Infinity 第三部 Waiting All Night20

白椿 小説 Waiting All Night

 礼は約束を守って椎葉家の別邸に通って、荒益の母君の薬作りと息子の伊緒理の勉強を見ている。荒益の母君は、気分の良い日もあれば、前日から寝込んでいる日もあった。気分がすぐれない日は、母君との会話もそこそこに退出して、荒益の息子の伊緒理の部屋で、薬草の話をした。
 伊緒理は本当に真剣で熱心で、礼の話すことを一語も聞き逃すまいとしていた。礼はその姿に圧倒される思いだった。
 その日も、伊緒理の部屋の机の前に並んで礼は持ってきた薬草の摘んだばかりのものと、乾燥させたものを見せながら、その効能や煎じ方を話した。ふと、伊緒理の机の上にある紙の束が気になり礼は尋ねた。
「これは、教えていただいたことを書き留めたものです」
 と伊緒理は言った。
「まあ、見せてちょうだい」
 伊緒理は恥ずかしそうに下を向いたが、手を伸ばして、紙の束を礼の前に差し出した。紙は貴重だから、書き損じたものの大きな余白部分を使って礼が話したことを書き留めている。間に礼からもらった植物を挟んでいる。きちんとまとめられたものをみて、礼は感心するのだった。
「伊緒理は私の話を本当に熱心に聴いてくれているのね」
 伊緒理は言葉を発することはなく、恥ずかしそうに、しかし、褒められていることを嬉しそうに微笑んだ。
 向こうから簀子縁を歩く足音が聞こえて、すぐに庇の間に荒益が現れた。
「礼」
 荒益とは、邸の館の完成披露の時に会った時以来だから、一月ばかりが立っていた。
 挨拶もそこそこに、伊緒理の隣に座った荒益は訊ねた。
「伊緒理はどうかな?あなたの話をきちんと聞いているだろうか。無理を言ってお願いしているのだから、いい加減な態度を許しはしないつもりだけど」
 礼は荒益の方へ向いて座りなおした。
「伊緒理は、それはとても熱心に聴いてくれています。一度聞いたことは覚えていて、伊緒理のやる気が伝わってくるわ」
 礼は自分と伊緒理を重ねてしまう。礼が医術の道に入ったのは、叔母の住む束蕗原で過ごす中で、弟子たちともに去の講義を聴いて、興味を持ち、叔母に頼み込んで医術を本格的に学ぶことを許されたからだった。自分の真剣さをわかってもらえたのは聞いたことを一言も聞き逃さず覚えて、それを示せたことだった。それと同じように伊緒理も聞いたことを全て記憶しようと努力している。
「そう。こんなにやる意を見せるなんて、思ってもみなかった。自分に好きなことがあるのはいいことだからね。伊緒理、これからも礼様から教えていただくことをよく聞いて励みなさい」
 荒益は隣に神妙に座っている息子に、含めるように言った。伊緒理は下を向いたまま「はい」と小さな声で返事した。
「……ところで、礼、この邸の庭は丹精していて見どころがあるんだ。あなたに見せたいのだがね」
 と、誘った。
 礼は頷いて、促されるまま立ち上がり庭へと出て行った。
 程よく背の高い木と低い木が配置され、季節に偏らず年中花を楽しめるように様々な花が植えられている。二人は肩を並べて植物の間を縫うように庭の中を歩いた。
「あなたの邸の庭に比べたらここは小さなものだね」
 荒益が言った。先日の邸の披露の日には、もちろん荒益もよんでいて、実言とともに男たちで集まって話し込んでいた。
「まあ、そんなことないわ。椎葉家の趣味の良さを感じます。素晴らしいわ」
 礼はこの庭に興味があり、こうして歩けることが嬉しかった。
 歩きながら、荒益は母親の体調について尋ねた。最近は、寝付くことが多くなって、荒益も体が空けばこの別邸を訪れて、その様子を見ているのだった。
 荒益の母君の体は徐々に弱っている。礼はそれを隠さずにいうと、荒益も否定しない。
「気持ちを安らかに過ごしてもらいたいと思っているよ。お年もお年だから、完全に治るということはないだろうけど、苦しまれる姿を見るのは嫌なのだ。あなたが処方してくれる薬湯はとても、母上を楽にしてくれるみたいだ」
 荒益は庭の中の四阿へと礼を誘って、置いた椅子に腰かけるように促した。礼は言われるままに座った。
「何度も言うようだけど、あなたがここへ来ることを承知してくれたこと、本当に感謝している。母上は、とても落ち着いて、ご自分の体のことを考えられるようになった。それまでは、弱っていく自分の体を気に病んでおられたのだ」
 自分の得た知識が人の役になっているのは、嬉しく思ったが、幼馴染の荒益がかしこまって頭を下げるのにはにかみ、また申し訳なく思うのだった。
 荒益は立ったまま、四阿の柱に手を置いて庭を見ながら、呟くように言った。
「そして、息子の伊緒理のこと。これが私にはとても嬉しいことだった。あの子は、生まれた時から体が弱くて長くは生きられないだろうと言われていてね。伊緒理も体が苦しいので、部屋の中で寝てばかりだった。特別に明るい子というわけではないが、より静かなおとなしい子になった。下に弟がいるのだが、その子は体も丈夫で、利発さが目立って、私たち大人は弟に期待するようになってしまったんだ。決してそんなことを言葉にするわけはないが、それは態度に出るのだろうね、伊緒理は察しているんだよ。自分が期待に添えていないことを気にしていた。肝心な時に熱が出るものだから、元気な時でも体が苦しいと言って弟に譲って、自分は衾をかぶって寝てしまう。体の弱い自分を演じさせてしまったのかもしれない。それが続くと、もう弟ばかりを当てにして、伊緒理は嫡男だけどそのように扱われなくなった。邸の中でも、居場所がなくなってね。それを不憫に思った母上が、こちらで一緒に療養しようと連れてきたのだ。朔も、弟ばかりが期待されるので、そちらにかかりっきりになって、伊緒理に細かな世話ができなくなってしまった。しかし、伊緒理はあなたに出会って薬草に興味を持ち、とても熱心に、真剣に学んでいる。あの子の自信になっているのだ。今は前ほど、寝込むこともなくなった。あなたが来てくれたことは、あの子にとっても本当によかったことだ」
 荒益は言って、礼を振り向いた。礼と目が合い、微笑んだ。
「礼、ありがとう」
 荒益は、座っている礼の前に片膝をついて跪き、礼の膝の上に置かれた右手を取った。
「母上や伊緒理のことが少しずつうまくっているように思える。きっとあなたのおかげだ。あなたは、昔から前向きで暗いところがなくて、皆の心を和ませてくれる人だった」
 ぐっと礼の手を握ると、荒益は礼の右目を見つめた。
 礼は急に荒益の手の感触を感じた。手の甲から握られた手は、優しく包まれて離れない。荒益の目を見ると、荒益も礼の右目を覗き込むように見てる。黒い瞳の中に吸い込まれそうな感覚になる。
 何も後ろ暗いことをしているわけではないのに、荒益の瞳は怪しく光って、これから何かが起こりそうな気がして心がかき乱される。
「荒益?」
 不安になって礼は荒益の名を呼んだ。
「実言は、知るかな。私があなたとこうして二人きりで会っていることを」
 荒益は表情を変えずに、その目はじっと礼を見ていたが、やがて目元を緩ませて笑った。
「風が出てきたね。邸に戻ろうか……あなたをいつまでも引き留めてもいけないからね」
 礼はゆっくりと荒益の手の内から自分の手を引いた。荒益が握っていた手は、いつの間にかその力は緩められていた。立ち上がって邸に戻るときには、いつもの荒益で柔和な雰囲気をまとって、礼を侍女の待つ部屋まで案内してくれた。

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