石の床の続く先には、椅子が三脚置かれていて、左端の椅子の後ろには雅樂寮の頭である麻奈見が立っていた。
「麻奈見殿!」
実津瀬は声を上げた。
稽古場には行くが、それほど熱心に舞うわけではないため、最近は麻奈見を避けている。会うのは久しぶりだった。
麻奈見はにっこりと笑っている。
「待たせたかな?」
桂は麻奈見の前まで来ると訊いた。
「つい先ほど、ここに到着したところです」
「そうか。実津瀬は、今日、勤めが終わったらすぐに来るだろうと思って、おおよその時刻を麻奈見にも伝えていたのだ。それほどのずれもなく会うことができた」
桂は言って椅子の間を進んで、こちらを向いている椅子の前で止まり、くるりと体をこちらに向けた。
「さあ、座ろう。私はこういった異国風なものが好きなのだ。同じように座っておくれ」
桂が座り、さあ、お前たちも座れ、と目で言う。
「失礼します」
麻奈見が座ったので、実津瀬も目の前の椅子に腰を下ろした。
「失礼致します」
桂は楽しいことが今から起こることを予感しているかのように、目を見開き、唇の両端は上がった。
「ここに二人を呼んだのは、私はひらめいたのよ。それを実現したいと思ってね」
桂の言葉に、麻奈見はきょとんとした顔をしたが、すぐに眉間にしわを寄せて、次の桂の言葉を待った。
「どんなことかというと……くっくっ。それはな!」
桂は言葉の途中で、笑い声を漏らした。どこに笑いの要素があったのか、実津瀬はわからず小首を傾げた。
「舞の対決をやりたいのだ。それを実現するためには二人の力が必要だ」
桂は言い放ち、くるくると瞳を動かして、麻奈見と実津瀬を交互に見る。
「舞の対決と言いますと……どのような?誰と……誰でしょうか?」
麻奈見が訊ねた。
「実津瀬をここに呼んでいるのだから、一人は実津瀬だ」
「はい」
麻奈見は返事をして、問うた。
「もう一人は?」
「麻奈見!わからないのか?」
麻奈見は誰と答えるのを避けたが、実際には桂が思い描いている人物が誰かわからなかった。桂は実津瀬の顔を見た。実津瀬も、桂が誰を思い描いているのか、わからなかった。
まさか、淡路ではあるまい、と二人は思った。
「朱鷺世だ!朱鷺世だよ!」
桂は言った。
「……朱鷺世ですか」
麻奈見は、内心、朱鷺世がいたな、と思った。
「そうだ」
「確かに朱鷺世はよい舞をします。しかし、まだ出て来たばかり。これからもっと習い、磨いて行かなくてはいけません」
「ふむ。なるほど。そうであれば麻奈見が早急に朱鷺世に身に着けさせろ。朱鷺世は意欲があるだろう」
「それは、朱鷺世は日々、努力をしています」
麻奈見は朱鷺世の様子を思い出していた。
実津瀬の代役として舞った後の、朱鷺世への桂の賛嘆は、楽団の他の者たちの気持ちをざわつかせた。舞はそこそこやるがみすぼらしい男が、偶然得た機会を当てて、一躍時の人となりちやほやされるのを快く思わない。朱鷺世は、皆から嫉妬され疎まれて、孤立している。親しい仲間はおらず、一人稽古場の隅にいる。時折淡路がついて、稽古している。
「麻奈見は、朱鷺世にもっと磨きをかけよ。そして、隣にいるかつて自身が磨きをかけた男以上の舞手を生み出すのだ。それが見たいのよ、私は」
桂の言葉に、麻奈見は考え込んだ。
嫉妬され孤立している朱鷺世は、前にもまして痩せたように見え、漏れ聞こえてくるところによると、陰湿ないじめを受けているらしい。
桂の申し出により、朱鷺世が今まで以上に特別な待遇をされれば、快く思わない者たちから今以上のいじめや暴力があるかもしれないと思うと、そればよいお考えです、とすぐに返事をすることができなかった。
朱鷺世は耐えられるだろうか。舞手として精進することも楽団の中で生きていくことも。
「朱鷺世の他にも、よい舞手はいます。ですから、朱鷺世ではなく他の者でも」
「いや、私は朱鷺世の才能を見出したい。朱鷺世がいい」
桂は譲らない。
「また、実津瀬殿はお忙しい方です。これまでと同じように舞に打ち込むことも難しいでしょう。そうであれば、淡路を」
「いやだ。私は実津瀬の舞が見たい」
「実津瀬殿……」
麻奈見は困った顔を実津瀬に向けた。実津瀬も眉根を寄せて、どう答えたものかと考えている顔を見せた。
「私は……」
「実津瀬!」
実津瀬が声を発そうとした時、桂が被せるようにその名を呼んだ。
「……はい」
「お前は舞を舞うのが仕事ではない。麻奈見が言うように、自分の仕事があることはわかる。しかし、お前は私の申し出を受けるべきだと思うぞ。実津瀬は舞が好きだろう。そして、才能もある。あれほどの舞が舞えるほど鍛錬できる。だから、皆を魅了する舞ができるのだと思う。しかし、いずれ、お前の舞など求められなくなる時が来る。それまでの束の間を、好きな舞に打ち込むことも悪くないだろう。……その後は、岩城一族の跡取りとして、出世していけばいいことだ」
と桂は声を落として言った。
実津瀬は桂の顔を見つめた。
この部屋に来るまでの自分の気持ちを見透かしたような桂の言葉だった。
そのうち自分の舞は見られなくなる、というのはその通りだと思った。
今は、宴があれば楽団の舞手を押しのけて、実津瀬が指名されて、断ってもどうしてもと懇願される。宴で舞わなかったときは、後日、なぜ舞わなかったのか。実津瀬の舞が見たかった、と言われる。
それは、悪い気はしない。自分の舞が多くの人に認められていることは嬉しくもあり、岩城の名に埋もれている自分の存在を示すことにもなっている。でも、それもいつまでのことだろう。これから一族の一員として、出世をなし政により深く関わって行けば、舞をする暇などなくなっていくはずだ。そうならなければならない。突き詰めて美しい舞を舞える時間と技術と体力を持てる時は、言われるように短く、いつと言えば、今しかないはずだ。
桂の言う対決は、相手よりも良い舞を、その時の誰よりも優れた舞を舞った者が勝つということだ。
相手は朱鷺世という男。
昨年の夏、月の宴の自分の代役で名を上げた男だ。
舞台の端で舞っている姿を一度見ただけで、その力を知ることはできていないが、舞の才能を見抜くことには並みならぬ眼を持っている桂が二人の対決が見たいというのだから、朱鷺世の潜在的な力が見えているのだろう。背は高く、痩せてひょろったした印象の男にどれほどの力が潜んでいるのか。
「私は……」
実津瀬は再び言葉を発した。
桂に遮られた先ほどの、「私は……」と言った時には、この申し出は固辞しようと思っていた。麻奈見も困っていたし、自分もどこまで舞に時間が割けるかわからず、中途半端なことになるのなら最初からやらない方がいいと思っていた。
しかし、この申し出は自分にとって舞に思う存分打ち込む機会を与えられているような気がした。
別に対立や敵対をしたいわけではない。純粋に良いものを体現したいという思いから、自分も努力する。相手も実津瀬以上のものを目指すだろう。それが切磋琢磨することになる。
それは今だけできる至福の時間になるかもしれない。
そんな思いが湧き上がって来て、実津瀬は次の言葉を続けた。
「やってみたいです」
ついさきほどまで、舞の練習から遠ざかり、やる気もなかったのに、ぽっと心の中に炎が立つのを感じた。
誰が見ても都一番の舞手であることを知らしめたい、と思う気持ちが勝ったのだ。
麻奈見は勢いよく実津瀬に顔を向けた。麻奈見がこちらを向いたことが分かって、実津瀬も麻奈見を見た。
麻奈見は驚きの表情だ。どうにかして桂の提案を断ろうとしていたのだから。
「よし!いいぞ、実津瀬。やはり、お前は舞が好きなのよ。麻奈見!朱鷺世を一等の舞手にしておくれよ。二人がお互いを高め合って最高の舞を見せてくれることを私は望む。あとのことは私に任せておくれ。二人の対決の場は追って知らせる」
桂は、ははははっと高笑いし、嬉しさを笑い声で表した。
一人、この部屋に残って考え事をしたいという、桂を置いて実津瀬は麻奈見と一緒に部屋から出た。
外で待っていた従者の後ろについて、広い邸の庭から門に着いた。挨拶を受けてそのまま外に出で、並んで宮廷へ向かう道を歩いた。
「実津瀬、いいのかい?」
「はい……」
「乗り気ではなかっただろう」
「最初は……。しかし、桂様の挑発に乗ることにしました」
「……」
「最近の私をみれば麻奈三殿が断ると思うのも当然です。……私は舞が好きです。幼いころから一族の集まりで舞を舞って褒められることはとても嬉しかった。成長して、宮廷の宴で、大王の前で舞う機会を得て多くの人の前で私の舞を観ていただき、愉しんでいただくことに大きな喜びを感じました。また、聴衆の熱い視線の中心に自分がいる快感は手放しがたい悦びです。桂様がおっしゃった通りその悦びの中にいつまでもいられるとは思いません。今なら、私は皆が褒めてくれる舞を舞える自信があります。そして、その努力をする気持ち、体力、時間があります。……私も意外だったのですが、一瞬で考えが変わりました。……麻奈見殿にはご迷惑だったかもしれませんね。……その、朱鷺世という舞人も、そんなことは望んでいないかもしれない」
実津瀬が言うと、麻奈見はしばらく黙って歩いていたが、唐突に言葉を発した。
「……朱鷺世はよい舞手になると思う。桂様はそのようなことを見抜く目はお持ちだ。しかし、まだまだ粗削りで、実津瀬の相手になるだろうか」
「私がやりたいと言ったために、麻奈見殿に余計な心配を作ってしまいましたね」
「いや、そんなことはない。実津瀬がやる気なのは嬉しいことだ。しかし、楽団の舞手が負けるわけにはいかない。実津瀬を超えることができるとしたら、確かに、桂様が言うように朱鷺世だと思う。桂様はどんなことを考えているのかわからないが、これから厳しく鍛えなくてはいけないな」
麻奈見は言って、微笑んだ。
桂が対決にどんな舞台を用意するのか、予想しながら歩いていたら、宮廷に入る門の前まで来ていた。
「ではここで」
実津瀬が言った。麻奈見は頷いて二人は別れた。
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