馬に乗って自陣に戻った兵士はすぐに実言に報告した。報告を聞いた実言は迷いなくその場所に一団全員を向けることを決断し、号令を出した。
その場にいた騎馬隊はすぐに馬に跨り、駆けて行った。小さな目印を頼りにその背の高い草むらの中に進み行った。途中で、血まみれの兵士に騎馬の先頭は出会う。味方の兵士が傷を負って戻って来たのだ。
「味方…敵ともに……死…ぬ」
と言ってその場に崩れ落ちた。虫の息の兵士に、激しい戦いだったことを想像した。
実言は倒れた兵士を助けるために二名を残し、その他の兵士を一斉に落ちた血の跡を追わせた。それが道しるべである。
陽が沈むまでにその場所を突き止めたい。
そして、春日王子を捕らえる。
実言の胸の中に収めているこの書状、大王の印が押された。これがもう春日王子を大王の弟でなくし、王太子としての地位を剥奪し、一人の反逆者となったことを示している。
実言は臆することなく春日王子と対峙し、反逆者を捕えるのだった。
春日王子の配下の者は、草村の中に血まみれになって倒れている二人の男の姿を見て後ろに飛び退った。そして再び恐る恐る近づきじっと二人を見つめた。そして一目散に春日王子のいる邸へと走り戻った。
体に草のつるを纏わりつかせて林の中から飛び出し来た男に、邸で寛いでいた男たちは一斉に立ち上がった。
「加治田が死んだ」
飛び込んできた男は肩で息をしながらその合間に言った。
斥候に行った加治田の帰りが遅くて後を追って行ったら、あの惨状を発見したのだった。
「街道へ向かう側に、血の跡が続いていた。敵はもう一人いたと思われる。随分と時がたっているようだから、相手は自陣に戻って報告しているかもしれない」
倒れた二人の顔にこびりついた血の乾き具合から時の経過を慮った。
それを聞いて、春日王子の元に走る者、報告し終わった男がその場に崩れ落ちるのを支える者と面々が目の前のことに体が反応するまま動いた。
都から一人だけ春日王子を追ってきた臣下の金輪常道と話していた春日王子は、飛び込んできた男の報告に、顔色を変えた。
「王子!」
金輪は春日王子をみると、王子は奥歯を噛みしめて顔を歪めた。
「……ここは見つかるか?」
誰もそうだともそうではないとも答えなかった。
応援に来た波多氏の家来たちを含めてもここには十五人しかいなかった。相手はその倍の人数だろう。
数では断然優位には立てないし、ここまでの追われる身の旅の疲れで戦う士気はすぐには上がらない。
春日王子は腕を組み、考えた。
「山にあがりますか?」
舎人の永見がそう囁いた。
山頂には波多氏が館を作り、物資を蓄えて、物見のために常時大勢が行き来している。しかし、数的には対等になれるかもしれないが、山の上に上がってしまったら進路も退路も限定されてしまって、東国へ抜けることが難しくなるのではないか、と春日王子は思案した。
春日王子は金輪常道に顔を向けた。都から帯同してきたこの男の意見を聞くためだ。自分の失脚はこの男の失脚でもある。それを恐れず、自分を信じてここまでついてきた男である。
「私は、ここから二手に別れて、王子は東国へ行くことがいいと思います。ここで山の上に上がってしまっては、追手が迫った時に、皆で全面対決しなければならなくなるでしょう。その時、勝ち目があるかどうか。向こうは歩兵が迫っています。山の周りを囲まれたら下りてくることも難しいでしょう」
もっともなことだと、春日王子は頷いた。それは一理あるのだが、波多氏の応援も頼めないまま行動を起こすのは大変だ。
金輪は、ここでも囮を使って春日王子を東国に逃がすことを提案している。しかし、二手に別れてしまっては少ない人数で、大王の軍勢が血眼になって春日王子を探している中を掻いくぐりこの先の長い行程を行かねばならない。道中に援助してくれる豪族はいると言っても心細く、不安の多い旅になってしまう。
「それには、あの女人は置いていかなければなりません。あのような弱りようでは、この先の旅に耐えられないでしょう。いくらあなた様が気に入っていても、足手まといになってしまいます。女人はどこにでもいます。都を離れると覚悟されたのですから、どこまでも都風にはいきません。東国の田舎娘が好みでなくても、慣れなくてはいけません」
春日王子は金輪の顔に視線をやったが、言い返しはしなかった。
すぐ隣の部屋に寝ている朔は、眉根も動かせない程に弱り切っていて、この先同行させるのは難しいだろう。しかし、自分の心を慰めてくれるのはあの女しかいない。
春日王子は朔を連れて行きたかった。
「……春日王子。ここを離れましょう。ここにいては、いつ相手に見つかるかわかりません」
舎人の永見が言い、春日王子は頷いた。
「女は私が手ずから連れて行く」
春日王子は誰に言うでもなくはっきりと言った。金輪は驚き、伏せていた顔を少し上げた。
「準備をしてくれ。用意が整い次第出発しよう。金輪、指示してくれ。準備ができるまで私は隣にいる」
春日王子は言って、朔の寝ている部屋に入って行った。
「朔……」
目を閉じていた朔は、ゆっくりと目を開けた。朔の枕元に春日王子は座った。
「……王子……」
「気分はどうだ?」
囁く春日王子の問いに、朔は答えず、再び目を閉じた。
「体が辛いだろうが、今から移動しなければならない。……行こう」
朔は黙ったままだ。そこに、春日王子が衾の中に手を入れて、朔の手を探り握った。
朔は内側から体が震えるのを必死に抑えた。
それは、朔に語り掛ける優しい声音や、朔の手を探して握る力強さが朔の心の中に流れ込んで、震わすのだった。
朔は春日王子への愛を感じるのだった。それは、荒益と同等のものだ。
愛は一人が一人に向けられるべきものだと、思っていた。夫である荒益が、自分以外に妻を娶った時に、荒益の自分への愛は終わったと思った。それに怒り、荒益を許さず、春日王子との情事を荒益の裏切りに対する復讐と思って自分を正当化してきた。
しかし、今、自分の中に愛は二つあり、どちらも優劣はつけられずにいて、心の中がざわめいている。どちらが最上なのか、答えを出せと言われても今の朔には応えられなかった。
それを自覚した時、荒益にも春日王子にも誰を一番に愛しているのかと問い、その時伺い見た顔を思い出した。あの顔と同じだ。はっきりとしない表情は、向けられた相手を不安にさせる。声にして愛していると言われているのに、その心のありどころを疑ってしまう。
このような気持ちをわかっていれば、荒益をあれほど冷たくあしらったりしなかった。春日王子の移り気な態度を理解しようとしただろう。
二つの愛はどちらも大事だから、強烈な今目の前にある愛だけを受け入れられなかった。二つの愛に応えられるだけの気持ちを見せなくては。
都を追われる春日王子に付き添いながら、荒益の名誉を守ること、そのためには我が身を捨てることはなんともない。二人のためなら、自分の身などどうともないのだ。
二心はあるのだ。どちらも選べない、どちらも同じく愛している二つの思いが。
今度は自分勝手な思いに震える体を抑えようと朔は体を硬くした。
「どうした?どこか痛いのか?」
春日王子は横になって、衾の中に体を入れた。握った朔の手を手繰り寄せるようにして朔の体を抱いた。
「ん?……朔……どうした?」
「……王子……」
「お前を守れるのは私しかない……傍にいるよ」
朔は春日王子の胸に顔を伏せて、震える体を委ねた。
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