縄を解かれて放たれた犬のように、背の高い草の続く林の中を実言の斥候は走りだした。その後を馬に乗った実言たちが追う。
途中、絶命している二人の男を見つけた。一人は知らない男だが、もう一人は実言の下で働いている男だった。
「軒(のき)尾(お)……」
実言は馬から下りて男の傍に跪いた。乾いた黒い血が上を向いた左顔を覆っている。
暫くその場で、亡くなった者の冥福を祈った。
探索の末、先に放った斥候は一筋の道を見つけた。人と馬が何度か往来した跡に、やっと探し物を見つけ出した安堵を感じた。
「岩城殿!」
斥候から連絡を受けた騎馬が戻って来て、実言に林を抜けたところに邸を見つけたことを報告した。
その場にいた一同は色めきたち、反逆者の背中を捕らえたと喜んだ。
「行こう!しかし、慎重に。用心しろ!どのような罠が仕掛けられているかわからない」
実言の掛け声に皆は頷き、馬の腹を蹴って脚を速めた。
実言が春日王子がいたと思われる邸に着いた時には、邸の中や周りの小屋の中に十名ほどが入って誰もいないことを確認していた。
「もう去った後のようです」
「しかし、火を消した直後のようで、先ほどまでここにいたと思われます。まだ近くにいるのではないでしょうか?」
報告を聞いた実言は頷いて言った。
「春日王子を追おう。しかし、春日王子には怪我は負わせない。大王は、春日王子と話されたいとおっしゃっておいでだ。罪人であっても、丁重に扱え。……あと、女人がいたら、その女人は保護しろ。春日王子とは関係のない人だ。身の回りの世話をさせるために、都から連れて来られただけだ」
後ろには荒益がその様子を聞いていた。
最初はふらつきながらも歩いていた朔は、そのうち道なき林の中を歩くのがしんどくなって今は春日王子の肩につかまっているだけで、春日王子が朔の体を抱えて背丈ほどの草むらの中を進んでいた。
あたりに斥候を走らせて警戒しているが、どこから追手が現れるかわからない緊張と不安の中にいた。春日王子は馬を別の道に進ませて合流し、その後は一気に東へと向かうことにした。味方の人数を保ったままがいいと思い、金輪が提案した二手に別れるという案は取らないことにした。
どこからか音がすると、それは追手が迫っているのではないかと、足を止めて音の正体を確認する。そんなことを何度も繰り返しながら、前進していった。
「朔、しっかりしろ。もう少しすれば林を抜けるからな」
春日王子は朔を励ましながら、顔にかかる草の葉を手でよけながら進んでいると、左側から突然斥候が現れた。
「王子、追手が迫っています。すぐ後ろに。相手は馬できていますので、追いつかれるのもすぐかと思われます」
その場にいた金輪をはじめとする四人の男は、一斉に春日王子へと視線を向けた。
春日王子はその視線に動じることなく、すでに考えていたことかのように、次に自分たちが取る行動を告げた。
「波多に応援を頼んでくれ。我々は山に登る。そこで、大王軍と対峙する。永見!山へと案内してくれ」
春日王子は山に登ることをもうどこかの時点で決めていたのか、よどみない発言だった。誰も異を唱える者はおらず、舎人の永見は林を抜けると山に上がる道を探した。
馬に乗った者たちも山へ上がる道の前で合流した。斥候が飛んで行ってこちらに連れて来たのだ。一頭の馬の尻にはその斥候が乗っていた。
「春日王子、敵はもうそこまで迫っています」
実言たち大王軍は山裾を周ってすぐそこまで迫っていた。馬の足音と息遣いが聞こえてきそうで、皆の背筋は凍りつきそうだった。
春日王子一行は一刻でも早く山の上の物見の邸へと向かった。春日王子も馬に朔を載せて上がって行った。
「どうも馬がかけていく気配を感じたのですが」
山裾を走る一本道を進みながら、実言に振り向き大きな声で男が言った。もう声をひそめることもなく、相手を追い詰めるのに、なりふり構わなかった。
実言が率いる大王軍は徐々に、春日王子の一行は追い詰めていた。
その時は満ちようとしていた。
春日王子を追い詰めて、捕らえる。
実言はじっくりと考えていた。
この場をうまく収めるためにはどう行動したらいいのか。全てがうまくいくようにあの人を説得できるだろうか。苛烈を極めることなく、誰もが穏やかになれるような結果を。
自分の力量を心もとなく思いながら、全力を尽くすしかないのだ、と考え、実言は顔を上げると、部下を近くに呼び寄せて言った。
「相手を山に上げよ。決着は山の上でつける。山裾を囲み、相手の応援が来るのを阻止せよ。すぐにかかってくれ」
実言の指示に、皆は「おう!」と声を上げて返事をし、すぐさま振り返って歩兵を引き連れて行った。
山裾を周り、山へ上がる道を塞ぐためにたどり着いたばかりの歩兵を配置した。
礼は、歩兵に合わせてゆっくりと進む馬上で、体を休めながら朔のことを思った。
あれほどに弱った体で、どこまで行けるというのだろう。新たな命を宿したというのに、自分の命を削ってしまってはいけない。
朔の意思など関係ない。礼は朔の体を捕まえて、礼の思うようにしてやろうと思っていた。朔がどういう思いであろうと、礼は朔をその腹の中の命と共に生かしたいのだ。
「礼様、どうやらこの山の上に、春日王子一行は逃げ込んだようです」
岩城家の家人である和良三は、後ろにいる礼に向かって言った。
ぼんやりと考え事をしていた礼は顔を上げて、和良三を見た。
「馬の上でお疲れになったでしょう。休みましょう」
和良三が言って、礼が馬から下りるのを手伝ってくれた。
主人の妻を守る役目を仰せつかっている和良三は、自分も馬を下りると、木の下に敷き物をひいてその上に礼を座らせた。
礼はすぐに座り込んで、目の前を走る大勢の歩兵を見ていた。
大きな声で歩兵を呼び、隊に別れてその隊の隊長が馬の上から、指示をしている。山の周りを囲んで、孤立させるつもりなのだろう。
「さあ、どうぞ」
和良三は近くの小川から汲んできた水の入った竹筒を礼に差し出した。その水はとても冷たくて、喉を潤し、礼の体を内側から元気づけた。
「実言様は、山の上への攻撃に備えて、指揮を取られています。こちらに来られることは無いでしょう」
和良三は主人の代わりに戦況を伝えた。
「ええ、いいのよ。私が勝手にしていることだから、邪魔をするつもりはないわ。あなたも、自分の持ち場があるでしょう。私のことは置いておいて、あなたも隊に戻りなさい」
「しかし…」
「心配なら、この人を置いていって」
和良三の傍についている若い男を指して、礼は言った。
「今は一人でも人が多い方がいいでしょう。私はここで待っているから、行って」
礼の言葉に和良三は戦況に乗り遅れてはいけないという気持ちから頷き、部下の若い男に後を頼むと、目の前の道を北に走って行った。
礼は暫くぼんやりと目の前の光景を眺めていた。
山の上にはどれほどの人がいるだろう。朔を労わる人はいるだろうか。かいがいしく世話をしてあげて欲しい。痩せた体を痛めつける道のり。朔は息も絶え絶えに耐えて登っているのではないか。一人で堪えるのは辛いはずだ。どうして私を傍に置いてくれなかったのだろうか。
礼は立ち上がった。
傍にぼんやりと立っていた若い男は、驚いて声をかけた。
「どちらへ!お供します」
礼は眼帯をしていない方の横顔を向けて小さな声で言った。
「厠よ。一人で行ってくるわ」
歩兵たちは自分の持ち場に走り去った後で、十数人の兵士が向こうの方でかたまって、後方支援の準備をしてる。男は女主人が自分の背丈ほどの草むらの中を進んで姿が見えなくなるのを確認して、兵士の方に顔を向けた。
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