的を近くに置いて、弓を引く練習をしていた息子の孝弥を荒益は少し後ろから見守っていた。まだ七つでは力がないので、無理のない距離で弓を的に当てる練習をしているのだった。
孝弥はちょうど弓を肩の高さまで上げたところで、渡殿を渡る母の姿を見つけて、すぐにその手を下ろした。
「お母さま!」
孝弥は、階の下に駆け寄った。
「……孝弥」
外出から帰ってきた朔は、息子が走り寄ってきたのに気づいて笑顔になったが、階を降りかけた時に、息子の後ろに近づいた影が夫の荒益であることに驚き、笑顔は中途半端に止まった。
「朔……今日は姉様の様子を見に行ってくれたのだろう。いつもすまないね」
「あなた……幹様と話しできるのは私も楽しいですから。今日もお元気そうでしたわ」
朔が階の一番下に降りたら、息子の孝弥が朔の手を握ってきた。朔は息子の手を握り返した。
「五日ばかり前に大王のお傍に参られたそうです。大王のしっかりとしたお声にたいそう心強く思われたとのこと。それで、幹様もお気持ちが明るくなられたようでしたわ。表情や声も落ち着かれていました」
「そうか。姉様は気に病む質だから、気持ちが明るくなっているのならよかった」
孝弥が沓を脱いで母の手を引いたので、朔は階を登った。夫の荒益も同じように、沓を脱いで階を登りかける。
珍しいこと……。
朔は夫の行動に内心、不安になる。
幹様のところに行ったその日に朔のところに夫の荒益が訪れるのはまれだからだ。
朔と孝弥が庇の間から部屋の中に進むと、荒益も一緒に部屋の中に入ってきた。
朔は息子の汗を拭いてやるのを荒益は部屋の真ん中に座ってみている。
「弓の練習はどうなの?上手くなったのかしら」
母親の優しい手に甘えるように身を任せて世話を受けながら、孝弥は答えた。
「はい。お父様にも、上達していると言っていただきました」
「褒めていたところだよ。熱心に練習している」
「そう、あなたは暇さえあれば外にいるものね」
下の息子である孝弥は体が丈夫で、活発な子である。それに比べて、嫡男の伊緒理は病気がちで朔の手元を離れて、都のはずれの別邸で祖母と一緒に静養している。何も言ってこないということは、伊緒理はひどく体調を崩すことなく生活しているのであろう。
それから親子三人で少しばかり会話をして、孝弥は自分の部屋へと帰って行った。
そうすると、朔は荒益と二人っきりになった。孝弥の足音が聞こえなくなって荒益が話し掛けた。
「姉様は他に何か言っていたかい?」
「大王はお元気そうではありますが、時に御身に不安を覚えられて、しきりに幹様と姫様を心配されるそうです。幼い姫の行く末を案じられて。幹様も、不吉なことはおっしゃらないでとお励ましになられたとのことですが、とても気弱になられることがおありになるそうです」
「そうか……大王はこの度のご病気にたいそう苦しまれたようだから、思いつめられているのであろう」
荒益は顎に手を添えて、考えているふうだった。
朔はその様子を盗み見る。荒益が考えに耽っている様子に、息苦しさを感じる。宮廷内の男の部屋に行って、その腕の中でしばし悦びに浸っていたのだ。夫にその不貞を嗅ぎつかれるのではないかと不安になるのだ。荒益は、その心が新しい妻へと移って朔とは形式的な繋がりだけであっても、大っぴらに不貞を許しはしないだろうと思っていた。
荒益はふっと顔を上げた。朔の視線が荒益の上げた視線とぶつかった。すると、荒益は目元を緩ませて笑って。
「懐かしい香りだ。着物に焚きこんだの?」
と聞いてきた。
「ええ……。少し」
「お前が帰ってきたときに懐かしさを感じたが、それはその匂いだったのだな」
荒益は嬉しそうに言った。
「お前が初めてここに来た時の頃を。あの頃の楽しく過ごしていたことが思い出されるよ」
荒益が続ける言葉に、朔は顔を俯けてしまう。
帰る前まで、自分は幹妃の元で楽しく話をしてわけではない。宮廷内で男と狂おしい情事に身を任せていたのだ。優しく話してくる夫に、どんな顔を向けられるだろうか。
朔の様子をどう思ったのか、荒益はそっと自分の右に座る朔の左手に手を伸ばした。
「朔」
なぜ、この日なのだろうか?
夫が自分に優しく接してくれる日が、なぜ、春日王子との濃密な逢瀬の後なのだろうか、と朔は思った。
「お前も、あの頃を思い出してくれたの?」
朔の左手を甲から握った荒益は、その手に一層力を込めて言った。朔は、強い力に驚いて、顔を上げると、そこには朔の瞳を射抜くように見つめる荒益の視線とぶつかった。
荒益と形ばかりの夫婦になってしまったのは、荒益が新しい妻を迎えた時からだ。
それは、夕暮れ時で部屋の中に灯りをともしたくなるような時刻だった。荒益が部屋に入ってきて二人で向かい合って座った。荒益はすぐにものを言わず、向かい合ったまま朔を見つめているのだった。その顔がとても苦しそうで、言葉を発しようと口を開けると止まってしまうようで、荒益は喉に手をやってさすった。
「……どうしたの?……お加減でも悪いの?」
動きの不自然な夫に、もしかしたら体の調子が悪いのではないかと、朔は心配した。
「……違うんだ……朔。お前になんと説明したものか」
そこで、心を決めたようで荒益はゆっくりと言葉を選んで話し始めた。
「お前の知らないところで、こっそりと事実を作ってしまうことを、私はできないから。その前に、きちんとお前に話しておきたいのだ」
朔は首を傾げた。夫は何を言おうとしているのか、いいことなのか、悪いことなのかも全くわからなかった。
「お話して。……あなたは何を言おうとしているの?」
「……」
それでも荒益はしばらく沈黙してからやっと。
「朔……私は、新しい妻を迎えることになった」
と言った。
朔は、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
そして、その言葉を理解した時には、どのような表情をしたらいいのかわからなかった。自然と、荒益から顔を背けて横を向いた。
「朔!」
荒益は、すぐに朔の膝に置いている拳を握った。拳が震えているのを感じると、すぐに手首を引き寄せて自分の腕の中に入れて、倒れこんだ朔を強く抱いた。
「朔、私にとっては、お前が一番の妻に変わりはない」
世の中では、妻の知らぬ間に新しい妻を迎える夫が多いというのに、こんな断りを言う夫も珍しいことだと、朔は思った。しかし、朔はその事実を受け入れるのは難しいことだった。すぐには言葉を発することができず、木の人形のように動かなかった。ただ自分が傷ついただけで、夫を責めるつもりはないのだが、夫にかける言葉は見つからなかった。
夕餉時になっても、朔は息をしているのかと心配になるほど静かで、目の前の食事を取ろうしない。荒益は朔を心配して傍を離れず、あれこれと世話をした。
夜、褥の上に二人で再び向いあった時に、朔はやっと言葉を発した。心の中で動いていた感情がやっと、落ち着いたのだった。
「……朔?」
「優しい……あなた」
朔が言うと、荒益は朔の手を取った。
「苦しいわ……こんな苦しいことはない。でも、あなたも同じくらい苦しいのね」
「朔……美しい妻よ。許してくれなどとおこがましいことは言わない。全ては私の罪だ」
そう荒益は言った。
今は二人して苦しんでいるけど、その苦しみに同じ味はしない。きっと、荒益の苦しみは旨くて放しがたいものになり、朔はまずくて耐えられないものになるだろう。潜在的にそう感じる思いの中で、策は荒益の手を引き寄せられて抱かれた。
「愛しい人よ」
荒益の言葉に安堵したいのに、朔の目からは勝手に涙がこぼれるのだった。
荒益の優しく触れる手に身を任せて目を閉じたままだった朔は荒益の呼びかけに、薄っすらと目を開けると、荒益は今にも涙がこぼれそうなほどに悲痛な顔をしている。こんな顔をされたら、自分だけが傷ついてはいられない。朔は荒益の頬をその手で撫でた。しかし、お互いを思い合ったとしても、それは長い間同じ思いのままではいられないのだ。
それからの荒益が帰って来ない夜のこと。
これまでだって、荒益が帰らない夜はあったが、寂しさは感じなかった。荒益が他の女人の元にいるなんて露ほども思わなかったからだ。しかし、今はまざまざと自分ではない別の女人に優しく接している情景が想像できて、平静ではいられない。自分だけに向けられていた愛の行動が、自分だけのものではなくなったのだ。朔はまんじりともせず、夜を明かした。
荒益は変わらず朔を大切にしてくれた。しかし、連夜の一人寝は、朔を落胆させた。
しかし、これは朔だけが特別に受けている仕打ちではない。自身の両親をみたときに、母親は一番目の妻であったが、父親は次々に新しい妻を迎えて、朔の母親を含めて五人の女人を妻にして、それぞれに子供ができた。妻たちはそれぞれが時には仲良く、時には反目しながら暮らしていた。世の女人が皆、夫のその愛を独り占めすることはできないのだ。
朔は自分に言い聞かせた。
しばらくすると、荒益の新しい妻が懐妊したと聞こえて来た。生まれた子は女児で、荒益は初めての娘に心を奪われたのだった。
生まれたばかりの娘に会う合間に会いに来る夫に、朔は次第にその愛の行為を拒んだ。最初は、荒益も理解しながら、それでも気長に優しく接していた。
朔は優しい夫の腕についつい抱かれたが、その胸からは乳飲み子の甘酸っぱい匂いがして、ありありと朔の知らない別の家族を持ったのだと思い知る。朔は、握った夫の手をゆっくりと下して、その腕の中から離れた。
それから朔の心は干上がった泉の底のように固くなり、荒益の優しさは忍耐に変わった。
それでも、荒益は朔に歩み寄って、時に優しさを見せた。部屋に来ては話をして、二人で庭を歩き、そっと手を差し伸べて体を支えてくれた。朔の好みの草木を植えて、美しい花を見せてくれた。
その優しさは、荒益との関係を見直したい、修復したい気持ちにかられるが、荒益は新たに三人目の妻を迎えて、そこにも娘が生まれた。それでも荒益は朔を一番と言ってくれるが、皆を等しく愛していた。
何度も言い聞かせたわかり切った思い。これは自分ひとりが背負った仕打ちではない。この世の女人は皆、夫を独り占めできないのだ。
だから、今度荒益が歩み寄ってくれたら、自分も歩み寄らなくてはいけない、と朔は自分に言い聞かせるのだった。
しかし、そんな時に限って現れた荒益の態度は事務的で、一方的に伝えたいことを伝えると、子供達の顔を見て満足したように帰っていく。
「行かないで」
と、言えたらいいのだろう。今の自分の気持ちを素直に言葉にできたら、荒益はその思いをわかってくれて、朔の言うことを聞いてくれたはずだ。だが、大王の妃に推挙されるほどに美しいと言われてた自分がないがしろにされたままその気位を捨てて、お願いなどできるだろうか。その気持ちが邪魔をして、荒益との関係は改善できないまま来てしまった。
そして、出会ってしまった。鬼に魅入られたように春日王子と。
春日王子との関係を終わらせたいのに、離れられない。会えば、王子はsその言葉と行動で、朔の気持ちをからめとって放さない。言葉で朔の美しさをたたえて、その動作で朔の肉体から心までも恍惚とした気持ちにさせる。荒益との断たれた関係を王子に揶揄されて、もう会いたいくないと思ったが、二度目に会ったときに王子は朔を独り占めできることを喜んだ。朔はためらいながら、最後は春日王子に身を任せた。
自分の容姿を褒める言葉は心をくすぐって、昔その美貌を褒められて蝶よ花よと育てられた朔の気位を満足させてくれた。そして、忘れていた性愛の悦びを思い出させてくれた。春日王子はその腕の中で何度も朔を悦ばせた。朔はたまらず春日王子の背中に腕を回してつかまった。
しかし、春日王子には多くの妻がいたし、宮廷に勤める女官を愛人にし、身の回りを世話する侍女をひと時の恋人にして愉しんでいた。朔もその中の一人である。独り占めできないことに苦しんでいたのに、王子との間には独占したいという欲求はない。
所詮、自分も多くの愛人の一人であると自覚している。だからこそ、深みにはまってはいけないのだ。そこから抜け出て、椎葉荒益の妻の心を取り戻さなければいけない。
だから、荒益が朔の部屋を訪れてくれた時は、朔も歩み寄りたい。
でも、荒益との仲を修復し、荒益の一番の妻になると決めた気持ちを許せなくなる出来事があった。それさえなければ、朔は、夫に素直に話ができていたかもしれない。
世の女人は夫の愛を独占できないのだ。余すところなく、そうであるのだと、自分ひとりが苦しんでいることではないと、言い聞かせてきたのに。そうではないことを思い出してしまった。
後宮で、子供の頃に妹同然にかわいがっていた従姉妹の礼に数年ぶりに会った。あの子だけは、一人の男の愛を独占していた。そして、その愛の独占は、自分が享受するはずだった。自分が得るはずだった妻の座に、従姉妹の礼が座っている。
朔の心は冷えて、荒益への気持ちが柔らかくなることはなかった。
心はその場限りであろうと、春日王子のほうに傾いて、その腕の中で心地よい夢を見る。
しかし、荒益に優しくされれば、やはり荒益の方へ心はなびいている。勝手な、都合のよい自分の感情に弄ばれて、朔は時々混乱する。
今も、荒益は大体後宮に行った翌日にふらりと現れて、幹妃のことや後宮の様子について聞いてくる。いつも、労いの言葉を忘れず、二人の子供達のことを気に掛けて、優しく接してくれる。
朔も、横をつんと向いて、どんな話を聞いても笑うものか、といった態度から、何かの間合いに、荒益の目を見て、歯を見せて笑う。荒益は嬉しそうに目を細めていると、二人の間には明るい空気が生まれてくるのだ。
なのに、なぜ後宮に行ったその日に荒益は来たのだろう。懐かしい匂い、新婚時代を思い出させる香りに、荒益は朔の心の揺らぎを感じて、その心の距離を縮めようとしている。なのに、朔は素直になれない。少し前まで夫ではない男の腕の中にいて、この体には自分も気づかないその男の痕跡が残っているかもしれない。だから、夫の中に飛び込んでいくことはできない。
夫の目元が下がって優しく微笑んでいる。
「……朔」
夫の手が伸びて、膝に置いた朔の手を取った。朔は夫の手を見ていた。力強く握る夫の手は、ゆっくりと引いて朔を自分に引き寄せようとした。朔は、驚いて夫の手を振り払うように手を引いた。
「……疲れているの。……ごめんなさい」
夫の手を払いのける理由にはなっていないが、朔はそう言って、顔も背けた。
「そう。後宮のしきたりは気苦労も多いだろう。すまないね。よく休んだらいい」
荒益は、変わらない声音で言って、立ち上がった。朔は顔を背けたままなので、夫がどんな顔をして、どうしているのかわからない。衣擦れと足音が遠ざかっていくのを聞きながら、朔は涙がこぼれた。
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