北の空は黒い雲が立ち込めていた。あちらは雨が降っているのであろうと、都人は皆、北の空を眺めて言い合った。そして、やがてあの雲はこちらに来ると思って、皆が家路を急いだ。
稲妻が光ったのを見て、宮廷の官吏たちは恐ろしがった。しばらくして耳をつんざく雷の音に、皆が身を縮こまらせる。しばらくして、雨雲は都の上空に広がり大粒の雨を降らせて、宮廷に出仕していた者たちは足止めを食らう形となった。
その時宮廷の詰所にいた実言も雷の音と、雨音の激しさに家路に着ける状況ではないと感じて途方に暮れていた。廊下に出て、雨にあたらないところで上空を見上げたが、一向に止む様子はないので、しばらく宮廷で止まるしかないと思った。
宿直所に向かうと、そこには荒益と右大臣の息子、そして顔が隠れて見えないがもう一人の男の三人がなにやら額を付け合わせて話し込んでいる。
実言を見咎めた荒益が声をかけた。
「実言!こっちだ」
臆面もなく実言に手を振る荒益に気づいて、実言はその傍に行った。
「やあ、この雨では身動きが取れないものだね」
「そうでしょうね。私もこの雨で帰れないくちです」
右大臣の息子、雪平が眉根を寄せて困ったという顔をして答えた。
そこで、雪平の奥にいて顔の隠れていた男の顔が見えた。それは、顔は知っている程度の仲である、橘家の子息、定彬だった。
「私も出仕していて、この雨で帰れない者でして」
と、控えめに言って、体を縮こめている。
「今夜、私は宿直でね。準備しているところに雨で帰られない雪平や定彬がやってきて、たわいもない話をしていたところだよ」
荒益は庇の間の柱に身を預けて、あぐらをかいている。
「しばらく、私もそのたわいもない談義に加えていただきたい」
と、実言はその輪に加わるように、荒益の隣に座った。
「どうぞ。しかし、実言殿には無縁な話かもしれませんな」
雪平が言った。
「私が無縁?」
「今、我らは女人について、話しておったのだ。近くて遠い存在の美しい女人についてね」
荒益は言って、苦笑した。
「誰にも恨みを買わぬような態度とはどういったものかと話し合っていたのです」
「恨みとはいかような」
実言はもったいぶっていう三人の会話についていけず、怪訝そうな顔をして訊いた。
「やはり、実言殿には無縁と見えます。……または、上手に秘匿しておられるのかな。そうであれば、その極意を教えていただきたいものです」
雪平が言った。
「私などは、どんなに気をつけていても、いつの間にか妻は知っているのです。私に密偵でもつけているのかと思うくらいに」
冗談めいた、しかし、困った顔をして定彬がいう。
そこで、やっと実言は三人が自分たちの複数の妻や愛人たちのことを話しているとわかった。
「妻のあてこすりをどう受け流したものかと、相談していたところですよ」
と雪平は口の端をあげて自嘲的に笑った。
ここにいる三人といったら、荒益は、正妻の朔がいるが、次男が生まれた後、一人の女性を新たに妻に迎えた。政略結婚であるが、荒益はその妻を大切にし、翌年には娘が生まれた。荒益にとって娘は初めてで、この上ない喜びを感じた。その後、もう一人妻を迎えている。どの妻にも一人子供をもうけて、一族の繁栄に繋がり、喜ばしいことだった。
右大臣の息子、雪平は荒益と同じ年である。こちらも、有力貴族の娘を正妻に娶ったが、他にも妻を迎えている。
橘定彬も、父親は有力な貴族であり本人も将来有望な青年である。実言とは二つ年下のはずだ。これまで接点はないが、その姿は宮廷で見て知っている。彼も妻と子供を持っていたが、愛人がいるようだ。
三人の話題は、妻への対処方だった。どの妻も平等に思っているのに、妻たちは不公平だと口々に責めてくるというのだ。
「偏りがないようにそれぞれの部屋や邸に赴き、子供に何かあれば、すぐにそちらに向かいと、いろいろと心を尽くしているのに、それぞれ妻たちは誠意がないなどと恨み言を言っている」
雪平は口を尖らせて言う。
「お前は妻以外に、恋人を作りすぎなのだ。恨みをかうのも頷けるというものだ」
荒益が言って笑っている。
「妻は妻、恋人は恋人さ。その重みは違うもの。恋人たちもそれはわかっているのに、妻はわからぬものかね」
「妻は己だけを見てほしいのさ。私は、正妻の朔から全く嫌われてしまったようだ。もう、会話も少なになってしまって、話すとしても子供のことばかり。……お互いのことを深めるにも心は遠くに離れてしまったようで、どうもしっくりとこないと、愚痴っていたところさ。……だから実言には無縁な話と言ったのだ」
荒益は話の途中から実言に顔を向けて説明する。
実言は目で会話するように、目を細めたり見開いたりして、先に集まっていた男たちの話にあいづちを打った。
「実言殿には、方々から新しい妻候補のお話があるでしょう。しかし、かたくなにお断りになっていると聞きます。なぜでしょうか?」
雪平が訊ねる。
「私などから見たら、うらやましい限りです。あなたほどの人であれば、妻たちも文句は言いますまい。妻の立場で居られるだけでいいという者もいるでしょうし」
定彬が言った。あなたほどというのは、岩城一族の一員であるということであろう。
「実際どうなのです?このまま、妻お一人ということもないでしょう。妻とするなら誰でもいいというわけにもいかないでしょうから、今は相手を慎重に見極められているところでしょうか」
雪平が身を乗り出して訊く。
「愛人と呼ぶ人はいらっしゃるのでしょう?ここは口の固い者ばかり。まして、同じような事柄を抱える者の集まりです。他言いたしませぬ」
定彬の問いかけに、実言はより目を細めただけだった。しかし、それが含みを持って笑んだように見えた雪平がすぐに問うた。
「いかがなのですか?妻に気づかれぬ秘訣などあるのなら、教えを乞いたいものです」
「期待に添えることなど何もないよ」
「ふーむ。なんともおっしゃっていただけないか。となると、実言殿の泣き所は奥様なのでは?実言殿のお気持ちがどこかに向かわないように、きつく言われているのではないですか?一度、それらしきことが発覚して、ひどく懲らしめられてからは自重されているのでしょう」
定彬が憶測をさも真実のように言って、頷いている。
「なんと!実言殿を独り占めしようとは。奥様はとても欲張りなお方のようですね」
「実言殿が遠慮されることもないでしょうに。お好きにされたらいいものを。それほどの恐妻とは知りませんでした」
「恐妻なんて!実言の妻のことは幼い頃から知っているが、そんな女性ではないよ」
雪平と定彬が当て推量を考えなく口にするので荒益が口を挟んだ。
「女は変わるもの。結婚前は可憐で、声を出すのもやっとというほどだったものを、結婚後はとたんに気性が変わってしまう。私は実感しているところです」
定彬が言った。
「女人を一緒くたに語るものでもないよ。短絡な」
と荒益が言った。
「そうですね。確かに、可憐なままの女人もいます。私も、そのような女人に出会い、今も忘れられない気持ちでいます」
定彬が遠い記憶をたどるように視線を遠くにやって言う。
「ほう、それはどんな女なの?初耳だな?」
雪平が面白そうに声を弾ませて、定彬に聞いた。
「ははは……私にだって心の奥に秘めておきたい思い出もあるものです。……長い間、秘密に邸に通っておりました。可愛らしい女で、思いの外私は入れ込んでしまった。いずれはきちんと世に憚らずにすむように段取りをしていたところだったのに。どこへ行ってしまったのやら。いつの間にか姿を消してしまいました」
「はっきりと言ったらいいのに。愛しくてたまらない、離したくないとね。思いの外入れ込んだなんて、気取った言い方だな」
荒益が、定彬の言葉が気に障ったのか、口を出した。
「そうですね」と感慨深げに定彬は答えた。
「仲が深まると一日は我慢できても二日は顔を見ずにはいられないと頻繁に通っているのだから、嫌いなわけはない、むしろ会いたくて仕方ないのだという気持ちをわかってくれていると思っていましたよ」
「言葉にしなかったということかな?荒益が言うように。しかし、態度には十分に表していたのだろう」
雪平が言った。
「ええ、それは、私もこれほどに思いあげるかと思うほどに愛しく思っていました」
「だから、妻に迎えられるように準備を始めていたところだったといわけだ」
「そうですね」
「で、その女人はどういった素性の」
「地方の有力豪族の娘です。都のしかるべきところに仕えていました」
「ほう、全く知らない話だな。私とお前の仲でまだ隠し事があるなんて」
と雪平は言った。この二人は日頃から仲良く、様々なことを語り合っているのだろう。
「それで、行方を探したのか?」
話を進めるために、荒益が先を促す。
「秘めた仲でしたから、おおっぴらには聞けなくて、女を知っている者たちにそれとなく聞いてみるのですが、女の周りの者もどこに行ったかはわからないというのです。大人しい女で、あまり自分のことを話すこともなく、何かの事情で去ることになってもひっそりと去っていたようです」
「あまりにも、ひどいじゃないか。恋しいだの愛しいだのの言葉は少なでも、毎日のように女の元に通っている男の気持ちを汲み取ってくれてもいいものを。定彬は将来のことも考えていたというのに」
雪平は友人の肩を持った。
「どのような事情であろうな。そなたの気持ちを真実と信じきれなかったのかな。もしかしたら外にもっと良い相手でも現れたのではないか」
荒益は考えられることを口にした。定彬は口を明けたまま、荒益の可能性を受けいれたくない、という表情をした。
「そのような、二股を掛けるような娘とは思っておりません。清らかな心根の娘でした」
「それはいつ頃のことだ?」
「一年ほど前のことかな」
雪平は顎に手を添えて、上を向いて考える素振りをし、はっとして定彬を見た。
「どうも、その頃お前の妻が身籠ったことがわかった時期ではないか?女はそういった情報には敏いから。お前は、自分がどこの誰だか明かしていたのだろう。それで、自分のところに通ってきてはいるものの、やはり妻が最愛であり、己は遊びかと思って決意して郷へ帰って行ったのではないか?」
定彬は、雪平の仮説に納得した。確かに、妻が初めての子供を身籠った時期だ。その話が、愛しい女の耳に入ってもおかしくないことだった。
「女も考えたのかもしれぬな。黙ってその関係を続けていればいずれお前の何番目かの妻になれるかもしれないが、その時今の愛情を丸々得ることができるとは限らない。子ができたなら、それはまた、妻との間に新たな情愛が芽生えて、自分の元に来ることもなくなると」
「そんなっ!」
「人の心は自分の思うようにはならんよ。言葉を尽くしても、信じきれないこともあるものだ」
定彬の呆然とした顔を密かに見やって、慰めるように荒益が言った。
「あの女は特別だった。どんなことがあっても、守るつもりであったのに。思うことがあれば、なぜ言ってくれなかったのか」
「お前も、言葉を省いてきたのであろう。自分がしなかったことを棚に上げて、相手を恨むことはできないよ」
荒益は、定彬をたしなめるように言った後、外に目をやった。
「傷が思いの外深くて、今まで話すこともできなかったのだな」
時間を経て友人が打ち明けた秘密の苦しみを、慰めるように雪平は言った。
「自分の気持ちを安らげてくれる最高の女人と思っていたのだ。そばにいるだけで、私は満ち足りた思いに浸れたものだ。これほどの女はいないと思っていたのに。そのような女に会えたことが奇跡のようであったのに」
とさらに定彬は肩を落とした。
「どうした?青臭いことを言い出して。まるで初恋の女のようではないか」
最後に、雪平は茶化すように笑ったが、皆は黙った。
「そんな昔の話をしている間に、雨が上がったよ」
荒益が廊下の方に身を乗り出して、空を見上げた。
上空は強い風が吹いているのだろう。黒い雲がどんどん南に向かって流れていく。
実言も荒益の言葉で、空を見上げた。真っ暗な空から残り雨が少しばかり降っている程度で、北の空には雲間から星が見えた。
「お前のわだかまった思いも、この場で稲妻に打たれて散り、雨に流されたと思え。女人のことを一つ勉強したのだ」
雪平はその場を明るくしようと、からかうように言って定彬の肩を叩いた。
「さあて、私は仕事をするとしようかね」
荒益は宿直の準備をすると言って立ち上がった。
「私もこの雨であれば濡れてもいいとしよう」
実言も立ち上がった。
「実言殿、また、このような機会があればその内に秘めた艶なお話をお聞かせください」
そういった話があるわけでもないのに、定彬は憶測をまことしやかに言った。
実言は目を細めて、定彬と雪平をみると、部屋を出る荒益と共に廊下に出た。
「全く、何もしゃべらない。嘘とも本当とも明かさないのは、いつものことだね。自分の妻の嘘くらい、否定してもいいものを」
「荒益が否定してくれた」
二人は静かに会話しながら歩いた。
「恐妻とは、全く見当外れもいいところじゃないか」
「そうだな。しかし、私はあんな風に思われているのかと勉強になった」
「全く、下世話な話さ。暇つぶしだよ」
吐き捨てるように言った荒益と別れて、実言は馬の用意を待って、供とともに邸に帰った。
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