Infinity 第三部 Waiting All Night43

小説 Waiting All Night

 宮廷では、話が漏れ聞こえるのを防ごうと部屋をどれだけ隔てても、それは難しいことである。使用人たちの情報収集力は恐ろしいもので、どれだけ小声で話しても、誰かの耳が聞きとって、口から口へと伝えられていくのだった。
 その日の朝の大王の突然の体調不良は王宮奥で伏せられているが、昼には岩城園栄のところに大王の具体的な症状が入って来た。
 大王の健康問題があがると、その先に待ち受けるのは後継者問題である。
 大王の心のうちを、岩城園栄は知っていた。それには、越えなければならない山があることもわかっていた。岩城家にとっても、その山をどう越えるかは難しい問題である。
 その夜に、園栄は息子たちを集めて少し話をすることにした。急に集めると勘ぐる者もあるから、実言には普段と変わらず近くに来たので寄ったというような風情でふらりと訪ねさせた。
 奥の部屋に酒をもって来させて、車座になって飲み交わしながら近頃の出来事を話していたが、暫くたって、長兄の蔦高がしびれを切らしたように話を切り出した。
「遠野多那(とおのたな)様のご様子はどうなのです?」
 遠野多那様とは岩城家で呼ばれている大王を指す隠れた御名である。それは大昔、岩城一族ゆかりのその地に狩りに来た王族と出会い饗応したことが、岩城家が今の地位を築く始まりになったことが語り継がれている。そのこともあって隠れてそのお方の話をするときは、その名前が使っているのだった。
「今は、回復されたようだが。お気持ちは沈まれて、政のために表に出るのは難しいようだ。何か理由をつけて公務を取りやめるが、そのうち、臣下も何かしら勘づいてくるだろう」
 園栄が低い小さな声で答えた。
「しかし、どうしてこのように急に体調が変わられるのですか?お傍についているものは、何をしているのか?医者は何を診ているのか?」
 蔦高は少し声を荒げて言った。
「どうしたものでしょうね。元気なご様子であったのに」
 実言が控えめに口をはさんだ。
「遠野多那様にもしものことがあれば、どのようなことが予想されるか。想像に難くない」
 長兄の蔦高は少し興奮した物言いをする。
「そのようなことはこの場であっても口にしてはいけない。前のようなあらぬ嫌疑をかけられかねないよ」
 園栄は蔦高とは対照的に声音を変えることなく言って、実言が注いだ酒を口に含んだ。
 前のような、とは朝堂院に臣下が一同に参集したときに、大王を呪い殺さんとしている者がいると告発する者があり、そのやり玉に挙がったのが岩城家だった。
「慎みます」
 と蔦高は言って口をつぐんだ。
「しかし、お前の言うことはわかるよ。私も、だから何も考えないなんて言わないさ。いつかは来るその日のために、準備は必要であろう。穏やかな移行は誰もが望むところであるが、この度はそうもいくまい。誰がどう仕掛けるかはわからないが、我らはその波をうまく渡るだけよ。そのためにも、我々一族の横のつながりはしっかりとしておこう。また見極めも大切だ。相手方も同じことを考えているだろうから」
 園栄は言って、息子たちの空の杯に酒を注いだ。
 実言は父親が置いた銚子を取って、父親に注ぎ、そして先ほど父親がなみなみと注いだ酒を飲み干した兄の杯に酒をつぎ足すと、その銚子が空になったので脇に置いた。
 そして、自分の杯の端に口をつけて、横の繋がりのことを考える。それは、我々一族が一枚岩となって、共に力を合わせてその難局を凌ぐことである。
 姻戚関係を結んだ他の一族や、土地を介して深い繋がりのある一族同士のまとまった勢力を作っているが、現遠野多那様の後の勢力図を考えたときに、誰が誰と手を組み、力を得ようとするかは想像できるようで、そう簡単ではない。仲の良かった職場の仲間も、次の日からは敵対する相手となり、あらぬことを密告されて、翌日は罪人に仕立てられる可能性もあるのだ。
 荒益はどうあろう。
 臣下の中で岩城と榛葉の一族が一番の権力争いをしているが、実言と荒益はいがみあっていることはない。逆に仲の良い、何でも話せる友人である。一夜にして、その命を取り合うような仲になるとは思えないし、なりたくもない。
 しかし。
 気がかりなのは、妻の朔がなぜか後宮近くの春日王子の館から出てくる姿を目撃したことだ。
 岩城家の想定であれば、必ず岩城と敵対する勢力は春日王子である。椎葉家が春日王子と組むということなら、辛いが荒益とは敵同士になるだろう。
 どこかで、はっきりとさせたい。はっきりさせたからと言って、これまでの態度が変わることはない。お互い自分の立場から、正々堂々と立ち合えるだろう。疑心暗鬼のままで、仲の良い振りはできない。 
「……実言!……実言っ!」
 実言は顔を上げた。
「……はい」
「何をぼおっとしている」
 蔦高がきつい口調で言った。
 実言は途中で荒益のことを考え始めて、呼ばれても気づかなかったのだ。実言は座りなおして、背筋を伸ばし、父と兄の話に耳を傾けた。
 

 岩城本家の邸で、父と兄とともに話をした四日後。
 大王はその日も公の場に出てこられることはなかった。園栄の情報では褥の上に体を起こされたが、立ち上がるのは不安だと言って、すぐに横になられたとのこと。弟の春日王子がかいがいしく大王の傍に侍っているとのことだった。
 五日も続けて大王が朝堂にも、大極殿にもお出ましにならないのを、臣下の多くが怪しみ始めた。大王の御身体にまた異変があったのではないかと言って。そして、六日目に大王の代わりに春日王子が朝堂に来て話をしたのが皆の不安を決定づけてしまった。ますます大王の健康への懸念が広がるのだった。
 それから、実言は荒益と話をする機会をうかがった。宮廷に上がって、仕事の合間に荒益が勤める館の傍を通る時にその姿はないかと気にするが見つけることはできなかった。しかし、宮廷に入る門の前に役人たちの息抜きのためのたまり場になっている部屋に荒益と同僚の橘定彬がいるのを見つけた。
「ああ、荒益、定彬」
 実言は近づいて声をかけた。二人とも、実言に気付いて会釈した。
 二人は日当たりのよい扉近くに置いてある床子に腰掛けて寛いだ様子で談笑していた。
「やあ、実言。定彬とここで会って話していたところだよ。あなたも加わって皆で近況でも語ろうじゃないか」
 床子の端に腰掛けていた二人は立ち上がると、実言とともに部屋の中に上がって円座の上に向かい合って座った。
「実言、久しぶりだね」
 荒益は屈託のない顔で実言に話しかけた。陰のない男である。実言は荒益に向かって頷くと、さっそく橘定彬が横から話しかけてきた。
「実言殿、大王はいかがされたのでしょうね。皆が心配しております」
 実言は小さく頷いて、同意した。
「先ほども、役所でいろいろと打ち合わせしていたけども、皆二言目には、大王のことを心配していました」
「私のところでも、そのことは大きな声では言わないが秘かに話されているよ。大王の御身体が心配だ」
 本当に、と荒益、定彬は頷いた。
「しかし、正式な発表はないのだから、全て推測の話だ。全てはこちらの杞憂だったとなればいいのだが」
 荒益が表情を曇らせて言った。
 正式な発表がないため、ご病気平癒のための祈願をしたいと思っている臣下たちも、何もできず、ただ心許し合えるもの同士で大王の御身体を心配し合うのが現状である。
 三人は黙った。そのまま沈黙が続くのを嫌がった定彬が、たまらず口を開いた。
「そういえば、雪平が」
「雪平?どうしたの?」
 荒益が言う。
 前に、突然の強い雨で宮廷に足止めを食らって、四人で暇つぶしに話をした。この三人とこの場にいない雪平とである。
「あの男も懲りないやつで、新しい恋人を作って揉めています。大王の御身体が心配されているときに、妻に殴られて寝込んでいるとか。全く当てにならぬ男です」
 雪平は恋多き男である。実言も荒益も口元を少しほころばせた。
「……しかし、寝込んでいるとはしょうがない男だね。どおりで最近見ないと思った」
「女の力で殴られても非力なものだが、そのはずみで階から落ちて、手だか足だか痛いと言っています」
 荒益は少し声を出して笑って、全く、とつぶやいた。
 最初に座っていた床子の前の扉から定彬を呼ぶ声があって、定彬はその方を向いた。
「ああ、もう行かなければ。何か、知らせがありましたら、必ず教えてください」
 と言って、床子を下りて向こうの扉へと走っていた。
 残った実言と荒益はしばらく仕事の話をしてから近くの扉から館を出た。そのまま、二人並んで回廊を歩いた。
「やっと、二人で話せるね」
 荒益が前を向いたまま言った。
「実言は私を探してくれていたのではないの?」
 実言はにやりと声を出さずに笑った。
「わかったかい?」
「こんな状況だからね。皆、はっきりとは言わないけれど、それぞれにこの先を心配している。御多分に漏れず、私たちもその仲間だろうさ」
「そうだな。早く荒益と話をしたいと思っていたのだ」
「こちらもだよ。万が一のことを考えると私も実言と話をしておきたいと思っていた。人は私たちの家は対立していて仲が悪いと思おうとしているからね。私たちがこうして並んで歩くと、罵り合っていると思っているかもしれない」
「全くだ」
「皆は指を広げて考えられる選択肢のどれに飛び乗ったらいいのか考えていることだろう」
「そうだな」
「園栄様はいろいろと情報をお持ちだろう。この先のことも大方見えてるのでは」
 実言は少し首をひねって答えた。
「どうだろう?父は実の息子でも本当のことを打ち明けてはくれないから、わからないよ。世の習いなら、想像がつくが、そうなるだろうか。大王の心の内は計れない。皆、どうなるのかと悩んでいるところだろうな」
 長い回廊は、二人の会話を遮ることなく続けることができた。
「お互い、この大きな波を超えていかなければなるまいね」
「本当に」
 低く抑えた声は、時折すれ違う役人をはばかってだ。
「もしも、我々が例えば大きな川の両側に分かれて対峙するようなことになったら。もちろん、そんなことにはなりたくないが、もしもそうなれば心を決めなくてはなるまいね」
「私も、そんなことは想像もしたくないが、もし、そのようなことになったら私は私の決めた道を行かねばなるまい。その時は荒益との友情に恥じないように行動するだけだ」
「ありがたい言葉だ。もちろん、私も同じだよ。私にとっても実言は大切な友人だ。その心に恥じない行動をする」
 並んで歩く中で、荒益がそういって実言の方へ顔を向けた。強い眼差しを受けて、実言は嬉しかった。
「一つだけ教えてくれ。椎葉家は一族の誰かを、春日王子の王宮での館に仕えさせているのかい?」
 荒益は少し考えたが、やがて。
「……いや、誰もいないはずだ。一族の末端まで見ているわけではないが、私の知る限りではいないよ。……何か?」
「少し気になったものだから」
「なんだよ。探りにしてははっきりと聞いてきて、言葉を濁すなんて。なんだというのだ」
 実言は言いよどんだが、やがて立ち止まって、荒益に正対して言った。
「……春日王子の館近くで、朔を見た」
 中てられた言葉に、荒益は少し表情を硬くしたように見えたが、ゆっくりと口を開いて答えた。
「ああ、朔は姉である幹妃のところに通っているからね。何か、後宮内で使者にでもたてられたのだろう。いろいろと推測したいところだろうけど、今のところ、王子との関係をはっきりとここで表明するつもりはないよ」
 と、荒益は笑った。実言も口の端を上げて笑い返して。
「すまない。邪推が過ぎたようだ。こんな勘ぐりはもうしないよ」
 荒益は頷いた。
 立ち止まったそこは、回廊の端で、もう少し行けば館を仕切る門がある。実言は自分の部屋に戻ると言い、門の前を素通りして回廊を左に曲がった。荒益は仕事が引けたので邸に帰ると言って門をくぐって宮廷を出て、そこで二人は別れた。

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