Infinity 第三部 Waiting All Night123

小説 Waiting All Night

 翌日、礼は天高く陽が登った頃に、目を覚ました。礼は何刻だろうと、身を起こすと、庇の間の衝立から縫がひょっこりと顔を出した。澪も縫も、礼が自然に目を覚ますの待っていた。
「お目覚めですか?」
 そう言って、礼に近づいてきた。
「ご気分は?」
「悪くない……よく寝たわ。……見守ってくれていたのでしょう……ありがとう」
「お腹はどうですか?」
「うん……苦しくないわ……このまま様子を見てみよう。……お腹の子も、じっと我慢してくれている。ありがたいこと。私もこの子を守るわ」
 礼は澪が運んできた薄い粥を少量口の中に入れた後、縫と澪と他愛のない話をした。礼がぼおっと遠くを眺めるので、二人は礼を横にし、衾を引っ張って寝るように促した。礼は黙って言うことを聞き、また眠った。縫と澪は小さな妹を見るように礼を見守った。
 陽も西に傾いた頃に、礼は再び目を覚ました。
 簀子縁では澪が蔀を閉じようとしているところだった。
「起きられましたの?」
 澪は他の侍女達に蔀を閉めさせて、自分は礼の元へとやってきた。
「ご気分はいかがです?」
「本当によく寝た。お腹の子は、ゆっくりと休みたかったのね。本当にすまないことをしたわ」
 澪は頷いて、礼に水を入れた椀を差し出した。
「ご気分が良ければ、実津瀬様と蓮様を連れてきてもよろしゅうございますか?お二人ともお母さまが自分たちの部屋に来ないのを心配しておいででしたわ。ごはんを食べているのかとか、まだ眠っているのかと、尋ねられて大変でしたわ」
 礼は頷いた。
「私も会いたいわ。連れてきてちょうだい」
 澪は笑顔で部屋を出ていった。
 昨日と同じよう、いや、それ以上に大きく賑やかな足音が聞こえてくる。
「お母さま!」
 庇の間に入って来るなり二人が声を揃えて呼んでくれて、礼は体の中から嬉しくなった。
「二人とも寂しい思いをさせたわね。ごめんなさい」
 礼は二人の手を握って、ふっくらとした頬を撫でた。
「お母さま、ご飯はたくさん食べたの?」
「よく眠ったの?」
 礼はうんうん、と何度も頷いた。蓮はくしゃくしゃになった紙を握り締めている。文字を書くのが好きなこの子は、この年にしては達者な筆跡で、将来が楽しみな娘である。それを礼の目の前に出してきてみろという。
 礼は手に取って、蓮と実津瀬と共に眺めた。
「上手いわね。蓮、とてもきれいな字!」
 そう言って蓮を見やると、蓮は恥ずかしそうに首を縮めたが、まんざらでもない嬉しそうな顔を見せた。
 礼は蓮の頭を撫でながら、明日はあなたの部屋で書き溜めたものをもっと見せてねと言った。そして、反対側にいる実津瀬を振り向いて。
「実津瀬、あなたも笛や踊りを見せてね。あなたが好きなことをやっている姿が見たいわ。ね」
 そう言って手を握ると、実津瀬はにっこりとして礼の顔を見上げた。
 それから礼は最初に実津瀬の髪を蓮と一緒に櫛で梳いてみずらを結った。次に実津瀬と一緒に蓮の髪を梳いて、礼がその髪を二つに別けて高い位置に留める結い方をしてやった。蓮は本家の年上の従姉妹たちと同じ髪型になったと嬉しそうに頬を染めている。実津瀬は蓮に、かわいいね、似合っていると言って蓮の桃色に染まった頬をちょんちょんとつついた。蓮は嬉しそうな恥ずかしそうな表情をして、袖で顔を隠す。実津瀬は子供心に思ったことを臆面もなく言う子で、なぜ隠すの、かわいいのにと追って言うのだった。
 それを見ている礼も侍女の縫や澪も、まるで実津瀬は実言を小さくしたようだと思うのだった。
「実津瀬、あなたが褒めると、蓮は嬉しいのよ。ね、蓮!」
 礼が蓮に言うと、蓮は礼の肩に隠れて。
「いや~実津瀬、嬉しいの!」
 と言って、礼の背中に顔を伏せて笑っている。
 みんなが笑顔になれた時に、澪が言った。
「はいはい、お母さまはもうお休みの時間ですわ。実津瀬様、蓮様、お部屋に戻りましょう」
「お母さま、もう眠いの?」
 不服そうに蓮が言った。
「お母さまはもう少しお休みならないといけないのです。二人とも、聞き分けてくださいな」
 礼自身が実津瀬や蓮を離すことはできないだろうから、澪や縫が心を鬼にして子供達を部屋から追い出さなければならなかった。
 礼は澪と縫に促されて立ち上がる二人の手を最後まで握っていた。
「お母さま、また明日ね!」
 二人は乳母や縫に繋がれた反対の手を礼に向けて振った。礼は微笑んではいるが、名残惜しそうに二人の姿が簀子縁から見えなくなるのを見つめた。しかし、そんな感傷に浸るのも束の間で、澪が上げていた御簾を下ろした。
「礼様、横におなりあそばせ」
 礼は飲んでいた薬湯の椀を澪に渡して、すぐに横になった。衾を顎の下まで引き上げてもらうと目を瞑る。すると、すぐに眠気が来た。お腹の中の子は本当にゆっくりしたかったのだろう。王宮の部屋で横になって手当てを受けている実言のことを思い始めるとそれを逸らすように意識が遠くなる。礼は引きずられるままに眠りに落ちて行った。
 次に目を覚ましたのはもう陽もとっぷり落ちた夜だった。
 部屋の中は燈明が点いていて、明るかった。
「目が覚めましたか?」
 声を掛けて来たのは縫だった。
「よく眠られていましたわ」
「お腹の子が眠らせてくれるのかもしれない。激しく動き回って、この子のことを無視したようなことばかりしていたから」 
 礼は自分のお腹をさすって言った。
 椀に注いだ水を縫に差し出されて、礼はのどを潤した。夏の終わりの暑さが邸全体を覆い、蒸し暑く、ときおり邸を吹き抜けていく風が涼しさを与えてくれる。
 縫は着替えを用意してくれて、冷たい水に浸した白布を固く絞って礼の体を拭いた。寝ているだけでも、じっとりした汗をかいている礼はとても気持ちが良かった。胸の谷間から下腹にかけて礼は自分で拭いた。少しばかりお腹が出ている。小さな命が育っていることの証が、私はここにいるよと主張し始めたようで、礼は愛情をこめて自分の体を拭った。
 それから、洗った衣に着替えて、褥の被いを剥ぎ取って新しいものにやり替えた。
 人心地着いたら、澪が食事を持ってきた。粥と、軟らかく煮た川魚である。
「少しは精をつけませんと」
 澪が持ってきた粥は少し多めに盛られているように思った。
 礼は黙ってゆっくりと粥と魚を食べた。
「王宮からは何か知らせはあったかしら?」
 ふっと言った礼の言葉に、縫も澪も首を横に振った。
「いいえ、何も。渡道殿からも何も連絡はありませんわ」
 礼は粥の最期の一匙を口へ運んだ後、その表情は曇った。それから澪が持ってきた冷えた枇杷を三人で食べた。
 そこへ、渡道が不意に現れた。
「礼様、お食事中のところ、よろしいですか?」
 礼は口に入れた枇杷を急いで飲み込むと、頷いた。
「園栄様がいらっしゃっています。今は、毬様の部屋で寛がれておられます。園栄様は礼様とお話しされたいとおっしゃられておられますが、どうでしょうか?」
「何と、断りを言う理由があるでしょうか。お父さまとお話ししたいわ。お母さまとのお話が終わったら、すぐにこちらへお連れして。……私は見苦し格好だけど、お許しいただけるかしら……渡道、いいかしら」
 礼は堰を切ったように言った。渡道は頷いて。
「園栄様もそのことは重々承知でございます。毬様とともに礼様にお話ししたいと仰せです」
と言った。
「こちらにお越しいただいて。お願い」
 礼が肩から薄黄色の上着を着せかけてもらっていると、簀子縁を静かに歩いてくる足音が聞こえた。
「失礼するよ」
 開いたままの妻戸を園栄がくぐり、その後ろから毬が続いて入ってきた。
「お父さま、褥の上でそれも見苦しい姿で申し訳ありません」
 礼は身をよじって頭を下げた。
「いや、気にするな。……礼、お前の活躍はよく聞いているよ。遠いところを一人馬に乗っていくなんて、想像もしなかったことだ。そのおかげで、実言が春日王子を追えたのだろう」
 園栄は円座の置かれた場所に腰を下ろした。その横に毬が座り、反対側に渡道、澪、縫が座った。
「……お父さま、実言様をお見舞いくださったのでしょう?私が王宮まで参られればいいのですが、少しばかり体が弱っていて、そうできない日々でございます」
「いいのだ、いいのだ。気にするでない。それより、実言は王宮の医師によって手当てを受けて血も止まり、目を覚ましてもいいものを、一向に目を覚まさない。医師もなぜ意識が戻らないのかわからないと言っている。後は、実言の心と体次第ということらしい。……なんとも勝手な言い分だと思うがな。今朝も行ってその顔をみてきたが、きれいな顔をして寝ているよ。だが、呼びかけても何も反応はしない」
 園栄はそう言って、隣に座っている毬を見た。
「礼、私もその話をだんな様から聞いて、どうしたものかと思ってね。実言が目覚めればよいが、そうでないならこのまま王宮にとどまっているもの考えものだわ。もう、こちらで引き取ろうという話になったのだけど、あなたはどう思う?」
 毬が背筋を伸ばして冷静に言った。
「……はい、目覚めない実言様を王宮に留めておくよりも、この邸に連れ帰って私が看病したいと思います。お母様がおっしゃるようにその方が安心ですし、子供達の賑やかな声が聞こえれば、実言様も目覚めるかもしれませんわ。どうか、実言様をこの邸に吊れて帰ってください。お父さま、お願いします」
 礼はそう言って衾の上に突っ伏すように頭を下げた。
「礼もそう言っていますから、明日にでも実言を連れ帰ってくださいな。あの子の命が尽きるにしても、私や礼の目の届くところで尽きてくれないと、私たちの気持ちが収まりませんわ。ね、礼」
 と毬は言った。
 乱暴な言いようだが、礼も実言が生きるも死ぬも、自分の目の前で見たいと思っているので、毬の言うことに異論はなかった。
「息子ながら、私の手中ではなく、女人の手に委ねられるものかね」
 と園栄は口を歪めて笑った。
「あなた様が思う以上に男子は女人のものかもしれませんわね」
 毬は口元を袖で隠して言った。
「ありがたいことだね。では、明日の夜、実言をここへ連れ戻ろうか。いいかね、礼?」
 と園栄が言った。
 礼は深く頷いて、「お父さま、お願いします」と言った。
「礼も覚悟の上ですわ。あなた、お願いしますね」
 と、毬は言った。
「女人は強いものだね。私にもその情を持ってもらえるか、考えものだ」
 園栄は言って、毬を見た。
「あなたは女人を見くびり過ぎだわ」
 毬は言って園栄を睨んだ。話を逸らすように、園栄は礼に言った。
「礼、お前は少し痩せたのではないか?実言のことで心配をかけているのだろう」
 園栄は礼のほっそりとした頬を心配して言った。それを追うように、毬が言うのだった。
「礼は、実言を心配していることは確かですけども、それだけではありませんわよ」
 園栄は毬が何を言いたいのかわからず、首を傾げると。
「礼は子を宿していているのですよ。男は妻が我が子を身籠っても気づかないものですわね。我が子ながら実言は、鈍感な子ね。ねえ、礼」
 と毬は礼に言った。
「本当なのか、礼?実言には言ったのか?」
 と園栄は詰め寄った。
「言っていないわ。言っていたら、後宮に行かせたりしないわ。礼が黙っていて、実言も気づかなかったのでしょう。我が子ながら、情けないことだわ」
 と毬は言って、夏の暑さを吹き飛ばすように団扇を扇いだ。
 毬と妊娠のことを話したことはないが、わかっていたようだ。
「……春日王子を追って旅をしたりして、お腹の子を流してしまうのではないかと、心配で、体が落ち着くまでは誰にも黙っていようと決めていたのです。でも……お母さまや周りの者たちは、言わなくても気づいていました」
「そう……体はどうだ?」
「安静にしておかなければなりません。後宮に行ったりして、また体に無理をさせましたから。王宮には行きたくてもいけません。……お父さま、どうか、実言様を連れて帰ってください。お願いします」
「わかった。礼、早く横になりなさい」
 そういう園栄の腕を毬が掴んで持ち上げる。
「あなたが立たなければ、礼は横になれませんわ」
 と言って、立ち上がらせると、二人は連れだって部屋を出て行った。夜遅いから、今夜園栄は毬の部屋に泊まるだろう。
 礼は澪から薬湯の入った椀を渡されて三口ほど飲んだ。
「黙っていても、みんな知っているものね」
 と毬が自分の妊娠を見破っていたことを言った。
 礼は椀を澪に返して、それから縫に手伝われて横になった。二人は目を瞑る礼を見守っていると、見る間に礼は眠りに落ちて行った。

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