「蓮さん!」
朝餉を食べた後、侍女の曜に付き添われて蓮は薬草園に行って手入れをしていたら、同じように手入れの仕事をしに来ていた井が声を掛けてきた。
「……井さん!」
井は蓮の前に来て手を取った。
「お仕事をしておられるのですね!」
それまで井とは離れの前の庭で会っていたが、蓮が薬草園に来るようになってからは会うことはなかったため、前と同じように仕事をしている蓮をみて井は感激した。
「そうなのよ。天気のよい昼間はこうして薬草園に来ているの。最近は井さんたちに会えなかったから、知らせることができなかったわね。ごめんなさい」
「いいえ。蓮さんの元気な姿が見られて嬉しいです。鮎さんと話していたのですよ。蓮さんは元気になったのかって」
「ありがとう。見ての通り私は元気よ」
蓮は答えた。
鮎さんは元気?と問いかけようとしたら、向こうで見習い仲間が井を呼んだ。
「はーい」
井は声の方を振り返って返事をした。そして、顔を蓮に戻すと。
「蓮さん、またお会いしましょう!」
元気な声でそう言って、井は仲間の方へと行ってしまった。
また会いましょうと言って、その約束が必ず果たされるかはわからない。蓮は申し訳ない気持ちになった。
「蓮様、私たちも部屋に戻りましょうか」
付き添っている曜が言った。曜が持っているかごには摘み取った葉や実でいっぱいになっていた。
「そうね。戻りましょう」
蓮と曜は庭を通って離れに戻り、階を上がった。蓮は机の前に座って休んだ。
束蕗原を離れる日が近づいている。
大嘗祭とその後の宴が終わり、宮廷では新年の行事の準備が進んでいる。
新年を迎える前に蓮は都に戻る。それをいつ、井や鮎に言うべきか、それを考えると蓮は複雑な表情になった。井の屈託のない笑顔に心がちくちくと痛かった。
そして、伊緒理だ。
伊緒理とのことを整理しなければならない。
自分のこの気持ちを、娘だった頃に一度封をした伊緒理への思いを。抑えきれず封は切れてしまった。これを伊緒理に言わずに胸の中に抱えていることはできない。
次に伊緒理と会う時が、束蕗原で会う最後になるかもしれない。都に戻ったら、簡単には会えないだろうから。だから、伊緒理を目の前にして話せるうちに話さなければいけない。
蓮は机の上に頬杖をついて、にやりとこぼれる笑みを隠した。誰に見られているわけでもないが、恥ずかしくなったのだ。
十五の自分が伊緒理を追って束蕗原に来て、抱いて欲しいと懇願し、拒否された時のことを思い出した。
今思い出しても恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいの記憶である。
二度もあんな思いはしたくない。だから、伊緒理に再び自分の気持ちを言うのは怖い。
蓮は心を鎮まらせるために、机に向かって写本を始めようと筆を取った。
そこへ薬草園で摘み取ったかごを母屋に届けに行った曜が戻って来た。
「蓮様」
曜は蓮の前に座ると、口の横に手を立てて小声で言った。
「先ほど、伊緒理様がこちらに到着されたようですよ」
蓮の心の臓は急に早く脈打ち始めた。
「……そう。伊緒理が来たの……」
深夜、伊緒理が蓮の部屋に来ていることを曜と話したことはないが、腹心の侍女は全てを知っているのかもしれない。今も、蓮の心の準備ができるようにそっと伊緒理の来訪を教えてくれたのだ。
蓮はそのまま写本を始めたが、心の中は鎮まることはできなかった。
今夜、伊緒理は部屋を訪ねてくれるかしら。
そうなったときのためにも、蓮は心の準備をしておかなければならない。
怖くても、自分の気持ちを伊緒理に告げるのだ。その結果がどうなろうと、関係ない。好きなものは好きと言わなければならない。言わなければきっと後悔するはずだ。言わない後悔より、言った後悔の方がいい。
十五の時もそう思っていた。その頃から、私は成長していないのかしらね。
蓮は、自分の変わらない性格に困ったものだと思った。
写本に精を出した後、いつものように去と母と一緒に夕餉を食べるが、今夜は違った。
部屋に入ると、四つの膳が用意してある。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
蓮が去に訊ねると。
「今夜は伊緒理も一緒に食べよう」
いつもなら、伊緒理は他の男医者たちと一緒に食事をしているのに、今日はどうしたことだろうと思った。
しばらくすると侍女に案内されて伊緒理が現れた。
「蓮、お前を見つけてくれたのは伊緒理だよ。気づいていたかい」
皆が揃って席に座ると去が言った。
「はい。意識が薄れていく中、伊緒理殿の声が聞こえた気がしていました」
「そうか。その後も伊緒理はお前を心配していてくれて、束蕗原に来ては様子を聞いていたね。目の前の蓮はどうだい」
蓮から伊緒理に視線を移して、去は伊緒理に話を向けた。
「はい。ふっくらとして助けた時よりもずいぶんと回復しています」
「そうだろう。もう、仕事もしているし、元に戻ったと言っていい。だから、蓮がここにいるのもあと少しだ。その前に伊緒理に会っておいた方がいいかと思って夕餉に呼んだんだ。ね、蓮」
「……はい」
蓮は隣に座る伊緒理に体を向けて頭を下げた。
「伊緒理殿、助けていただき感謝します」
「あなたを見つけられてよかった」
蓮は頭を上げて伊緒理を見た。
目を細めて笑顔の伊緒理が同じように体を向けて自分を見ている。
去様は私と伊緒理があの日以来一度も会っていないと思っているよう。お母さまはどうかしら……去様と同じ?それとも知っていて知らないふりをしてくれているのかしら。
蓮は伊緒理から視線を離して、前に座る母を見た。
母の礼は蓮が顔を向けたのを察知して、伊緒理からこちらに視線を向けた。左目の眼帯で顔の半分が隠れているから、表情はわかりにくく、本当のことはわからない。
「さて、今日は伊緒理が来るなんて思っていなかったから食材の用意などしてなかったのだが、ありがたいことに魚が届いてね。ごちそうで客人をもてなすことができた。蓮も好きだろう。食べよう」
膳の上には焼いた魚が載っていた。それに粥、塩漬けの青菜、栗の実を蒸したもの、きのこ汁があった。そして、去は酒を用意していた。
「伊緒理、少しだけおあがりよ」
徳利と杯を載せた盆が蓮の前に運ばれた。蓮は伊緒理に杯を渡し、次いで徳利を持って傾けた。満たされた杯の縁に伊緒理は口をつけ、少量口に含んだ。
前回伊緒理が束蕗原を訪ねてから二十日が経っている。四人はお互いその間に起こった出来事を話して聞かせた。
一通り話が終わったところで伊緒理が言った。
「蓮は都に戻るのですね」
「そうなんだよ。元気になってくれて本当によかった。伊緒理が見つけてくれた時は、顔色は真っ白で息をしているのか不安だった。粥も食べられなかった。寝ていてうなされていることもあった。本当に心配の尽きない日々だった。それでも、礼の献身の看病があって食事がとれるようになり、体を起こすことができ、顔色も良くなった。痩せた体もだいぶ元に戻ったようだし、これなら車に乗って都まで帰ることができるだろうと思っている」
「そうですか……去様は寂しいのではないですか」
伊緒理が言って去を見た。
「うん……蓮が帰ってしまったら寂しいねぇ。でも、蓮がここに来た時から、ここにいるのは一時的なものだと思っていたよ」
去は言った。
「一年は短いと思うかもしれないが、それはそれは濃い一年だったはずだ。こんなお嬢さんが見習い達と狭い部屋で一緒に寝起きしていたんだからね」
「はい、去様。束蕗原には一緒に学んだ仲間ができました。都に戻っても、折を見て束蕗原に来ます。去様や仲間に会いたいですから」
「そうかい?蓮には厳しくしてしまったけど、ここにいてくれたこと、とても心強かったのだよ」
「はい、去様。でも、まだしばらくはここにいますからね」
そんな会話をしたが、母の礼をずっとここに留めておくわけにはいかない。母を必要としている小さな妹弟たちや父の実言は寂しがっているだろう。
いつ帰る、と日にちを決めなくてはいけない。
去は伊緒理のことも本当の孫のように思っていて、蓮と同じように気にかけている。伊緒理が都での仕事の話を始めると話が弾んで弾んで仕方がなかった。
いつもより長い食事になった。
蓮は伊緒理にお酌をし、伊緒理はゆっくりと杯を口に持って行って酒を飲んだ。
蓮は伊緒理が酒を飲む姿を始めてみる。酒で顔色が変わることなくにこにこ笑っている。
「去様、そろそろ終わりにしませんと」
蓮が徳利を傾けたら杯の半分を満たしたところで、数滴の雫が落ちて中身がなくなった。
それを見た礼が去に言った。
「伊緒理も都から馬を駆けらせてきたのですから、疲れているでしょう。それに、医師の仲間たちが待っているかもしれませんよ。今日はここに到着してからずっと去様とお話しているでしょう?医師たちは伊緒理に訊ねたいことがあるかもしれません」
去の元で勉強している束蕗原の男医師たちは、異国で学んで帰った伊緒理を頼りにしていて進んで教えを乞いに来た。同性で年も近いというのもあって、親しくしていた。
「いいえ。明日の朝まで待ってもらいますよ。今回は二泊させていただきます。三日目の朝は早く発たなくてはなりませんが」
「あら、明日もいてくれるのね。なら、たくさん話をしましょう」
それを聞いた礼はころっと態度を変えて、四人はもう少しばかり話をした。
「では今夜はこれで」
話が途切れたところが潮を思い、去が話を切り上げた。
自室に戻るため立ち上がった去と付き添う礼を蓮と伊緒理は並んで簀子縁まで出て見送った。
去が角を曲がるところで振り返って、二人を見た。にっこりと笑う顔の皺が深くなった。
去と礼の足音が聞こえなくなると、伊緒理は蓮に体を向けた。
「あなたのお酌で酒が飲める日が来るなんて思いもしなかったよ」
「私もです」
「旨い酒がさらに旨くなった気がした」
「まぁ、ふふふ、お上手ね。でも、嬉しい」
蓮は口元を袖で隠して笑った。
今日、去が伊緒理と一緒に食事をさせてくれたのは、確かに蓮を見つけてくれた伊緒理に会わせて感謝の気持ちを伝えさせたいという思いがあったのかもしれないが、これからみんなの前で二人が会いやすいように取り計らってくれたのではないか、とも思った。
去と礼、そして邸の侍女たちの前で蓮と伊緒理が顔を合わせれば、今後も二人が白昼堂々と束蕗原で会うことを不自然には思わないだろう。
そんな去の気遣いがあったのではないかと、蓮は思うようになっていた。
「あなたも部屋に戻らないと。いくら前のように生活できているからと言って、体の調子がどこまで戻っているか」
並んで離れに向かって簀子縁を歩きながら伊緒理は蓮に向かって言った。
「私はもう大丈夫よ、本当に。みんなが心配してくれるのはありがたいけど、それでじっとしていては私はいつまでも前のようにはなれないわ。少しでも動いて体力をつけなくちゃ。だから、毎日薬草園に行くのが日課よ」
そんな話をしていたら、母屋と離れを繋ぐ渡り廊下の前に着いた。
「そうだな」
蓮は渡り廊下を渡る一段を登った。
「先ほど話した通り私は明後日までいる。明日もあなたの元気な姿を見たいものだ」
そう言って、蓮の下ろしている手に手を伸ばし、そっとその指先に触れた。
「はい。また明日」
この会話で伊緒理と会えるのは明日の夜だと悟った。
明日、何を話そう。
去様やお母さまを交えての会話も楽しいけど、伊緒理と二人切りで二人の世界の会話をしたい。
考えるのも嫌だけど、もしかしたら明日会うのを最後に、私は都に戻り、伊緒理とまた会えるかわからないのだから。
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