は真剣な表情を見せて哀羅王子に誓った。
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