季節は秋から冬へと変わっていく。
大王のご病気で、新嘗祭は規模を小さくして、春日王子が代行して行った。それが終わると、新しい年に向けて準備が進んだ。
大王の病気は快復したが、大王の気持ちは弱くなった。あれ程自信に満ち溢れていた大王が臣下の前に姿をお現しになった時、皆は虚を突かれた。まるで別人を見るように小さくなられ、ランランと輝いていた目は暗く、顔を俯けている。
臣下一同は大王の回復を喜んだが、水面下では大王の後継者の話が出ていた。もしものことが起こってからでは……大王が身罷られてから……では遅い。
誰もが王族、臣下のうち、勝ち馬はどれか見極めて、いち早くそれに飛び乗ろうと考えていた。男たちは、誰と組むのが一番得策なのか探り合って、苦心惨憺している。
そのころ、礼はいつも通りに暮らしていた。
碧妃がお産のために実家に戻っていることから、後宮に行くこともなく、邸で家族とともに過ごして、薬草を作り小さな診療所で病人やけが人を診て、椎葉家の別宅で荒益の母親を診て、息子の伊緒理に薬草のことを教える日々だった。
大王の御子を身籠っている第五妃の碧妃の出産は、新年を迎える頃と予想されていた。実家に戻った碧妃は、気持ちも落ち着いて、食欲が戻ってひどく痩せていた体もふっくらとし、来るべきお産の準備を進めていた。
義父の園栄は、碧妃の気分転換や、有馬王子の情操のためにも、小さな宴を催すことにした。昼間は、一族の若者とその友人たちが集まって、蹴鞠や打毬に興じるのを、年長の者が飛び入りで参加して、失態をさらし、若者の力添えでうまい攻撃をして喝采を集め、と岩城本家の庭は賑やかな歓声に包まれた。女人や子供も庭の見える庇の間に出て、その様子を観戦し、応援に熱くなり、素晴らしい対戦に感嘆し、男たちの喜ぶ姿やおどけた素振りに笑った。夜は趣向を変えて、管弦と舞の宴を開いた。これは、一族から音楽の好きな者や、舞に定評のある者が選ばれて披露することになっていたが、下手の横好きばかりになってもいけないということで、宮廷楽団に頼んで、数人を呼んで本格的な演奏と舞を観ようということになった。楽団の中から選ばれたのが、実言や礼の友人でもある麻奈見ともうひとりの笛の玄人が呼ばれた。
日が西に沈みかけ、あたりも仄かに暗くなり、篝火が四方に点る中、庭に高く組まれた舞台に五人の少女が上がって、ゆっくりとした動きを合わせた舞を披露した。少女たちは岩城家の娘たちである。若い娘たちは、堂々と舞う者、恥ずかしがってはにかむ者もいる。その娘たちを簀子縁まで出て男たちが眺めている。一つの出会いの場になった。
その後は、食事が饗されて、宮廷楽団から頼んだ二人を交えて、演奏と舞の披露が始まった。
夕暮れ前のまだ明るい時刻に、礼は宴を楽しむために双子を連れて岩城本家にやってきた。それともう一つ、お産のために実家に戻った碧妃に会うためだった。邸に到着すると、侍女の淑が待っていて案内してくれた。
「淑、元気そうね」
淑は本家の熟練の侍女である。その経験、人柄を買って、実言は我が邸の侍女へと引き抜いた。自分の邸を持ったばかりで、経験のある人に家政を見てほしいということもあったが、後宮の碧妃の元に行く礼の付き添いというのが一番の狙いだった。そのうち、碧妃が懐妊し、情緒が不安定になってしまって、岩城家本家の侍女であり、経験豊かで礼とも気心が知れている淑は碧妃の傍に遣わせるのに適任とされた。碧妃と一緒に後宮に入って、その健康や後宮内の争いに目を配り、碧妃が実家に戻るとともに本家に帰ってきた。
「はい」
「私はあなたに、五条の方で働いてほしいけど、あなたは有能だからそうもいかないでしょうね」
「まあ、嬉しいこと。碧様のことが落ち着けば、呼んでくださいまし。私もお仕えしとうございます」
二人は顔を合わせて笑い合った。
岩城本家は都の大路の東側に広大な邸を持っている。結婚当時は実言と礼も、その広大な邸の離れに住んでいた。今の敷地は周りの土地を買い増してこの広さになっている。隣の敷地は長男の蔦高の邸であり、三条は岩城家の土地といってもいいくらいだった。
本家の庭に面した日当たりのよい東の部屋を、碧妃と有馬王子のために空けた。その部屋に向かって、礼は両手にそれぞれ双子の片方の手をつないで進んだ。大王の妃を迎える部屋のため、調度はどれも一級品ばかりだ。蔀の上がった部屋にはみな美しい透かし織の入った色とりどりの几帳が下がっている。一歩一歩と部屋に近づくと、大勢の人の声が聞こえてきた。有馬王子がご一緒なので、後宮の侍女たちも付き添って来ていて、大所帯になっているようだ。双子は知らない邸に気後れしながら、母の手に引かれてあたりをきょろきょろしながら歩いている。
「遠くに行ってはダメよ」
とっさに発せられた碧妃の声が聞こえて来た。もう少し進めば碧妃との久しぶりの対面である。
すると、簀子縁の角から小さな黒い頭が覗いた。礼と目が合って、にっこりと笑っておられる。有馬王子である。しかし、王子はすぐに礼の両手にぶら下がるようにして立っている同じ年くらいの二人の子供を見つけると、表情を固まらせてこちらを見ている。
「有馬様」
礼が声をかけると、再び礼に視線を向けたが、強張った表情のまま来た角を戻っていた。追いかけるように礼は簀子の角を曲がり、碧妃の部屋の庇の間に入った。
「礼!」
中から声がかかった。礼は部屋の中に進み、立てかけた几帳の中に座る碧妃を見た。その腕につかまって、上目使いに礼を見る有馬王子もいらっしゃる。
「碧様!お元気そうで何よりでございます」
後宮で十分な食事も摂れず痩せていった碧妃とは別人のように張りがありふっくらとして、輝きのある顔がこちらを見ていた。
「心配をかけたわね。今は体調もよくなったわ」
「ええ、美しいお姿ですわ」
大きなお腹が前にせり出していて苦しそうだが、碧妃の表情は明るい。
礼は促されて、碧妃の前に双子とともに座った。双子にとっても初めてのことで母親の手を握り締めて、その脇にぴったりとくっついている。
「有馬、礼のことを忘れてしまったかしら」
「……れい?」
幼い有馬王子は、随分と会わなかった礼のことは忘れてしまったようで、小首を傾げて呟いた。
「今日はとても楽しみにしていたの。大王のお体も回復されたし。後は、元気な御子を産むだけ。気分転換にと、お義父様が計画してくださった。小さな内輪だけのものとおっしゃったけど、私は管弦や舞を観るのが好きだから、とても嬉しい」
碧妃は少女のように笑ったかと思うと、すぐに母親の顔になって有馬王子の顔を覗き込んで、王子の呟きに相槌を打っている。
「二人が兄様と礼の子供ね。本当に兄様にそっくり。兄様は目の中に入れても痛くないほどにかわいがっていると聞いたけれども、それが目に浮かぶようだわ」
双子は自分たちのことが話題になっているのがわかるのか、二人で目を合わせて、お母様とその前に座る女性を代わる代わる見ている。
「はい。この子が実津瀬で、こちらの子が蓮です」
名前を呼ばれて、二人は不安そうな顔をしていたのに、その時だけは背筋を伸ばして父親譲りの切れ長の目尻を上げて前を向いた。
「頼もしいこと。有馬が成人する頃には、二人は有馬のよき相談相手になってくれるでしょう」
そういって、碧妃は有馬王子を見た。いつもは同じ年ごろの子供と会うことのない王子は、一つ違いの年上の子供に興味を持ったようだ。母親の傍を離れなかったのが、不意に立ち上がると礼の左側に座っている実津瀬の傍に来て、立ったままじっと見下ろした。礼の背中を伝って蓮が実津瀬の後ろに回ったので、二人と一人でじっと見つめ合う格好になった。大人たちはその光景を微笑ましく見守った。
それから、三人は母親の元を離れて、乳母たちに見守られながらぎこちなくではあるが、遊び始めた。それを見て、安心して碧妃と礼は二人だけで話し込んだ。
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