New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第六章16

小説 STAY(STAY DOLD)

 ピーっという音がした。
 人は鳥の鳴き声と思うかもしれが、露には区別できた。
 男が来たのだ。
 露は妻戸を静かに開けて顔を出した。侍女たちが寝る建物の前に並ぶ大きな杉並木の一番遠くの樹の陰から男が顔を覗かせた。
 夕方のあたりが暗くなり始めた頃だったが、その顔がはっきりと見えた。
 一旦顔を引っ込めた露は髪を手で撫で、襟をつめると妻戸を細く開けてその間をすり抜けて外に出て行った。階を下りて、一目散に男のいる樹まで走った。
「朱鷺世!」
 露は樹の裏に回り込んでそこに座り込んでいる男の名を呼んだ。
 朱鷺世は露の顔を見上げると、すぐに立ち上がって無言で宮廷の広大な庭の奥へと入っていく。いつものことなので、露は黙って朱鷺世の後ろをついて行った。
 ずいぶんと奥に行き大きな樹の前に来たところで、朱鷺世は振り返り、後ろに立つ露に両手を広げ、抱き締めた。
「……とても久しぶりね……。舞の練習が忙しいの?」
 露は朱鷺世の力が強くて、その広い胸に頬を押しつけられた状態で尋ねた。
「……今度……新嘗祭の宴で、大王の前で一人舞をすることが決まって……」
「え、そうなの!すごいわね」
 露は顔を上げた。そこで、朱鷺世の腕の力は弱まった。
「……残って練習をしていた……」
「そう、前のように叩かれたりしているの?」
「そんなことはない。……俺は……そんな下手な舞手ではなくなった」
「まぁ、さすがね」
 露は朱鷺世の胸に手を置いて、その体から離れようとした。そこへ、朱鷺世は両手を上げて、露の両方の頬を挟んでそっと上に引き上げた。頬を押されて露の唇が突き出ると、朱鷺世の唇が重なり二人は接吻した。
 朱鷺世は唇を離すと樹の幹に背中を預けて座ろうとして、慌てて体を起こした。
「……?何?」
 露が訊ねた。
「……これ」
 朱鷺世は腰にぶら下げていた袋に手を入れてその中のものを取り出した。
「これ……もらった。……稽古が終わって」
差し出したものを露が両手で受けると朱鷺世は木の根元に腰を下ろして、露も座った。
「これは……あけび?見たことはあるけど、食べたことはないわ」
「……食べろ……」
「いいの?」
「ん……俺は稽古場で一つ食べた」
 露は熟して開裂した実の中に口を着けた。
「……甘い!こんな甘いもの、初めて食べたわ」
「……ん、俺もだ」
「これは朱鷺世がもらったの?」
「……桂様からの差し入れだそうだ」
「桂様……王族のお姫様ね。勝負で朱鷺世を負けにした」
 王族や政治のことに疎い露だが、月の宴の対決で桂という王女がいることを知った。そして、大王が桂に勝敗を決めさせて、朱鷺世が負けたことも聞いている。
「……そんなこと言ってはいけない。俺の力が足りなかったのだ。……次にあのような舞台があるなら必ず俺が勝ってやる」
 どこを見ているのかわからないぼんやりとした目つきの朱鷺世がその時はギラリと目を光らせて言った。
「そうね……朱鷺世は新嘗祭の後の宴にひとりで舞を披露するくらいなんだもの」
 露はあけびを全て食べ終えると皮を地面に置いた。
 暗さに目が慣れて、朱鷺世の顔が近づいてきたのが見えた。
「朱鷺世……」
「こっちに来いよ」
 露の左腕を掴むと引き寄せた。
 露の体は引っ張られてよろめいたが、膝で這って近づき、朱鷺世のあぐらの中にすっぽりと入った。
 朱鷺世はすぐに露の体に腕を回して抱き締めた。

 月の宴が終わった後、露は翌日にでも朱鷺世が会いに来てくれると思っていた。
 しかし、朱鷺世は現れなかった。できることなら、朱鷺世の口から勝敗の結果を、勝ったことを聞きたかった。悲しいことにその事実は朱鷺世からではなく、翌日、翔丘殿で台所や給仕の手伝いに行った女官や侍女たちのおしゃべりから知ることになった。
 朱鷺世は……負けてしまった……。
 翌日の夜、露は台所から握った搗き米を柿の葉に包んだものを二つ用意し、月あかりが差し込む蔀戸の前でピーッと鳥の鳴き声のような口笛が聞こえるのを今か今かと待った。しかし、朱鷺世は現れなかった。翌日も、その翌日も、露は朱鷺世がお腹を空かしていてはいけないと思って、搗き米を包んだものを用意して待っていたが、無駄になってしまった。そのまま捨ててしまうのはもったいないと、部屋の仲間で分けて食べた。
 分けた搗き米をほおばりながら、露は明日こそは朱鷺世が来るのではないかと思った。
 しかし、朱鷺世は現れない。
 九日目に、朱鷺世のために握った搗き米が無駄になって明日はもう用意しないと決めた。しかし、朱鷺世が来るかもしれないと思って、露は口笛を聞き逃さないように蔀戸の傍に座っていると、鳥の鳴き声のような口笛が聞こえた。
 露は妻戸を押し開けて、顔を出した。
 夕闇の中、大きな樹の幹の陰に男の体の一部が見えた。
 朱鷺世だ!
 露は、なぜ今日も搗き米を用意しなかったのだろうかと、悔やむ気持ちを押さえて階を下りて行った。
 息を弾ませて幹を周り込むと、やはり朱鷺世が座っていた。
「朱鷺世!」
 月の宴の翌日には会えると思っていたのに、それから十日も経ってしまった。勝敗の結果は知ってしまったが、それで朱鷺世がどうかなってしまうわけではない。逆に、立派になったと思った。露はその顔を早く見たかった。
 朱鷺世は顔を上げて、露を見たがすぐにふいっと顔を背けた。
「私、待っていたのよ。朱鷺世に会いたかった」
 露は朱鷺世の前にしゃがんで、背けられた顔に向かって言ったが、朱鷺世は急に立ち上がって、庭の奥へと向かった。露も遅れて立ち上がって朱鷺世の後ろを追った。追いつこうとした時に、朱鷺世はいきなり立ちどまり振り向いた。朱鷺世の手が伸びて、露の手を握った。それからは、二人で肩を並べて歩いた。
 不機嫌そうに見えた朱鷺世だが、手を握った後は歩幅を合わせて歩いてくれて、一度握った手を離して、指と指を交互に絡めて握り直した。
「……朱鷺世……」
「ん?」
「残念だったわね」
「……ん」
 月の宴から十日も経った。朱鷺世から結果を言わなくても、知っていることを露は伝えた。
 朱鷺世は急に立ち止り、近くの樹の根元に腰を下ろした。手を繋いだままなので、露も一緒に腰を下ろさざるを得なかった。
 真っ暗な中、月の明かりが森の樹々の間から差し込んで、朱鷺世の目が白く光って見えた。
 朱鷺世の出で立ちは随分と変わってしまった。侍女たちの住居から出てきて、朱鷺世の前に立った時に違和感があった。それは、いつもなら薄汚れた、継ぎのあたった服を着ているのに、今日は汚れてもいなければ、継ぎも当たっていない。新調したてのような薄い青の上着を着て、髪もとかして一つに結んださっぱりとした出で立ちに目をみはった。
 朱鷺世が自分の知らない人になるようで、露は怖くなった。
 座った朱鷺世を見つめていると、朱鷺世は露の手を引っ張って腕の中に倒れ込ませた。
「……朱鷺世」
「……俺も……会いたかった……」 
 そう言って、露の体を抱き締めて肩に顔を伏せた。
 いつも口数が少なくて、自分の思っていることを言うこともない朱鷺世が、露に会いたかったと言った。
 露は嬉しいと思いながらも、不思議な気持ちがした。
「……なら、もっと早く来てくれたよかったのに。私は宴の翌日からいつ朱鷺世が来てくれるかと思っていたのよ。搗き米も用意して待っていたのに」
「……ん」
 朱鷺世は露の肩に伏せたまま、小さな声で頷いた。
「……忙しかったの?」
「……」
 朱鷺世は何も答えない。
 露はあの夜から朱鷺世の周りは変わってしまったと思った。
 着ている物も新しくなり、身なりが整った。そして、今、朱鷺世からいい匂いがする。風呂に入り、香の焚かれた部屋にいたような……。
 今日は高貴な人にでも会っていたのかしら……。
 朱鷺世が舞人として成功することは、露にとっても喜びである。しかし、今までのように会えなくなるのは寂しい。
 朱鷺世が顔を上げた。露は朱鷺世が何か言ってくれるのかと、朱鷺世を見つめると、朱鷺世の手が上がって露の頬に当てられた。何をするのだろうと思っていると、顔が近づいて来て、唇を塞がれた。
 朱鷺世は激しく露の唇を吸う。そして、唇が離れると言った。
「抱きたい」
 そして再び唇を吸った。
 露は朱鷺世の願いに応える気になっている。だから、露も朱鷺世の唇を吸い返した。

 月の宴の後に会った時のように、朱鷺世の顔が近づいて来て、露の唇を吸った。
 朱鷺世の訪れは前より減ったが、通ってくれている。
 変わったことは露が腹を空かした朱鷺世のために搗き米を用意することがなくなったことだ。逆に、朱鷺世がもらったという生り物を持って来てくれることが多い。
 露は朱鷺世がどこか遠くに行ってしまうという不安と、待っていれば途切れることなく会いに来てくれるという信頼がない交ぜになる。
 それを朱鷺世との性交で意識の奥に押し込み、一時でも忘れようとしてしまうのだった。

コメント