翌日。伊緒理はこの邸のどこかにいるのだろうが、蓮は会うことはなかった。朝餉を食べて、薬草園に行き、手入れを手伝った。部屋に戻って、写本をして、気分転換に薬草箱の整理をした。夕暮れ時、曜と一緒に庭に下りて、秋の草花を見てまわった。庭を突っ切って、丘の上の邸に庭の見晴らしの良いところまで来て、下に広がる束蕗原の村を眺めた。夏の終わりの水害の跡はまだ残っている。
蓮は西の空に目をやり、赤く焼けている空を見た。
村人を、蓮を苦しめた水害の跡を見ると胸が苦しくなるが、赤く染まる空は美しいと思った。
「……曜、戻りましょうか」
しばらく空と眺めていた蓮が言った。
「はい。長く外にいては風邪を引いてしまいますものね」
「あら、そうかしら。あなたがたくさん着せてくれるから、汗が出るくらいよ」
「そうですか?でも早くお部屋に戻りましょう。本当に風邪を引いてはいけませんから」
曜は言うと、蓮の手を引いて離れの部屋に帰って行った。
今夜の夕餉を食べに、母屋の部屋に行った。去と母の礼が座っている。昨夜の夕餉は賑やかで楽しかった分、今夜の夕餉は寂しい気がした。
「伊緒理は今夜は医師仲間と食事をして騒いでいるのではないかな。昼間もいろいろと巻物を広げて、話をしていたからね」
去が言った。昼間、去も母の礼も伊緒理と会って話をしているようだった。
今夜は質素な夕餉である。去は蓮に昼間は何をしていたのか尋ねて、蓮はそれに答えた。
もう両手の指を足した数くらいしか、ここにはいられない。
そう思うと今夜のこの食事の時間や去との会話も残り少ない大切な束蕗原での時間である。少しの間、親子三世代の女の会話を楽しんだ。
夕餉が終わると、蓮は部屋に戻って侍女の曜に手伝ってもらって寝衣に着替えた。長い髪に何度も櫛を通してもらった。
「今夜も灯りは一つ置いていって。すぐに真っ暗になるのは嫌だから」
蓮が言った。
本当はそんなことはないのだが、皆、水の中に落ちて、真っ暗な中一晩過ごした体験が蓮に恐怖を感じさせていると思っている。曜はわかっていると言いたげに頷いて、部屋の中を灯す火を隅に置いて、妻戸を閉めて出て行った。
蓮は褥の上に上がって、自分の指を櫛にして髪を梳かして時間が経つのを待った。
伊緒理は今夜来てくれるかしら……。
もし、何かしらの理由で来られなくなったら、どうしよう。この気持ちを伝えることもできずに都に帰らなくては行けなくなる。
伊緒理は来てくれると思っても、その姿を目の前に見るまでは蓮は安心できなかった。
コトリ……。
しかし、いつものように妻戸が小さな音を立てて、小さく開いた。
几帳の向こうの隣の間の戸が開いたのというのに、耳元で開いたようにはっきりと聞こえた。
「……蓮」
名を呼ばれて、蓮は振り向いた。
几帳の向こうから伊緒理の顔がのぞいた。
蓮は立ち上がり、几帳を回って寝室に入って来た伊緒理を迎えた。
「……どうしたの?心配事でもあるのかい」
眉根を寄せた蓮の顔を見て伊緒理が言った。
「……昼間、伊緒理に会えると思っていたのに会えなかったから、今夜はどうかしらと……」
「昼間は去様と礼様たちと診療所で病人を診ていたんだ。今日は、怪我人や病人が続いてね、忙しくしていた」
二人は褥の上に上がり、向かい合って座った。
「だから、離れの方へ行くことはなかった。不安にさせたかい。約束した通り今あなたの目の前にいる」
と伊緒理は言った。
「そうね」
蓮は頷いて一度伊緒理に笑顔を見せたが、すぐに目を伏せた。
今後、伊緒理とはいつ会えるかわからない。今夜会えたことの嬉しさとこの先の自分達の不透明さへの不安がそうさせた。
伊緒理が蓮の手を握ったので、蓮は気を取り直しそうとした時に、伊緒理に抱き締められた。
「……伊緒理」
いつもは離れていた時間を取り戻すようにお互い取りとめのない話をしてから、衾を被って抱き合って夜明け前まで伊緒理が添い寝をしてくれる。今夜は、蓮が不安そうな顔をしていたから心配させたのだろうと思った。
蓮も伊緒理の腕の下から手を回して、伊緒理の背中を抱いた。
しばらくして、伊緒理が体を起こしたので、蓮も腕を解いた。
どんな話をしよう。
今日の出来事。昼間の去様やお母さまたちと話したこと、昨日の夜は話に出なかった都の様子。そして、今後のこと……。
蓮が考えていると、伊緒理の手が蓮の寝衣を留める帯に伸びた。蓮はその様子を黙って見つめた。伊緒理の両手で帯の結び目は解けて、はらりと合わせていた前ははだけた。無言のまま、伊緒理の手は寝衣の襟を掴んで、蓮の体から衣服を剥ぎ取ろうとする。
蓮は伊緒理の手に身を委ねた。
寝衣の襟は肩から背中に引かれるとストンと滑り落ちた。
部屋の隅で灯る明かりに蓮の裸は照らされた。
「……あの水害の時、束蕗原に到着してすぐにあなたを探した。運よく私があなたを見つけることができた。……樹に掴まっていたあなたは、水が引いて樹の下に下りたところを私が抱き上げたんだ。……あなたが無事であるとわかって、私は安堵した。しかし、あなたの頬や腕には流されている間についた小さな傷がついていて、もっと大きな怪我をしているのではないかと心配していたんだ。腕には傷があったけど、今はもう痕が残っていない」
伊緒理は蓮の左手首を持ち上げて、腕の肌を舐めるように眺めた。
「頬にも小さな傷があったけど、今はきれいに消えている」
持ち上げた蓮の手を下ろし、伊緒理の手は蓮の頤を掴んで、上を向かせた。
蓮の顔が上を向き、伊緒理と目が合った。
伊緒理の顔が近づいて、頬と頬が触れ合った。
部屋の中は程よい温度で暑くも寒くもなかったのに、蓮は急に体が熱くなるのを感じた。伊緒理の頬が離れたと思ったら、別の温かさを感じて、伊緒理の唇が触れたのだと知った。
伊緒理が元気になった自分の体を検分してくれていると、蓮は思った。
「……足にはたくさんのあざができていたのですよ。……体中が痛くて、足の痛みだけを感じることはなかったですが……お母さまが毎日、打ち身に効く塗り薬を塗ってくれました」
「そう?足も……痛かっただろう」
そう言って、伊緒理はまだ寝衣に隠されている足に手をやって、畳んでいる蓮の足を伸ばさせた。裾を払って、蓮の素足を露わにし、触れた。伊緒理の手はそこで止まることはなく、蓮の左の太腿に触れて、膝の裏まで移動すると持ち上げて膝を立てさせた。かつてあった打ち身の青くなった肌を思い浮かべて哀れむように蓮の膝から太腿を見ていたが、ついっと蓮の膝に顔を近づけるとそこに口づけた。
蓮は体の内側から震えるような衝撃を受けて、体を支えるために後ろについた手は褥の布を握った。
「今はもう、痕すらない。治ってよかった」
顔を伏せたまま伊緒理は囁き、蓮の膝の上に顔を動かし、そこにも唇を押し当てた。
「伊緒理!」
蓮はたまらず、伊緒理の名を呼び、その上半身に抱きついた。
伊緒理は蓮の体を受け止めて、耳元で囁いた。
「嫌かい?」
蓮は首を横に振った。
「嫌だなんて!そんなことないわ」
「……蓮……私はあなたのことが好きだ。昔も、そして今も」
伊緒理の言葉に蓮は顔を上げて、伊緒理を見た。
微笑む伊緒理の顔があった。
「私もよ。私も……伊緒理のことが好き」
蓮は言って、再び伊緒理の体に抱きついた。
伊緒理の手が蓮の背中に周り、蓮以上に強く抱き締めた。
蓮から体を起こして、二人はくっついた体を離した。
優しく微笑む伊緒理を見て、蓮は自ら伊緒理の腰帯に手を掛けた。
蓮と同じように帯はこだわりなく解けた。蓮も伊緒理の上着の合わさっている襟を掴んで、剥ぎ取る。途中から伊緒理の手が蓮の手を包んで、二人の手で上着を脱いだ。
蓮の腰にまとわりつくようにある寝衣を褥の外に追いやって、蓮は全裸になって伊緒理の素肌の胸に抱きついた。
「蓮」
唇を求め合い、重なると伊緒理が強く吸った。
唇が離れると、伊緒理は蓮をゆっくりと褥の上に寝かせた。
袴を脱いで蓮の隣に横になると、すぐに蓮を腕の中に入れた。
「……伊緒理……」
蓮は伊緒理の愛撫にたまらず名を呼んだ。伊緒理は蓮の潤んだ目を見つめているが、蓮の体から手は離さない。蓮はしばらく続き愛撫に身をよじった。
伊緒理は起き上がり、蓮の腰から太腿の外、それから下に手を動かして、引き上げて自分の腿の上に蓮の足を載せた。そして、開いた蓮の体を見つめた。
「そんなにじっと見られては、恥ずかしいわ」
「どうして?美しいよ。美しい……あの時、あなたを抱きたかった。……でも、私はできなかった。後悔はしていない。今でも、あの時の私はあなたを受け入れてはいけなかったと思っている。……しかし、時を経って、こうして巡り合った今は私が請いたい。あなたを抱きたいんだ。私を受け入れて欲しい」
あの時、とは蓮が思い出したくもないと思う、十五の時、留学する前に伊緒理に会いたくて束蕗原まで追って来た時だ。伊緒理に拒絶された出来事は、苦い思い出だったが、今、伊緒理の気持ちを知って思い出は違うものに変わった。思い出したくもないものではなく、伊緒理の気持ちを知る嬉しいものになった。
蓮は右手を差し出した。
伊緒理はその手を取って蓮の体を起こした。
蓮は伊緒理の腰に跨り、背中に腕を回して二人の間に隙間ないようにその胸に自分の体を預けた。
「私の思いは伊緒理と同じよ。抱いて……抱いて欲しい」
蓮はそう囁いて、体を離すと自ら伊緒理の唇を吸った。
その時、部屋の隅の灯りは油が無くなり切ることを知らせる明滅を繰り返してから消えた。
真っ暗闇の中、二人の息遣いが聞こえる。蓮と伊緒理は二人の世界に落ちてお互いを求め合った。
隣に誰かが寝ている朝を迎えるのは久しぶりだ。
蓮は伊緒理が体を起こしたことにすぐに気づいた。
「目覚めたのか」
伊緒理が言った。
蓮も同じように体を起こした。
「朝は寒い。風邪など引いては大変だ」
伊緒理は褥の外にある蓮の寝衣を探した。
「伊緒理の体が温かいもの。平気よ」
そう言って裸の蓮は伊緒理の胸に抱きついた。
「ははは。そうかい」
小さく笑って伊緒理も蓮の体を抱き返した。しばらくして伊緒理から体を離し、蓮の肩に寝衣を着せた。そして、散らかった自分の衣服を集めて、身に着けた。蓮も黙って寝衣に袖を通して、帯を結んだ。
「……去様に挨拶をしたら、ここを発つよ。今日中に都に戻らなければならない」
「……はい」
「次に去様を訪ねて来ても、その時、あなたはここにいないだろうね」
「多分……私、伊緒理と会えなくなるなんて嫌。今日限りなんて、嫌よ」
「私もだ。やっとあなたへの思いを遂げられたのに、この先会えないなんてことは耐えられない。……都に戻っても、会いたい。必ず私が会えるように取り計らうから待っていて欲しい」
伊緒理の力強い言葉に蓮は頷いた。自然と嬉しさで涙が目尻に浮き上がった。
立って妻戸の前に行くと、二人は向かい合った。
伊緒理は右手を上げて蓮の頬を包んだ。蓮は伊緒理の右手の上に自分の手を重ねて頬を預けた。
「次に会う時まで元気で」
伊緒理が言うと。
「それまでどれくらい待つかしら……私は耐えられるかしら」
蓮が言うと、伊緒理は反対の手も蓮の頬に当てて、蓮の顔を引き寄せる。自分も顔を寄せて、唇を重ねた。
「私もだ。この戸の向こうに行った時から、蓮のことが恋しくなるはずだ」
伊緒理の言葉に心を揺さぶられて、蓮は自ら顔を寄せて、伊緒理の唇を吸った。伊緒理も吸い返し、二人は激しく接吻を交わした。
「……蓮、行くよ。私はあなたを二度と離しはしない。だから、私を信じて待っていて欲しい」
「はい」
蓮は力強く返事をした。
二人はもう一度抱き合ってから、伊緒理は妻戸を引いて戸の向こうへと足を出した。
東の山の稜線が赤く浮き出ている。
「また会う日まで」
つないだ伊緒理の手が解かれ。触れ合った指先が離れた時、心が痛いと感じた。
伊緒理は笑顔を見せてから簀子縁を歩いて行った。
蓮は、開けたままの戸の内側から東の空の山の稜線を赤く染める夜明け前の澄んだ美しい景色を見た。満たされていく気持ちに喜びが隠せず、一人笑顔になった。
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