もう、水の中に落ちる前と変わらない生活ができているのに、母である礼は今も心配して、蓮が目の前の食事に手をつけないでいると、手づから匙で粥をすくって蓮に食べさせようとする。
「お母さま、私は自分で食べられます」
「だって、椀を持たないから食欲がないのかと思って、そんなことではだめだから」
「食べます。自分で食べますから」
蓮は母から粥の椀を受け取って言ったように自分ですくった粥を口の中に入れた。
発見された時の蓮は、体が弱って重湯を朝夕少しだけ口に入れるだけの日々が続いた。それですっかり痩せてしまって、母の礼は元気を取り戻した娘にたくさん食べさせようとするのだった。
母が束蕗原に来てもうふた月が経とうとしている。
蓮は都にいる小さな弟妹たちのことが気になったが、母はそんな素振りは見せない。
蓮の看病をし、その間に去の手伝いをしている。
今はもう、前と同じ生活ができるようになったのだから、付きっ切りの世話はいらない。お母さまは都に帰らなければならない。小さな弟妹たちもお母さまのことを恋しく思っているだろうし。
いつ帰るの。もう帰っていいよ。私は大丈夫。
蓮はそう言いたいのだが、いつ言うべきかわからない。
毎朝毎夕、朝餉夕餉の時に去と母の顔を見ながら、いつ言うべきかと時を窺っている。
そうしているうちに十一月に入った。
蓮は母をこのままここに留めておくのは、父にも申し訳ないと思って、今日こそ都に帰るように言わなくてはと思って緊張していると、朝餉を皆で取っている時、去が口を開いた。
「蓮、お前の今後だけど」
急な言葉に、蓮は緊張した。
「……もう、見習いとして過ごすことは難しいのではないか。……皆、今までと同じように蓮に接することはできないだろう」
「……はい」
見習い仲間として仲良くしていた鮎や井とは、あれから何度か離れの庭で会っているが、それまでの気安い言葉遣いはなりを潜め、丁寧な言葉で話している。それが距離を置かれていると感じている。
去の孫同然と知れた今、前と同じ立場ではいられない。皆、気を使って接してくるだろう。
「お前はよくやってくれたよ。話を聞けば、見習い達の仲を取り持つためにいろいろと苦心してくれていたようじゃないか」
「私はそんなことは……」
それは牧と他の仲間たちのことだろうか。誰も嫌な思いをすることなく、みんな仲良く助け合って学びたいと思っての行動だったが、成果を上げられたのか蓮にはわからなかった。
「鮎たちから聞いているよ。でも、もう蓮をその中に戻すことは考えていない」
去は隣に座る母の礼の顔を見た。すると、礼も口を開いた。
「蓮。もうしばらく束蕗原で過ごして、寒くなる前に私と一緒に都に帰りましょう」
「私は!」
「蓮、よくやってくれた。しかし、私は蓮が都人としての生活に戻ることを望むよ」
去の言葉に蓮は反論できなかった。
どうしてここに来たのか……。
それは去様やお母さまの手伝いをしたいから。医術の知識を学び、写本をして皆に知識を共有する助けをしたかったから……。
束蕗原に来て一年しかたっていない。それで、ここを離れることになるとは。道半ばであることを心苦しく思った。
しかし、それは表向きの気持ちで、蓮の心の底にはあの男を封印するために都を離れる必要があった。その心を見透かされないために、去の特別扱いはしない。他の見習いに交じって生活することを受け入れた。
都を離れて一年。私の心は都に帰ってもいいのかしら……。
「……蓮、都であなたがするべきことはあるわ」
母に言われて、蓮はぐっと口をつぐんで宙を見つめた。
「定期的にここを訪ねておくれ。鮎たちもそれを望んでいるよ」
去の言葉に。
「……わかりました」
蓮は返事した。
この先も束蕗原に通い、去の手伝いができるのなら、それはありがたいことだと思った。
蓮が伊緒理と一夜を過ごした後も伊緒理が束蕗原に来た時は、真夜中に蓮の部屋を訪れてくれる。今夜で三度目だ。
その夜、もう油が切れかかって明滅する小さな灯りの中で、蓮は伊緒理と向かい合って話をした。
いつものように、蓮は伊緒理が陶国に留学していた時の話を聞きたがり、伊緒理は求められるままに話をした。これまで留学のために父の荒益に頼んで、留学生を紹介してもらいその元で言葉を学んだこと。船の中で陶国の人と会話をして慣れたと思っていたが、勉学の場になると全く分からなくて苦労したこと。寝る間を惜しんで、書物を読み、見ることができる実物はその眼で見て、手で触り、匂いを嗅いでと、陶国に来なければ経験できないことは何でもやったこと。その間に、風土の違う陶国の景色を見て、見たこともない食材を味わったことのない味で食べたことなど、面白くて尽きない話を蓮は興味深く聞いた。
蓮が伊緒理に質問を続けるのは、伊緒理に質問をさせたくないからだ。伊緒理が留学した後の蓮がどのような時間を過ごしていたのかを問わせないためだ。
蓮が言わなくても、伊緒理は誰と、までは知らなくても蓮が結婚したことは知っているだろう。今まで一人でいたなんて思っていないはずだ。でも、今一人でいる理由は知っているだろうか。
去様やお母さまに訊ねたかしら……。訊ねられたら、二人はなんと答えたのかしら。
蓮は自分から話すことが怖かった。
「蓮……?」
蓮は呼ばれて、はっと我に返った。
揺らめく灯台の明かりを見つめている蓮を伊緒理が怪訝そうに見ている。
「どうしたんだい?何か心配事かい?」
「……私の今後のことを去様とお母さまとで話したの」
伊緒理は握った蓮の手を優しくさすった。
「……都に帰ったほうがいいと言われたの。去様にここで生活すると言った時、甘えてはいけないと言われて素性を隠して見習いとして勉強していた。でも、もう私が何者か知れてしまった今、みんなが前と同じように私に接するのは難しいと思うから……新年を迎える前にお母さまと一緒に都に帰るという話になったの」
「そうか……」
伊緒理は表情を変えず、蓮の言葉に頷いている。
「……淋しいわ」
蓮が言った。
それは束蕗原を離れるとともに学んできた仲間たちと離れることを淋しんでいるのか、それとも目の前にいる伊緒理との逢瀬を断つことになることを淋しんでいるのか。
「……そろそろ寝ないと。あなたの体はまだまだ回復途中なのだから、ね」
伊緒理の言葉に蓮は衾をめくり、二人で褥の上に横になった。
蓮は何のためらいもなく伊緒理の背中に腕を回して抱きつき、その胸に顔を埋めた。
「蓮」
優しい囁き声に蓮は顔を上げる。
こうして語って夜を過ごした時の寝る前、毎回してくれる伊緒理からの口づけ。
唇が離れると伊緒理が言った。
「ゆっくりお眠りよ」
目を瞑っても、手に、胸に伊緒理を感じる。
蓮は安心して眠りに落ちる。
伊緒理が黙ってこの部屋からいなくなっても、次にまた会えるという確信がある。そして、現に伊緒理は会いに来てくれている。
伊緒理とあとどれだけこうして会うことができるだろうか。
こうして秘密の逢瀬ができるのは、束蕗原にいるからだ。
もし、私が都に帰ってしまったら、こんな時間は無くなってしまう。伊緒理も普段は都にいるのだから、会えないわけではないが、こうして胸の中で眠ることはできないだろう。
そう思うと、蓮は束蕗原から離れるのを少しでも引き延ばしたいと思い、体が回復することを少しためらっているのだった。
淋しいのは、やはり伊緒理との時間を失うことだ。
こうして再び巡り合えたのに、また離れてしまわなくてはならないのは辛い。伊緒理とのこの繋がりを断ち切りたくないと蓮は切実に思うのだった。
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