礼は鏡の前で化粧をし、実言が贈ってくれた簪や紐を組み合わせて横の髪を高く結い上げて、後ろの髪はそのままたらした。控えめな色だが織りから浮き出てくる模様が美しい背子を着て、袍も落ち着いたものにしたから、添帯は少し派手にしてはどうかと侍女の澪が言うので、礼は赤い添え帯を付けた。前に垂らす帯の裾には、金や緑の糸で蔦の刺繍が入って豪華である。
礼の準備があらかた終わると、隣の部屋で待たせられていた子供達は勢いよく部屋の中へと飛び込んできた。
「お母様、きれい!」
着飾った礼を見て、娘の蓮は真っ先にそう言った。
二人とも、母が出かけてしまうのを感じ取ってか、そばを離れたがらない。礼は頭を撫でたり、手を握ったりして二人のおしゃべりを聞いてやる。
「礼様、車の準備ができました」
澪が伝えに来て、礼は腰を上げた。
「二人とも、仲良くお留守番をしていてね」
双子は寂しそうな顔で母を見送った。
礼は車に乗り込むと、ため息をついた。これから行くのは、後宮である。岩城家から大王の第五夫人となった碧妃の館へと向かうのだ。
実言が北方の戦から帰ってきて、昇進し、その生活も落ち着いた頃、後宮から使いが来た。碧が礼を後宮に寄越してほしいと言ってきたのだ。礼には何も知らせず、実言は礼が後宮に伺うのをやんわりと断った。
碧は全く知らないことだが、礼は碧を介して知り合った大王の第三夫人である詠妃の手引きにより大王の弟である春日王子に凌辱されそうになった。その日、碧との会話から自分が懐妊したことに気づいた礼は、自分の身体を奪われるくらいならと、手元に持っていた眠り薬を春日王子に飲ませて、その難を逃れた。実言の元に戻ることができた礼はことの重大さに思い詰めて、死んで償うと言ったが、実言が春日王子に妻の行動に赦しを乞い、身代わりになると談判した結果、春日王子は実言を北方の戦へ行かせることを決めた。北方の戦は激戦を極めており、この戦に行くことは実言の死をもって償えということだったが、実言と礼は一縷の望みを持っていた。そして、実言は生きて帰ったのだ。
何も知らない碧が、また、良かれと思って詠妃に礼を橋渡ししてしまうかもしれない。そんな危険にさらさないためにも、実言は礼を後宮には行かせたくなかった。
しかし、大王との間に男児を生んだ碧は、その日々の精神的な緊張から、心を許せる礼に会いたいというのだった。切々とその思いを紡いだ手紙に、ついに当主の園栄も、碧の望みを聞いてやってくれと言い出した。
園栄が乗り出して来て、実言は渋々承諾した。しかし、条件をつけた。
碧にしか会わないということだ。
そして、侍女は礼が信頼している縫が妊娠、出産で束蕗原に留まっているため、岩城家に仕える老練な侍女を供にして連れて行くことにし、礼を片時も一人にしないことにした。碧は、礼が来ることが嬉しくて、そのような条件にこだわらない。
そのようなやり取りがあって初めて礼は実言から話を聞かされた。そして、実言に説得され、今日の訪問となったのだ。
実言から再び後宮へ行き、碧の相談にのってやってほしいと言われた時、礼は否とは言わないが、視線を落として黙った。
礼の気持ちが痛いほどわかる実言は、礼を抱きしめて、謝るばかりだった。
「すまない、礼。お前の思いはわかっているのに、こんなことを頼んで。私はお前を守ることができない不甲斐ない男だ。許しておくれ。しかし、もう二度と同じ目には合わせない。それだけは私は約束する。だから、どうか、碧を助けてやってくれ」
礼は、すぐには頷くことができなかった。しかし、愛する夫の力にも、碧妃の役にも立ちたいという思いはあるのだ。微妙な表情で実言を見つめると、実言も目をそらすことなく、礼を見返している。実言の目を見ていると、すうっとほぐれてきて、実言に全てを委ねる気持ちになった。
「実言……怖いわ」
礼の気持ちに、実言は、押しつぶしそうなほどの強い力で抱きしめた。
「大丈夫。お前をあのような恐ろしい目には合わせないから」
礼は、ようやく夫の言葉に頷いた。実言は微笑んで、より一層礼を抱きしめた。
「……実言、く……苦しい……」
礼は息を詰まらせながら言うと、実言は腕の力を緩めた。
「ああ、すまない。礼、恩にきるよ」
と言って、二人で笑い合った。それから、礼は碧の館に行く準備が進められた。
今も、礼は車の中でじっと一点を見つめて心を鎮めようとしていた。
碧と親しくしている第三夫人の詠妃に、王宮内の春日王子の部屋に行けと言われた時に、その意味することを考えると、どうか容赦してほしいと懇願したがはねつけられたこと。春日王子の部屋へ行かざるを得なくなり、そこで起こったことを思い出すと自然と身震いがしてくるのだった。
「礼様、大丈夫でございますか」
見かねた侍女の淑(よし)が声をかけた。礼は顔を上げて、淑を見た。
「……ええ、大丈夫よ」
「だいぶ顔色が悪いです。……実言様から少しご事情をうかがいました。私のできる限りを尽くしますわ」
淑は気張った様子で、両手の拳を胸の高さで握りしめて、礼に微笑みかけた。礼も釣られるように笑い返した。
淑は礼より十五も年上の岩城家に仕える侍女である。長年の勤めの中で、様々な対応の術を知っており、また、子を産み育ててもいるので、大王の御子を生んだ碧の話もよく分かるだろうと考え、礼の供に決まったのだった。
礼は淑の人柄に好意を抱いておりその雰囲気が好きでだいぶ馴染んできたところだ。いつもは岩城本家の邸に仕えており、礼の供に決まった時から、実言と礼のいる離れにも仕えるようになり、礼や子供達の世話をしてくれる。今日は、離れの階に車をつけたころを見計らって、淑は母屋から離れに渡ってきて、礼が階に現れると一緒に車に乗った。
後宮に着くと、車を降りて控えの庇の間に通された。しばらく待っていると、案内の女官が現れた。礼と続いて淑が長い廊下を歩いて館の入り口である渡殿の前までやってきた。碧の館に渡る廊下には別の女官が待っていて、礼の後ろから少し進み出た淑が差し出した箱を受け取り、中の木の板を改めた。廊下の中央に立っていたのを、すっと身を引いて廊下の端に寄った。それはこの先に行くことを許可するということだった。礼は、先頭に立ち前に進んだ。
渡り廊下を進んだ先には、館の入り口となる廊下に、侍女が二人立っていた。二人に案内されて、礼は、その先の廊下を進み、碧がいる居間へと向かった。
御簾が巻き上げられている入り口から、少し頭を下げてくぐって部屋の中に入った。奥へ進むと三方に立てた几帳が見えて、回り込むと、そこには匂い立つほど美しいままの碧が座っていた。
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