昨年、大王は北方の征夷を達成した。
その部隊の帰還を祝う宴は盛大に行われたが、今年に入ってもその祝勝の雰囲気は収まらず、大王も何かと行事は盛大に行うことを求めておられる。新年の祝賀も大掛かりに行った。臣下たちもそれを感じ取って、春に開催する花の宴はいつにもまして盛大に行うように計画している。
朝堂院に臣下が集まった中で大王の弟君である春日王子から、宴の中で大王にお目通りをさせたい方がいるため特別に席を設けるとの話があった。臣下たちは誰であろうかと話し合った。
春日王子はその人が誰なのかを明かさず、その時になれば分かること、と秘匿した。
そのため、花の宴は春日王子が取り仕切ることとなり、岩城家でも春日王子の指示に従い何かと準備を進めていた。
春日王子の秘密主義に岩城家や他の多くの臣下は怪しみ、何か企みがあるのではないかと疑心暗鬼になった。
密かな情報戦の末、「哀羅王子」の名が聞こえてきた。臣下の中には、誰だというように首を傾げる者もいたが、岩城家は違った。特に実言は驚きを隠せず、人知れず動揺した。
「実言……実言?どうしたの」
寝室へ入ってきた礼の言葉に、実言がすぐに返事しないのを、礼は訝しんだ。実言は褥の上に胡座をかいたまま、じっとしている。右膝に肘をついて頬杖をして、何か考えているのだ。
「……ああ、礼……何?」
「考え事?私はお邪魔かしら」
「邪魔なことがあるものか。こっちへおいで」
実言は傍に座った礼を腕の中に入れて、そのまま共に横になった。実言は自分の腕を枕に少し寝物語などして、礼がそのうちゆっくりと寝息をたてるのを聞くと、また自分の物思いの中へと入っていった。
北方の戦に勝利したのは誰の功績か。この戦を主に取り仕切ったのは春日王子である。だから、春日王子は大王の弟というだけでなく、大王を支える者としての力が強まった。しかし、戦の勝利には将軍をはじめとした現場を取り仕切った者たちの力も大きく、岩城家が進言して実現した訓練された軍隊の投入が勝利に貢献したこともあきらかで、岩城家の力も弱くなることはなかった。
そして王族を中心とした施政を目論む春日王子とその勢力と岩城家を中心とした臣下たち勢力との目に見えない対立が静かに続いている。その中で、今まで知られていなかった哀羅王子という新たな王族が現れた。
哀羅王子は現大王の父君に在られる前大王の弟君を父とする王族の一人である。誰もその名を聞いてすぐにわからなかったのは、いつの時からか都をお離れになり、そのお姿を隠された。都人はその存在を忘れかけていたのだった。しかし、実言はその方を忘れることはない。潜在意識の中でその存在をいつも思っている人の名が、ここに来て急に浮上してきたのだ。
ここ数ヶ月、妻に浮気を疑われながらも、春日王子に対抗するために同じ思いを抱く臣下たちと連携してきた。しかし、 今、実言は何も手がつかぬほどの憂鬱に襲われた。
「……ん……実言?……どうしたの?眠れない」
腕の中で眠っていた礼は、実言の細く発したため息を感じ取ったのか、夢の中に半分身を置いて、現の世界の夫を案じた。
「……お前の寝顔に見惚れていたよ」
左目の眼帯を取った礼は、無防備にその寝顔を晒している。
「……何を言うの」
礼は夢の中に引き込まれていく中で、現の愛しい夫の言葉に返事した。
「お眠り、礼。かわいい我が妻よ」
「……んん」
礼は、返事のようなそうでないような言葉を発して、実言の胸の中で再び眠りに落ちた。
実言はその寝顔を見ながら、わが心の不安を払拭して、ようやく眠りに落ちたのだった。
翌日、後宮から遣いが来た。木箱に入った手紙には、後宮にいる碧妃から礼に会いたいと書いてある。
実言はそれを一読してから、礼に手渡した。
「明日のお前の予定はどうだっただろうか?」
「特に、用事はないわ。碧様とはもう、一月以上もお会いしていないからお伺いしたいわ」
「そうか、行ってくれるかい。ああ、しかし、花の宴がどうのこうのと書き記しているな、碧の奴」
実言は、ついつい妹のような気安さで敬語も忘れて呟いた。
「礼、花の宴はダメだ。どれだけ碧に頼まれようとも、花の宴に出ることは許さないよ。それは淑にもよく言っておくから。ただただ、碧と話しをするだけだ。何か愚痴でも聞いてもらいたいのだろう。しかし、有馬王子の近況はよく聞いてきておくれ。お美しい王子のその成長はひとつ残らず知っておきたいものだ。王子はわが一族が総出でお守りしなければならないお方だからね」
「それは、よくわかっています」
実言は机に向かって筆を取り、返事を書いた札を箱に入れて、侍女に渡した。侍女は別室で待たせている遣いに渡して、持って帰らせた。
実言の予想通り、一月ぶりに会った碧妃は、前回会った時からの出来事を話した。礼に自分がどんな風に思ったか、周りの者たちがどう思っているかなどの愚痴を言うのだ。そこへ、昼寝から目覚めた有馬王子が乳母に手を引かれて現れた。
「有馬!」
王子は母君を見つけると、喜色を満面に浮かべて母君へ駆け寄り膝の上にすがった。王子を膝の上に抱きあげながら、碧妃は礼に言ってきた。
「ところで、礼、もうすぐ花の宴があるけど、どうかえ?前の月の宴のように一緒に楽しまぬか?実言兄様が戦場に行ってしまって、そなたも都を離れてしまったから、月の宴以来一緒に見ることも出来ていない。今回はまた盛大な催しが行われるということだし、私もとても楽しみにしている。有馬も初めて見るし」
「いいえ、碧様。私は……」
「いいではないか、礼も久しぶりの都の行事であるし、お兄様には私もお願いするわ」
「恐れながら、碧様」
間髪入れずに、礼の後ろに控えていた淑が口を開いた。平身低頭して、それでも力強く言葉を発する。
「花の宴ですが、旦那様は礼様に家で留守番をするようにと仰せでございます」
「まあ、そうなの?宴のような華やかなところに、礼を連れ出せばよいのに。……もしかして、ややが……」
思ったことを口走った碧妃の言葉に、礼は先ほどの花の宴の断りより強くはっきりと言った。
「いいえ!違いますわ。そのような兆候は何もありません」
「そうかえ。でも、そうなら、なぜ兄様はそれほどまでに礼を家に縛り付けておこうとするのかしらね。残念ね」
不満顔ではあるが、碧妃はそれ以上に宴のことは言わず、有馬王子に言葉が増えたことや、着物を引っ張り出していたずらをするなど、たわいもない最近の様子について話をした。
「そういえば、噂では花の宴を春日様がいろいろと取り仕切っていらっしゃるお聞きします。春日様は考えが豊富だから、臣下の者もいろいろと準備が大変らしいわ。実言兄様も、準備に忙しく礼のことまで手が回らないのかしらね」
碧妃は、自分の推測が真実のように独り言を言った。
花の宴の出席を断ったが、終始機嫌のよい碧妃であった。
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