怖いほどの静寂だ。自分の耳が聴こえなくなってしまったかと、思うほどに。
「……どうした?」
その声に、耳が聴こえなくなったわけではないことを確認した。
朔は自分が息を止めて身じろぎもせず、じっとしていたのだと知った。隣に横になっていた方に声をかけるまで、その方……春日王子も無言で吐息もつかなかった。
「いいえ、何でもありませんわ……もう、お暇しませんと」
朔は起き上がって、肩からずり落ちた襟を引き上げて単をきちんと着た。
静かな時間が、自分の罪を責めているようで、恐怖を感じたのだ。いや、違う。それは罪悪感というよりかは、いつまでこんなことを続けているのかという、自分の心の苛立ちだ。
「そんなふうに、急がなくてもいいではないか。まだ、陽は高い」
「ええ、ですが、最近の王子はとてもお忙しでしょう。いつ、来客があるかわかりませんわ」
「ふうん」
春日王子は裸の体で腹ばいになり、両手で頬杖をついて、朔の言葉を反芻している。
「確かに、月の宴の準備で忙しいことは忙しいが、まだ先のことではある……、お前を放っておくほどにもないのだがな」
朔は、春日王子の話しを聞きながら、無造作に脱ぎ散らかした袍を広げて皺を直している。
「お前は、今日だって体を許してくれるのに、終わってしまうとなんとそっけない態度なの。もう、私に冷めてしまったか」
腹ばいだった春日王子は、両手を突いて起き上がり、朔の背後によると、朔の肩に顎を置いて背中から抱いた。
「何をおっしゃいますの?王子様を袖にするようなことがあるわけありませんわ。ひどい疑いをおかけになるのね」
「お前の今日の態度から、私への興味のなさを感じたのさ。お前は美しいから、新しい男でもできたのかと、疑いたくなった。私はお前を離したくないと、何度も、懇願しているのに」
朔は春日王子の言葉に、怒りを感じた。他に愛人を作ったように言うが、そんな尻の軽い女のつもりはない。一人の男を一途に思い思われして添い遂げるのが幼い頃から夢見たことである。
朔は、春日王子から離れるように身を縮めて、体を前に倒した。朔の心を敏感に感じた 春日王子は離れていく朔の肩から顔を上げて、自分の顔に向いている方とは逆の頬に回していた手を添えて逃げないようにして、朔の頬に口づけた。
「悪かった。貞淑な椎葉家の妻を無理やり我がものにしたのは私だ。私がお前を穢しだのだ。しかし、許しておくれ、今はもうお前から離れられない私なのだ。一時の気の迷いではないと分かってくれるだろう」
朔は少し身をすくめただけでじっとしている。
春日王子は、朔の体を自分の方へ向かせて、最後には褥の上に押し倒した。
「こんなに愛しい……」
その薄い唇の隙間から狂おしそうに言葉を絞り出すと、春日王子は朔に降り注ぐような接吻をした。
しかし、今日の朔は春日王子の激情に流されることなく、冷静である。
春日王子は他の女人に夢中になると、後宮を訪ねた朔に、自分の部屋に寄るように遣いをよこすが、あっさりとした態度で、頃合いを見計らって帰るように仕向ける。王子は夢中な女人一人にどっぷりつかることはなく、愛人を体よく繋いでおく。
最初の頃の朔は、もう春日王子の密かな寵愛は消えたのだと思い、別れの覚悟を決めるのに、次に会ったときは、息もつかせぬほどの勢いで愛され、お前を離さないと攻め立てる。意中の女人に冷めたのか別れたのか、どのような経緯をたどったのかわからないが、王子の心は再び朔に戻ってきたのだ。
自分勝手な人と、心の中で詰っても、その熱い態度にやはり行きつくところまで行こうかと、自分もずるずると王子の愛にすがってしまう。
だけど、朔はもう一つの愛も手放せなかった。いや、今の自分は真剣にこの愛に帰りたいと思っている。
それは、夫荒益の愛である。
夫は、何かしらの事情で自分の不貞を知ったのだ。相手が春日王子であるとまでわかっているかは不明だが。その事実を知りながら、先日の邸の庭での激しく優しい態度である。荒益の元に戻るなら今しかないのだ。自分はまだ夫を愛しているし、夫も自分に愛想をつかしたわけではないのだ。夫の元へ戻って、詫びる気持ちで尽くすのだ。
春日王子は褥に押し倒した朔に添って自分も横たわり、その首元に額を押し付けて朔を抱きその体に甘える。
「王子……」
朔は身を任せていると、隣の部屋から舎人の控えめな声が聞こえた。
「……春日様、来客でございます。……哀羅王子がお見えです」
春日王子はしばらく黙っていたが、ゆっくりと返事した。
「……わかった。……行くのは行くが、少し時間がかかる故、酒でも出してもてなしてやってくれ」
「はっ」
短く答えて、舎人は部屋から出て行った。
「……やはり、王子はお忙しいではありませんか」
朔はそう言って、体を起こそうとした。名残惜しそうに、朔から離れて春日王子は起き上がった。
自由になった朔も起き上がると今度こそ衣装を身に着けて帰り支度をした。
すっかりと衣装を着こんだ朔は立ち上がった。春日王子は褥の上に起き上がっているが、裸のままでぐずぐずと朔の帰り支度に小言を言っている。
「お客さまをお待たせしていらっしゃるわ。……王子、どうなさったの?今日はまるで子供のよう」
朔は座っている春日王子の前に膝をついて話しかけた。何も言わない春日王子に、朔は寂しく微笑んで再び立ち上がった。
「……朔」
春日王子は几帳の後ろに消えていこうとする朔の名を呼んだ。脱ぎ捨てた衣を拾ってはおり、朔を追いかけた。
「こんなにあっさりと去ってしまうなんて、寂しいじゃないか」
朔を後ろから抱きしめて、春日王子は言った。
「……また、後宮でお会いできますわ」
朔は答えた。
春日王子は朔を自分の方へ向かせて、再び抱いた。
「ああ、そうだな」
ようやくその手を放し、朔の顔を見つめた。
朔は微笑んで、そのまま部屋を出て行った。春日王子はその後ろ姿をじっと睨んでいた。
朔の足音が聴こえなくなると、部屋の中に侍女が入ってきた。春日王子の衣一枚をひっかけただけの姿を見かねて、着付けの手伝いをしようとした。
「まだいい。少し、横にならせてくれ」
そう言うと寝所に入って寝転び、目を閉じた。
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