Infinity 第三部 Waiting All Night33

雨 小説 Waiting All Night

 新年の行事は快復された大王が取り仕切られた。大極殿の広間に元気な姿をお見せになって、広場に集まった臣下たちは歓び、安堵した。
 しかし、都の中には、大王の病気は呪いだという疑惑が根強くあり、また、皆が後継者問題を意識し始めて、不穏な雰囲気に満ちていた。
 新年の行事も終わってゆったりとした日々、実言は左近衛府の詰め所にいた。
 急に空が暗くなって激しい雨が降り始めた。外にいた者たちが慌てて館の中に飛び込んでくる。開いたままの扉から門の様子が見えて、一人の小柄な男性がその内側に入ってきた。門番が一旦止める素振りも見せないので、よくわかった人なのだ。
 実言は、すぐにその男性が誰だかわかった。
 哀羅王子である。
 哀羅王子が宮殿に来るのは、この中に特別に部屋を与えられている春日王子の館を訪れるためだ。春日王子は大王が病の間、その代役として行事を取り仕切ってきた。春日王子は前にもまして宮殿の館にいることが多くなっているのだ。だから、哀羅王子が今日もこちらに来られたということだろう。
 哀羅王子は門をくぐると、大粒の雨が体を打ってきたのに驚いて、急いで走り始めた。
「ああ、濡れてしまった」
「急な雨で驚きましたね」
 部屋に入ってきた役人たちは肩に降りかかった水滴を手で払いながら、口々に突然の雨について話している。
 実言は手元の書類を見ながら、皆の会話を聞いていた。
 激しい雨音が館の屋根と言わず壁と言わず叩きつけて、部屋の中の会話は一時、聞こえづらくなった。皆が黙って手元の仕事を黙々とこなしていると、激しかった雨音は次第に小さくなった。
「ああ、もう止みますよ」
 雨のためきっちりと閉ざしていた扉を少し開けて、その隙間から空の様子を見た一人が、部屋の中に向かってよわばった。その言葉を聞いて、数人が扉の方へ向かって、隙間から代わる代わる首を出して外の様子を見た。雨が小さくなると、部屋のむっとする熱気を逃すために両方の扉を開けた。
 実言も開け放たれた扉から見える空を見た。だいぶ明るくなって、雨は止みそうである。
 哀羅王子が門をくぐってから随分と時間がたった。雨が止めば哀羅王子が春日王子の元を辞去するかもしれない。
実言は手元の書類を箱に入れると、立ち上がり皆が集まっている扉に向かった。
「もう、止んだかね?」
「岩城殿。止みましたが、水がはけていませんので、歩くのが難儀ですよ」
 激しい雨が残した水たまりがそこここにできていて、確かに歩くと泥が跳ねるのが予想できたが、雨で締め切った部屋は蒸していて気持ちいいものではなかった。
「でも、気分転換に外を歩いてこよう」
 実言は、扉に集まった者たちを分けて外へ出て行った。
 水たまりをよけながら、石畳の廊下の屋根の付いたところに入って行った。建物と建物をつなぐ屋根付きの廊下は、かっこうの雨宿り場所となっており、庭にいた人が飛び込んできて、見知った顔を見つけて立ち話をしている者が二組ほどいた。後は、庭を突っ切れば近道だが、ぬかるみが嫌で遠回りしてこの石畳の廊下を通って目的の館に行く者が早足で通り過ぎていくのだった。
 実言は廊下を早足で行く役人の邪魔にならないように石畳の端に立って、庭の方に目をやって考えた。
 哀羅王子は、ぬかるみの中を嫌ってこの廊下を通るだろうか。それとも、前に一度王子を追いかけた時に見たように、庭を突っ切って近道で門に向かわれるだろうか。
 実言は、雲間から青空が見え始めた空の下を歩きだして、前に哀羅王子が近道として歩かれた庭の方へ向かった。

 急な雨のせいで無駄にその場に足止めを食らった。やっと雨が上がったので、すぐさまその場を辞去すると申し出て、急いで出てきた。
 先ほどまでいた部屋は、入ると淫靡な空気が漂っていた。春日王子の本宅を訪ねると、昨日から宮殿の館にいると言われて、急いで宮殿に向かったのだ。館に着くと、すぐに取り次いでもらえたが、通された部屋で春日王子は傍に女を侍らせて酒をあおっていた。これでは、言いたいことも思うままには言えないし、言ったところで、どこまで本気で聞いてもらえるかもわからない。出直すべきだと思ったが、雨がひどくなるばかりで、止むまでの間、好きでもない酒に唇を湿らせて、春日王子の夢物語の聞き役に徹した。
 哀羅王子は、雨が止むと適当な理由を言ってその場を去った。一刻も早く我が邸に帰りたかった。早く帰るには近道である庭を突っ切って、宮廷の門に向かうのだ。雨あがりの水たまりが足どりを遅くしたが、あとは帰るだけだから、少しの泥はねは気にならなかった。
 春日王子の館での我慢は心の中を吹き荒れる野分のような行き場のない感情になって、哀羅王子には一点を見据えた視界しか見せなかった。だから、歩いていると、自分の前を横切るように入ってくるものに気づかなかった。
「誰だ!」
 哀羅王子は声を荒げた。
「ご無礼をお許しください。岩城実言でございます」
 庭の橘の樹に寄り掛かってヤマをはっていた実言は、庭を突っ切ることに一心不乱な哀羅王子を見つけて、その前に踊り出たのであった。
「何用だ!」
「はい!」
 前のめりの体を後ろにそらして、目の前に現れた実言との距離をとって哀羅王子は大きな声を出し、それに応えるように実言は返事をした。
「哀羅様!どうか、私とお話しする時間をいただけないでしょうか。どうか、あなた様と私だけの時間をいただきたいのです」
 哀羅王子は立ち止まって正面に立つ岩城実言を見た。
「お前には、前にも言ったであろう。話すことはない」
「いいえ、どうかお願いいたします。私の話を聞いてください。聞いた後で私をどのように好きにしてくださってもかまいません。それほどに私はあなた様と話をしなくてはならないと思っています」
「誰の差し金だ、父親か?」
「いいえ、私の一存です。あなた様が春日王子様を中心とする王族の勢力の中心におられるのはわかっています。誤解をしてはいけません。王族と臣下の間に対立を煽ろうなどとはい思っていません。誰かの差し金で、哀羅様を懐柔して王族を分断しようなどとは思っていません。我々には諍いなどないのです。これは、あなた様と私の個人的なことでございます。どうか、私の話を聞いてほしいのです」
「お前の話を聞いてどうなる。何を聞いて、私に何を求めるのだ。私が都にいなかった歳月は、私からいろいろなものを奪ったが、それをお前の慈悲で与えてもらおうなどとは思わん」
「私はそのようなことをしたいのではありません。私は、ただ哀羅様と胸襟を開いて語り合いたいのです。あなた様が話したくないとおっしゃるなら、無理にお話されなくてもいいのです。ただ、私の話を聞いていただくだけでいいのです」
「お前の、話を聞いて何になる」
「聞いた後はあなた様の思うようにされたらよろしいのです。先ほども言ったように、私を好きにしてくださってかまいません」
「お前を好きに?」
「はい。ですが、私の話を聞いていただいた後でございます。聞いてくださる前ではないですよ。二人きりで。できれば、あなた様のお邸でお話ししたい」
「お前が何を企んでいるのか知らんが、私の邸であれば、私は何をするかわからないぞ」
「ええ、何をされるかわかりません。しかし、私はあの思い出のお邸ですべてを語りつくせた後であれば何をされてもかまわない覚悟なのです」
「はっ、よく言ったものだ。お前の全てを奪い取ってやるぞ」
「ええ、覚悟の上でございます」
 二人は時に鋭い視線をからませたが、実言は時折体を半分に折って、乞い願う姿勢を取った。
「お前はそれほどまでして私に何を求めているのだ」
「思い起こせば眠るのが惜しいと思っていたほど楽しかった王子と過ごした日々を取り戻すことでございます。どうか、あの頃の思い出に浸り語りつくした後に、私たちの新たなお付き合いを始めたいのです。私の思いはそれだけでございます。王族も臣下もありません。哀羅様と私との十五年の歳月を埋めるための時間をいただきたいだけでございます」
 そう言うと、実言は雨上がりのぬかるんだ泥の中に両方の手と膝をついて腰を下ろし、その頭は水たまりにつかりそうなほどに下げて乞い願った。
 実言の姿を、哀羅王子は見下ろした。自分の左足の沓の先に頭が着きそうなほどに這いつくばっている姿を、見れば見るほどに自分の内側に沸き起こる感情を抑えきれなくなるのだった。
 跪く男と、それを見下ろす自分を傍から見た者にはどのように見えるだろうか。その身分の差や、置かれた状況を即座に判断するのだろう。しかし、当事者である我々二人の心はどうであろうか。傍から見る者の見ている通りであろうか?
 どちらが恥ずかしいと思っているか、どちらが優位な気持ちでいるだろうか。
 哀羅王子は、叫びだしたい思いに歯を食いしばって耐えた。しかし、その感情は右足に向かい、右足を振りあげて実言の左肩に下した。
 実言の左肩は哀羅王子が上げた足を受け止めた。泥水に濡れた沓が容赦なく実言の肩を汚すのであった。
「お前の言うことはいちいち私の癇に障る。お前は言葉を尽くせば私がわかってくれると思っているのであろうが、お前の言葉は薄っぺらで、軽々しいものばかり。私を惑わせたいだけであろう。私が簡単に乗ると思うのか。お前は子供の頃のたかが二年ほどにかけているようだが、それはもう十五年も前の遠いことで、忘れられていてもいい話だ。私にはその記憶は微かなもので、お前のこともすぐには思い出せぬほどに些細なものであった。それなのに、こうもしつこく私を追い回し、私の前を遮り邪魔をする。お前は、邪魔なのだ。邪魔だ、邪魔だ」
 その言葉に合わせて、哀羅王子は実言の肩に乗せた右足に力を込めて動かした。その重く上下に動く足に体を揺さぶられる実言は、下を向いてただ耐えるだけだった。
「お前の顔など見たくないのだ」
 哀羅王子はそう言って足に力を込めて、実言の体を上向かせると後ろに向かって蹴倒して尻もちをつかせた。実言はその力に耐えきれず、後ろに倒れて両手をついた。その姿で哀羅王子を見上げた実言に、哀羅王子は斜に立って、横目にその無様な姿を見下ろした。実言はその視線を受けて、離さない。我慢できなくなったのは哀羅王子で、下を向いた。
 哀羅王子の足先が実言から離れようと動いた時、実言は体をもとの前傾に戻した。
「王子、私がお話しすることをあなた様は信用ならないとおっしゃるが、私はどの言葉にも二言はございません。私の話を聞いていただき、やはり私のことを信用がおけぬ者と思われるのであれば、いかようにでもしていただきたい。これは、出まかせの言葉ではございません。あなた様の手であれば何をされようとも、私が望むことです。しかし、私のお願いを聞いても下さらないのに、私の家のものに手出しされるのはお止めいただきたい。特に、妻は私の唯一の女人で、代わりはおりません。もし、再びあなた様が我が妻に手を出されたときは、私のこの身は刃となり、あなた様に何をするかわかりません。そうでなければ、私は今も昔も従順なあなた様の僕でございます」
 実言の言葉に哀羅王子は後ろを振り向き、体は斜めのまま跪いている実言の姿を見たが、すぐさま前に向き直り足早に去って行った。
 哀羅王子が去っても実言は膝をついて平伏していたが、しばらくして立ちあがると、左近衛府の館に向かった。
 館の扉の前に着くと雨上がりの様子を窺うために扉の外に出ていた部下に見つけられて驚かれた。
「岩城殿!どうされたのです」
 扉までの階段を上がりながら、実言は右手を挙げて笑った。
「情けない姿を見せてしまった。少し散歩と思って歩いていたら、つまずいてしまってこのざまだよ」
 尻やひざ下は泥だらけで、上半身も泥しぶきが散ってひどい姿だった。気の毒そうな視線に目を細めて笑いながら、実言は館の中に入って、上司に早退を願い出た。
 馬に乗って帰ってきた実言は、すぐに夫婦の部屋に向かった。
「どうなさったの⁈」
 泥だらけの実言の姿は、馬を受け取る家人たちの口から口に伝わって、礼も侍女から聞いて簀子縁に出てきたが、その姿をみるとそんな言葉が出た。
「ああ、礼。へまをしてしまったよ。全く恥ずかしい」
 膝下、尻のあたりを中心に泥だらけの実言が恥ずかしそうに照れ笑いをして、簀子縁に立っている。
「泥だらけと聞きましたけど、これほどまでとは思わなかったわ。湯浴みの用意をさせるから少しばかり待ってくださいな」
 庇の間に入る前に、脱げるものは脱げと剥がされて、実言はやっと部屋の中に入った。湯浴みの用意ができたら、ついでに子供達も入れてしまおうと、実言の後に実津瀬や蓮も入れた。
 皆で夕餉の食事をした後は昼間の遊びに疲れたのか、子供たちは眠たそうに眼を擦った。子供部屋で子供たちを寝かしつけると、礼はあとを乳母や侍女たちに任せて、夫婦の部屋に戻った。そこに実言の姿はなく、すでに寝室へと入ってしまったようだ。
 夫の珍しい姿に驚いたが、何か理由があってのことだろう。ぬかるみに足を取られて転んだと言っていたが、そのようなへまをする人ではない。膝下や尻のあたり、特に左肩に泥がついていて、ただ転んだようには見えなかった。
 礼が寝室へ入ると、実言は御帳台の上に仰向けに寝転んで、両手を頭の後ろに組んだ腕枕で、天井を見ていた。御帳台へ礼が上がるまで、礼が寝室に入ったことに気付いておらず、浜床が沈むと天井から視線を礼に移した。
「礼。先に休んでいたよ」
 実言は目を細めて笑った。実言が転んで水たまりに落ちたという話は、瞬く間にこの邸に広まった。家人侍女たちはうちの旦那様がそんなへまをするもんかね。起こらないことが起こるなんて、いまから何か悪いことでも起こるんじゃないかと、顔を寄せ合って話している。実言にもその声が聞こえているのだろう。照れ隠しのように、笑っているように見える。
 礼は寝台の上に上がると、夫の足元から胸に向かって薄い衾を引き上げた。ふわっと甘い匂いが御帳台の中に広がり、実言の体をその匂いが包んだ。
「いい匂いだ。衾に焚きこんだの」
「この匂いは、眠りを誘うわ。今日はとんだ災難だったわね。あなたはお疲れなのよ。ぐっすりとお眠りになって」
 礼は実言の横に座って微笑み返した。実言は言葉なく、寝転がったまま頭を礼の膝に乗せた。
「礼からも、甘い匂いがする。私はこの方がもっとよく眠れそうだ」
 礼の膝枕を楽しむように、頭の座りのいい位置に落ち着けるように動かして、甘えたことを言った。
 衾からする香木と薬草を焚きこんだ匂いを二人で嗅いで、静かに笑った。
 実言は礼の膝の上で、ゆっくりと目をつむった。礼は湯浴みで洗ったばかりの瑞々しい夫の髪をゆっくりとすきながら、体の力を抜いて寛ぐ姿を見守った。
 冬の雨の水たまりに浸かった体は冷えて、疲れていただろうから、湯浴みや温石で体を温めて、食事も温かいものを用意した。寝室も香木と薬草の柔らかな香りで、日ごろの疲れを取り除きたかった。
 随分と目を閉じていた実言が目を開けると自分を見つめている妻と目が合った。礼は夫を優しく見守っていたのだ。実言はにやりと笑って礼の膝から頭を上げた。そして、膝の傍に置いていた礼の手を取って、本来の枕の場所に頭を戻しながら、ゆっくりと礼をわが身の方へと引き倒した。
「礼からする芳しい匂いも私を寛がせてくれるよ。心配させてしまったかな。全く私らしくないと……。今夜はこうして眠らせておくれ」
 礼は実言の胸の上に倒れてからじっとしていると、実言は立場を変えるように礼の体を下にして、その胸に抱き着くように頭を乗せてきた。そして、しばらくすると実言はそのまま寝息をたて始めた。

コメント