礼は邸の中に土足で入った。邸の中は土足の足跡があらゆる方向に向いて無数に散らばっていた。ものが散乱した部屋は、それが戦時であることを現していて、この邸のどこかに朔が寝かされているのかと思うと礼は心を掴まれる思いだった。
一人くらい見張りを置いていはしないかと、礼は足音を忍ばせて奥の部屋へと向かった。相変わらず月の前には雲がかかって、薄く透けて届く仄暗い月光を頼りに礼は几帳に覆われた小部屋を見つけた。
誰もいないようだが、音をたてないようにそっと几帳に近づき、中を覗いた。
何もない部屋の真ん中に薄い褥が敷かれ、腰まで衾をかけて横になっている小さな背中が見えた。
朔だ。
小さな背中を見て礼は一歩足を踏み出した。そこで、床がきしんだ。
「……春日王子?」
暫くの静寂の後、寝ている朔が声を出した。
「……いいえ、私よ」
礼は立ち上がり、几帳の内へと入って行った。
朔はその声で名乗らずとも誰だかわかり、身を起こそうとした。
「だめ、そのままでいいわ。楽にして」
礼は駆け寄り、背中から朔を支えた。
「……礼?なぜ、ここに……」
朔は消え入りそうな声で言った。
「朔を追いかけて来たのよ」
「……そんなことを……」
「酷いじゃない。私を置いていくなんて。……朔、私はあきらめが悪いの。やはり、私と束蕗原に行って、子供を産みましょう。そのためだったら、どこだろうと追いかけて行くわ」
礼は朔をなじるようなことを少しばかり笑い混じりに言って、朔の背中をさすった。
「……水は飲んだ?今夜も暑いから、飲んだ方がいいわ」
礼は褥の傍に置いてある竹筒を取って、背後から朔を抱き起し、水を飲ませた。
「……礼」
朔は礼の名を言うが、その先の言葉が出てこなかった。礼は朔の思いを慮った。
「いいのよ、朔。朔は私を助けようとしておいて行ってくれたこと、わかっているわ。だけど、私一人が助かっても私は嬉しくないの。二人でこの場を乗り切りましょう」
「礼……」
暗い部屋ではお互いの顔など見えないが、礼は朔の表情がわかった。そんな顔をしなくていいのに、と礼は思うのだった。本当に血の繋がった姉と同じである。その姉を他人事のように見ていることはできなかった。這いずり回ってでも、その助けになりたかった。
「朔、子供の頃に私が不安な夜は付き添ってくれたでしょう。私も、あなたの支えになりたいわ。今夜は不安ね。私も不安よ。手を取り合って、この夜を越えましょう」
礼は朔を横に寝かせて手を握った。朔は礼と向かい合って、自分からも礼の手を握った。
実言は一人、隊列を離れて樹々の茂みのないひらけた崖に立って、遠くに見える稜線を眺めた。
その朝を、燃え立つような明るい光が薄く照らし始めた。白い稜線の縁から燃え盛る赤がちらちらと覗き出て来ている。
その夜は長いものだった、いや、短かったか。それは、今すぐには判断できないものだった。しかし、時は満ちた。
先に動くことが得策である。月の隠れた夜にお互い準備はできただろう。
麓では、山頂に登った春日王子を助けるために波多氏の援軍が来たが、すでに大王軍に囲まれた山裾を見て、何もせず帰って行ったと聞いた。実言率いる大王軍は、このまま圧倒的力で春日王子を包囲し捕らえるつもりだ。
実言は決断する。
振り向くと知らぬ間に岩城家から連れ来た高瀬がいた。まだ十代と若い男である。一人でこの眺めの良い場所に来たと思っていたが、心強い部下が後ろに控えていた。
「準備は良いか?」
実言は言うと、黙って深く頷いた。
もう一度。時は満ちたのだ。なんの迷いもなく春日王子と対決する。
春日王子陣営にとって夜明け前の静寂はいきなり破られた。一本の弓矢がどこを、誰を、を定めずに春日王子の陣営に飛んできた。その矢が一人の男の背中に刺さり、大きな声を上げた。
それが合図のごとく、大王軍から次々に矢が撃ち込まれた。
山頂の手前で、距離を取って睨み合っていた両者だったが、大王軍の突然の攻撃に春日王子の陣営は驚き、慌て、すぐには反撃ができなかった。
その慌てぶりを見透かしたかのように、大王軍の歩兵が剣を振り上げて山頂に向かって坂を走り込んできた。
雄叫びのような怒号のような兵士たちの声が、夜明け前の山中から沸きあがっている。樹々に止まっていた鳥たちが驚いて羽ばたき、小さな獣たちもせわしない鳴き声を上げて、山の中を走り回った。
山全体が夜明け前だというのに、樹に絡む蔓の先端までも目覚めさせるような騒ぎである。
春日王子の軍勢は次々と大王軍の兵士が坂を駆けあがり飛び込んでくることに、虚を突かれて押し込まれたが、山頂から弓を撃ってすぐに応戦した。
山頂手前で両軍が入り乱れて、剣を振るい弓を射ていたが、すぐに春日王子の軍勢は後退を余儀なくされた。前線は割れて、崩れるように後ろに下がり、大王軍が山頂に登るのを許した。
山頂手前に掘った堀を隔てて、応戦し合ったが、敵を防ぐためのその堀も負傷した味方が落ちて埋まり、木の橋を渡されてその上を大王軍の兵士が渡って行った。
「進め!進め!怯まず、前進だ!」
大王軍は後方から小隊を束ねる隊長の檄が飛んだ。
「耐えろ!後退してはならぬ!耐えるのだ!」
押される春日王子の軍勢も後方から、大きな声が飛び交い後退を食い止めようとした。
春日王子は、山頂広場で都から一緒につき従って来た者たちと波多氏の兵士たちと共に夜明け前を過ごしていたが、だんだんと山頂間際の戦いの怒声が近づいてきて、顔を上げた。
春日王子はぐるりと男たちの顔を眺めた。
今からの決戦に決意した赤い顔、怒ったように目の吊り上がった顔、無表情で何を思っているのかわからない顔、恐怖に引きつって笑っているように見える顔、絶望して蒼白な顔、各々いろんな表情をしている。どの表情も、春日王子に好ましく思えた。それぞれの思いがこの極まった状況で自然と出たものだ。どのような覚悟でこの旅路を供にしてきたのかを表したようだ。
春日王子の表情はと言ったら、笑っていた。
「王子!大王軍は頂上に向かって登りつめています。突破されたら、我々は!」
「邸へと向かえ!邸で迎え撃つ」
うっかりと各々の内面を現した顔は一旦引っ込めて、春日王子の軍勢は走り出した。数名は味方が集まっている山頂への道を守る方へと走った。その場に呆然としてしゃがんだままの者もいる。春日王子を五人の男が囲んで邸へと向かった。
夜明け前の奇襲が功を奏したようで、大王軍の隊は前進し始めた。実言は隊の中盤にいて、その前進に合わせて一緒に進む。寝ぼけた顔をしていた者が、前方からの大声にしゃんとして前を向くのを見ながら、実言は一人で口元をほころばせた。緊張をほぐすのにはよかった。
進軍するにつれて実言は前方へと進んだ。
山頂入り口にたどり着いたところで、前線の三列目に実言は立ち、目の前の戦いの状況を眺めた。
本来なら、後方で前線の戦況報告を聞くべきなのだが、矢も石も飛んでくるほど前に出てきたのは、ひとえに春日王子を生け捕りにするためだった。
大王軍がこのまま山頂に進んだ時、春日王子の顔を知らない者が、武功をたてるために敵を攻撃して春日王子を殺めるかもしれない。実言は前線の戦況を見て、攻めるところ引くところを見極めて、最後には春日王子と対面し話がしたかった。
実言の面前に広がる春日王子の軍勢の様子は、敗走の手前である。人形に似せて組み立てた木に葉の茂った枝を括りつけて兵士に見立てている。暗闇の中で大勢の兵士が詰めているように見せていたのだ。
大王軍から弓を射ると、人形兵士の後ろに隠れていた本物の兵士たちは身を縮めると、耐えきれずに背中を向けて山頂の味方のところへと逃げて行った。
「進め!進め!」
逃げたら追う。けしかけるように声が飛んで、小さな獲物を追う肉食獣のように大王軍の兵士は春日王子の兵を追いかけた。
「邸の中までは入るな。それからむやみに敵を傷つけることも禁じる。見ればわかるだろう。相手はもうそれほどの力は残っていない」
実言は傍にいた部下に言った。
山頂の春日王子の軍勢は、大王軍と対峙していた兵士が逃げ戻ってくるのを援護するため、弓を射た。全員が戻ってくると、手で持って持ち運びする垣をもって、大王軍の前を塞いだ。大王軍がこの垣を破って来たら、邸の正面から、周りの木の上から矢を射て応戦するつもりだ。
礼は朔の手を握って、夜が明けるのを待っていたところ、外が騒がしくなったと思ったら兵士たちが邸の中に入ってきた。体を横にしていた朔も、怒鳴るような声が近づいて来ると、その体を起こして礼と二人で顔を見合わせた。自然と体を寄せ合い、抱き合った。
春日王子ではない男の声が邸の中に響いたとともに、部屋を囲う几帳が内側に倒れて来た。
朔は礼の肩に顔を伏せて、礼は恐怖に悲鳴が出そうなのを自分の手で塞いで耐えた。
几帳の倒れる音と共に、短甲をまとった春日王子が飛び込んできた。
「朔!」
春日王子は飛び込むと同時に二人の女人の姿に驚いた。
「なぜおまえがいる!」
礼をみて春日王子は怒鳴り、朔の礼の体に回している腕を掴むと立ち上がらせるために引っ張った。
「どこへ、どこへ行かれるのです。朔の体は動けるほど回復していません!」
礼は朔の体に抱き着いて、春日王子に朔を取られまいと抵抗した。
「すぐに敵が雪崩れ込んでくる。私の傍にいろ」
春日王子は礼の手を取って朔からはがすと朔を抱きかかえた。
「待って、私も一緒に連れて行ってください」
「お前は、突き放しても突き放しても私の前に現れる。湧いてくる虫のようなしつこい女だな!どけ!」
春日王子は礼の体を突き飛ばした。
「礼!礼!」
同じように子を宿した礼の体が板間にたたきつけられるのを見て、朔は悲壮な声で礼を呼んだ。
「朔!」
春日王子の腕の中に収まった朔は礼に向かって腕を伸ばしたが、触れられなかった。
春日王子は倒れた几帳を踏みつけて邸の奥の崖に面した舞台の方へと向かった。
仰向けに転んだ礼は、春日王子に連れていかれる朔を追いかけて、すぐに体を起こし四つん這いになって膝で進んだ。春日王子の周りを囲む男がその前を阻み、一人の男が礼の目線まで体を落として向かい合った。
笠縄だった。
礼は、その知った男の顔を見て、はっとなった。
「もうこれ以上はやめた方がいい」
強い力で、礼の肩を抑えて諫めた。礼はその力に気圧されたように、その場に座り込んだ。
「仲間を集めろ!」
「舞台だ!舞台へ行け!」
男たちが続々と邸の中に入ってきた。その中に朔が女人一人だけいるのを思うと、礼はやはり朔を追わずにはいられなかった。
座り込んだ体をもう一度起こして追おうとしたら、後ろから肩を掴まれた。驚いて振り返ると、そこには荒益がいた。
「礼、だめだ!朔を追いたいと思ってくれるのはありがたいが、君を行かせられない。行ったら、岩城家も春日王子との関係を疑われかねない。実言に会わせる顔がないよ。行ってはだめだ」
荒益は振り向いた礼が自分の手に反して後ずさってまでも朔の方へ行こうとするので、その体を抱いた。
「礼、いいんだ。私がもっと早くここにたどり着けば、朔を助け出せただろうが、遅かった。私はどこまでも朔を救えなかった」
荒益は無念そうに声を絞り出した。
荒益は春日王子陣営の兵士に連れていかれた礼を追うために、遠回りをして邸の裏まで来たのだ。男たちが、庭に集まっているところを、見つからないように影を踏むごとくそろりそろり進み、台所から邸の中に忍び込んだ時に、庭の方から男たちが声を上げて、邸の中に入ってきた。物が倒れる音がして、一つの部屋の中で話し声がする。女の声は礼のもの。細心の注意を払って、声のする方へ近づいた。部屋の中には大勢がいる気配がして、下手に動けず下した蔀の陰に隠れて様子を窺っていた。
礼の抵抗する声と人が大きく動く様子。そして、礼の名を呼ぶ、朔の声が聞こえた。それに応えるように礼も朔を呼んだ。直後に、部屋の中にいた大勢が遠ざかって行く気配がして部屋の中を見たら、礼を残して春日王子に抱かれた朔がこの部屋を出て行ったところだった。
それを追おうとする礼を止めるために、荒益は飛び出したのだ。
「よかった。君だけでも助かって、よかった。一緒に連れていかれていたら、大王軍の前に晒されて盾にされていただろう」
礼の激しく震える体を抑え込んで言った。
礼は荒益の声は聞こえていたが、荒益が言うような気持ちにはなれない。朔の体はどうなってしまうだろう。お腹の子もこの苦しい状況を耐えられるだろうか。
コメント