季節は初夏。
その庭には緩やかな日差しが差し込み、木が青々と繁り、大小の美しい花が咲き誇っている。
この庭がある岩城邸の離れの館の主の妻である礼は、双子の子供、実津瀬と蓮と庭で花や草を摘んで遊んでいた。今も摘んだ花の名前を教えて、礼の後に同じ言葉を繰り返し言い合った。
二人は追いかけっこを始める。礼の体を楯にくるくる回って、離れていった。
礼は庭から階へと歩き、その途中に腰を下ろして、二人が駆け回っている姿を眺めた。
二人は元気良く走り回りながら、時折母親の方を振り向いて手を振り、笑顔を向けた。礼も、二人の合図を見逃さず、微笑んだり手を振り返したりした。
夫である岩城実言は、ここのところこの離れの館には戻ってきていない。
北方の夷を制圧するための戦を勝利して帰還した後、ひと月ばかりの休暇を与えられた。礼は実言を束蕗原に連れて行った。体の回復を早めるために、その領地内にある温泉地に行くためだ。
実言の戦中に負った太ももの傷は身をえぐって深い谷のような痕を残した。胸は骨が浮き出て、普段は厚着をしてその細い体を肉付けしようとしていた。
お湯の中にその身を沈めて、実言は目をつむって何か瞑想している。温泉に入る以外は、去の館の離れで、家族水入らずで子供と戯れて、心の安らぎを得た。
穏やかな日々が実言に鋭気を漲らせていく。毎夜、礼は褥の上で実言のその体の変化を感じた。痩せた胸は、徐々に厚みを増していき、背中に廻した手がその体の張りを感じた。力強い腕が、礼の体を抱きしめて、甘く優しく愛撫して、礼はたまらず喘ぎ声を漏らした。
「礼」
実言が礼を背中から抱きしめて、実言をかばってできた右肩の射られた矢の傷跡をそっと唇でなぞった後に、名を呼んだ。後ろから廻された手が礼の胸の上に置かれている。その上に礼は自分の手を重ねて、握った。
三年ほど離れ離れになった辛酸の日々を溶かして凌牙するほどに束蕗原での時間は濃密で、あっという間に過ぎた。その間に、実言のその顔つきは、長く苦しい戦の後の疲労の陰りを拭い去り、力強い生き生きとした眼を取り戻した。
都に戻ると、北方への遠征に携わった者たちは朝堂へ集まり、大王から戦の功労に対して新たな位階を授けられた。将軍以下生きて戻った者は、それぞれ昇進した。実言も従五位を授かった。実言の昇進を何よりも喜んだのは父である岩城園栄であった。
実言が北方の戦に行っている間に、岩城家には良い事と悪い事がそれぞれ起こった。
良い事は、大王の五人目の夫人となった岩城家の碧妃が懐妊、出産した。生まれた御子は男子であった。少し先に後宮に入った椎葉家の娘、第四妃の幹も懐妊した。碧よりも早く産気づき、生まれた御子は女子であった。岩城家の娘が生んだ御子が男子であったため、岩城家は表立った以上に慶んだ。
大王には五人の妻があり、それぞれが御子を成しているが、男子は、皇后にお一人、御年十九歳の皇太子と、三番目の夫人である詠妃のところの御年十歳の葛城王子のお二人だけだ。そこに、三人目の男子誕生である。大王はことさらに喜ばれた。
皇太子である香那益王子は、病弱でその将来を内心案じている臣下も少なくない。もしかしたら、岩城家としては、我が血筋の入った大王が誕生することも叶わぬ夢ではないのだ。
悪い事は、実言のすぐ上の兄。当主の園栄からすると次男になる、渡加部(わたかべ)が病死した。二十七の若さであったが、体調を崩して寝付いてしまったら、手を尽くす間もなくあっけなく亡くなってしまった。
園栄は、実言が北方の地で行方知らずになったとの連絡が入ったばかりのときに、渡加部を失って、二重に支えを失い、落胆した様子は痛々しかった。これで、もし実言までも北方の地から帰ってこないとなると、園栄の心がどうにかなってしまうのではないかと皆は心配した。
臣下の最高位について、その権勢をほしいままにしている岩城家の力が衰えていくのではないかと思われた。それは、岩城家に近いものには、我が身の振り方を考えさせた。逆に岩城の勢力に相対するものたちは、この成り行きをじっくりと見つめて、己にとって有利な状況の分岐点を見極めて我が袂に引き寄せたいと考えていたのだった。
それから、半年の間、園栄は息子の喪に服し、職務に復帰しても失意の中で暮らしていたところに、実言が見つかったとの連絡が届いた。園栄はどれほど安堵したことか。
戦に行く前に、実言は訓練した騎馬隊と歩兵を遅れてでもいいからよこしてくれと言った。園栄は大王に進言して、息子が出陣してから二年たったが、なんとか千の訓練された軍団を北方に送り込むことができた。この軍団が逃げる夷に追い打ちをかけることになり、大王軍の勝利を呼び込んだ。この活躍は息子の帰還と共に知ることになった。
結果、実言の帰還は、岩城家に大きな歓喜と再び朝廷内に確固たる力を呼び込んだ。岩城家は二番目の息子を亡くしたが、実言が従五位の位を得て、その権勢は今まで以上に栄えることになる。
実言は左兵衛府の次官となり、忙しい毎日を送っている。
新しい職務に、実言は忙殺されているのか、この離れの館で寛ぐ時間がない。夜も、会合のために誰それの邸にいくとか、役所で仕事をしていたため、そのまま宿泊したとかで、この離れの館で休むことは少ない。
子供達も、それまでお父様との楽しい時間を過ごせていたのに、急に会えなくなって寂しそうにしている。たまに、「お父様はどこ?」と思い出したように訊いてくる。そうすると、大好きなお父様に会いたいと二人は口々に言って、やかましく、手がつけられない。気を紛らわすために、実言の実母、双子にとっては祖母の部屋に連れて行って遊んでもらうと、気持ちも落ち着いてくるといった具合だ。
今も礼は、子供達に実言の影を感じさせないように、外で遊ばせるのだった。
背の低い木々の陰に入って二人で遊んでいると思ったら、女児の蓮が飛び出してきて、階の途中に座っている礼に駆け寄ってきた。左耳に咲き始めたクチナシの花を挿している。
「まあ、蓮。どうしたの?」
礼は、駆け寄ってきた蓮を抱き寄せて、その左耳の花を指して言った。
「実津瀬!」
と、兄の名を言った。実津瀬が蓮に花を挿してやったようだ。嬉しそうに笑っている。
遅れて、実津瀬も走り寄ってきた。手には、クチナシの花が握られている。
「お母様、はい!」
と礼にクチナシを握る手を突き出した。
「美しいわね」
「お母様も、つけて」
実津瀬は、礼の耳にクチナシの花を掛けようと手を伸ばした。礼も手を添えて、手伝いながら、自分の左耳にクチナシの花を挿した。
「うつくしいね!」
と実津瀬は母の言うことを真似た。
礼は、実津瀬に笑かけて、蓮の耳のクチナシがうまく挿さるようになおしてやった。
すると。
「何が美しいの?実津瀬、お母様を美しいと言っているのかい?」
階の上から声がして、三人は振り向いた。そこには、実言が立っていた。
「お父さま!」
双子の声は重なって叫んだ。
階の途中で母の隣に座っていた蓮の方が、すぐにかけ出せる状態で、残りの階を駆け上がって、いち早く父親の腕の中に飛び込んだ。実津瀬も出遅れてしまったが、沓を脱いで、急いで階を上がった。
礼も二人を追って、ゆっくりと階を上がった。
蓮は早くも父親に抱き上げられて、嬉しそうにその肩に頬をすり寄せている。礼は、遅れをとってしまった実津瀬を後ろから抱き上げて、実言の胸まで持ち上げた。実言はすでに腕の中にいる蓮を左腕に抱き直して、空いている右腕に実津瀬を受け取った。
「今日はどうされましたの?お仕事は?」
「今日は、早く終わってね。こうしてすっ飛んで帰って来たというわけさ」
実言の笑顔に礼も釣られて微笑み返す。
「実津瀬はまだこんなに幼いのに、隅に置けないね。女人に花を贈ったりして。それも私の愛しい人に」
と実津瀬の顔を覗き込みながら言った。
「礼。クチナシの白い花がお前の黒髪に映えているね。甘い匂いも、夜のお前から放たれる香しい匂いのようだ」
これは、そっと礼の耳元に囁いた。礼は少し顔を赤らめて、実言の後ろをついて、庇の中に入った。蓮は実言に下に降ろしてくれと身振りで示して、実言は蓮を降ろした。実津瀬を抱き直すと、実津瀬は嬉しそうに父の首に腕を回して抱きついた。
降ろしてもらった蓮は走って、母が使っている机に向かった。机の上には、自分が文字を書いた紙が載っていて、それを手に取るとまた父に向かって走り出した。蓮は父の前に立ちはだかって、自分の書いたものを見てくれとその紙を高く上げて父に渡そうとした。
実言はその場に座って、蓮の手から紙を受け取って、その文字を眺めた。
「うまく書けているね」
実言はじっくりとその文字を見つめてから、蓮に視線を移して言うと、蓮は嬉しそうに口の両端を上げてにっこりと笑った。
実言に抱かれたまま、膝の上に座っている実津瀬は、少し悔しそうな顔をして。
「僕も書ける」
と負けず嫌いの気性をのぞかせた。父親が持っている妹の書いたものに手を伸ばして、引っ張ろうとするのを、蓮は見逃さず。
「実津瀬!いや!」
と蓮も紙に手を伸ばした。二人が持って引っ張ったので、紙は真ん中から裂けて行った。
「いや〜!」
気性の激しい蓮は、破けるのを見ると大きな声で泣きだした。
「蓮がもったから!」
実津瀬はそう主張して、妹が泣くのを見て、自分も悲しくなって、え〜んと大きな口を開けて泣き始めた。そして、二人は泣き声の張り合いをするように、めいいっぱい泣く。
実言は自分の前に座っている蓮を実津瀬の反対の膝に座らせて、張り合って泣く二人の背中を撫でてやる。二人とも目尻から大粒の涙をこぼしながら、泣き声の大合唱である。
隣の部屋にいた礼も、二人の泣き声があまり続くものだから、どうしたものかと三人のいる庇の間へとやってきた。実言が困った顔をして、二人の背中を撫でているところだった。
実言の向かいに座ると、蓮がすぐに礼の膝の上に顔を伏せて、実津瀬が悪いのだ訴えた。
「二人とも、また明日一緒に書きましょう。やっとお会いできた大好きなお父様にそんな泣きべその顔を見てもらいたいの?さ、泣き止んで」
母の言葉に、二人はハッとしたようで、肩を上下に揺らしながら、泣くのをやめた。
礼が蓮の涙を袂で拭いてやり、実言は膝の上の実津瀬の頬を指で拭ってやった。
「久しぶりに二人の顔を見るのだから、仲良くしておくれ」
実言は言って、改めて二人膝の上に乗せて抱きしめた。その頬をぎゅうと父親の胸に押し付けられるようにして抱かれると、双子の顔はお互いに近づいて、目が合うと先ほどの諍いも忘れて、互いに微笑み合った。
双子は遊び疲れるまで、実言の背中にすがったり、膝の上に抱かれたりして構ってもらった後に、ばったりと眠ってしまった。
「礼!来ておくれ」
実言の声に礼は奥の部屋から現れた。
「あら、寝てしまったのね」
二人とも、実言の膝の上でぐったりとして眠っている。侍女二人に子供達を渡して、実言は立ち上がった。
「あなたに久しぶりに会って、二人とも楽しそうだったわ。あなたの名前を聞くと、お父様がいないことを思い出して二人とも、泣き出す時もあるのよ」
礼は実言を誘うように先に立って、奥の部屋へと進んだ。
「礼」
実言が呼ぶと、礼は振り向いた。実言は身をかがめて、礼の左頬に顔を寄せた。
「実言?」
「クチナシの香り。夜のお前の香しい匂いは、私にも久しぶりだよ。もう少しこうしていよう」
囁いて、実言は礼を抱いた。しばらくして身を起こして。
「実は、夜に仕事があってね。少し休んだら、兵衛府の長官のところへ行かなければならない。帰りは遅くなるかもしれない」
といって、寝台のある方へ向かいながら、思い出したというふうに礼を振り向いた。
「父上のところに伺ったら、こんなことを言われたよ」
礼は首を傾げて、実言の次の言葉を待った。
「私に自分の邸を持てとね。子供も出来たし、こうして昇進もした。一人前の暮らしをしろと言うことらしい。五条あたりに良い土地も見つけてあるから、そこへ邸を立てるように計画しているところだ。礼のためにも医者の仕事ができるように部屋を作るつもりだ」
「まあ、あなたの武勲の賜物ね。私のことなどより、あなたのその将来にあったものをお作りくださいな。お父様もそれを望まれています」
「大きな邸を作って父上は我が一族を大きく、強くしたいのだろうけど、その前に、私には邸にいてくれる私の守り神を大切にしないと」
実言は正面に立つ礼をじっと見た。
「私の命を何度も救ってくれる、代えのいない私の守り神をね。私はお前がいなくては一日も生きた心地がしない。お前の邸でもあるのだから、いろいろと工夫を凝らしたいのだ」
礼は、着替えを促し、実言が脱いだ上着を受け取って、衣桁に掛けた。
「ああ、このままお前をそばに置いて、横になりたいが、いささか疲れて、すぐに眠ってしまいそうだ」
「あなたの体が心配よ。どうか、お休みくださいな。私は近くに居ますから、いつでも呼んでください」
「優しいね、我が妻よ」
実言はそう言って流し目を送って微笑んで、寝所へと入って行った。
それから、実言は一刻の仮眠を取ると、自分で起きてきて、礼を呼んだ。礼は実言のそばで侍女と共に身支度を手伝った。
丁度、子供達も昼寝から目を覚まして、親子三人で実言が出発するのを見送った。
久しぶりに父と遊べた子供達は、見送る時は満足そうに微笑んでいた。その夜、実言は告げたように、帰ってこなかった。礼は、灯台の明かりの下で書き物をしながら、随分と実言を待ったのだが、結局一人寝になった。
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