New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第六章13

小説 STAY(STAY DOLD)

 季節は夏から秋へと変わった。あの洪水の日からふた月が経とうとしていた。
 洪水は束蕗原の風景を一変させてしまった。山崩れが起こり、作っていた稲や畑は水に覆われ、引いた後には大量の土、砂、石が残された。村人の家、そして命を奪った。しかし、住人たちは家や畑を再建するために力を合わせて、前を向いて明日を見据えて着実に今日を生きていく。それは住人たちが一時的に住むところ、食べる物がなくても心配することがないことが理由の一つだ。束蕗原を治める去が足りないものを用意し援助してくれるのだった。
 今回も家を建て直す資材の調達や、つぶれた田畑を再び作物が育つようにすること、どれも去の邸の者たちが動き、大勢の人を出して手伝った。洪水が無ければ取れたはずの作物がないことによる食料不足も、去の邸から一定量の米が配られたし、去の館を訪ねれば粥を食べさせてもらえた。
 日頃から去が束蕗原の経営をうまくやっているからだが、それができるのは岩城実言や岩城家の者たちが関わり、指南してくれているおかげだった。
 実言は蓮を心配し見舞うために束蕗原に来たが、もう一つの目的は束蕗原の被害を把握し、速やかに再建に向けた道筋を作る手助けをするためだった。
 宗清と一緒に来て帰った後、再び実言だけが来て、去と話し合い、束蕗原の再建の様子を見てまわった。
 去も年老いた自分では昔のように領地の経営ができないことはわかっており、娘同然の姪である礼とその婿である実言に将来は任せたいと思っていた。
 一方、蓮の体は痛みや重さもなくなり、食事も通常のものを食べられるようになった。
 立ち上がって部屋の中を歩くことも始めて、気分がいいと寝衣を着替えて、机に向かった。
 寝たきり、食事が摂れない時期が長くて、痩せて行き体力も落ちてしまったので、蓮は無理をせず、部屋を歩くことになれると、曜と一緒に簀子縁に出て母屋とつながる渡り廊下を往復して、途中庭を眺めたりして、少しずつ健康を取り戻していった。
 夜はめっきりと涼しくなって、秋の虫が鳴いている。それを聞きながら、その夜、早々に眠りに落ちて行った。
 夜中、蓮は人の気配を感じて、薄目を開けた。
 庭で足音……。
 それまでは、同じ部屋に母の礼が一緒に寝起きしていたが、蓮が立って簀子縁まで出られるようになってからは去の部屋に移った。
 一人で寝るようになって、外の音に注意深くなったのかもしれない。
 蓮は足音に耳を澄ました。
 足音は忍んでいるが、蓮にはよく聞こえた。
 階を登る音。ゆっくりと簀子縁を歩いて、妻戸の前に来た。しばらくして妻戸が小さな音を立てて開いた。
 蓮は人影が忍び込んできたことを感じた。
 しかし、怖いという気持ちにはならなかった。
 誰かしら……。
 ずっと待っていた人だったらいいのに。
  伊緒理!
 蓮は目を閉じて、伊緒理のことを思った。
 この体を生かしてくれたのは伊緒理だ。私を見つけて去様の邸まで運んでくれたのは伊緒理に違いない。
 時折、頭の中でこだまする声。
 諦めるな!諦めるなよ、蓮!諦めないでくれ。私があなたを助けるから、絶対に!
 この声に励まされた。
 蓮!蓮……
 そうよ、この声に励まされた。
「……蓮……」
 蓮……?私を呼ぶ声。
「……はい」
 蓮は反射的に返事をして、体を起こした。
 呼ばれたから返事をしたのに、几帳の向こうはしんとしている。
「…………伊緒理……」
 蓮は我慢しきれずにその名を呼んだ。
 しばらくして、部屋の暗がりの中から白い着物が浮き上がり、一人の男の姿が現れた。
「そうだ……蓮……私だとわかっていたのか」
 照れた笑いを浮かべて、伊緒理は几帳の傍に立った。
「夜遅くに、寝ているあなたの部屋を訪ねるのはよくないと思ったのだが」
「……伊緒理……私……」
「うん」
「あなたがいつ来てくれるのかと待っていたのよ。何度か……私の様子を遠くから見守ってくれていたでしょう。でも、こうして傍に来てくれる日を待っていたの」
 蓮が言うと、伊緒理は几帳から離れて、蓮の前へ来て座った。
「悪かった……遅くなってしまった。確かに、あなたの回復する姿を遠くから見ていたし、去様や礼様からも様子を聞いていたよ。大丈夫、必ず、蓮はよくなると信じていたけど、それでも万が一何かあったらと、心配で仕方なかった。あなたが目覚めて言葉を発し、食事を摂り、体を起こすことができるようになって本当に安心したよ」
「伊緒理……あなたが私を助けてくれたのでしょう?」
「そうだ。……運よく、あなたを見つけたのは私だ」
「あなたは医者だもの、私が元気になる姿をきちんと確かめる必要があるわよね」
「そうだね……遅くなってしまったけど、今夜、こうして忍んできた。あなたの元気になった姿を確かめるために」
「……伊緒理……」
 伊緒理の名を言う蓮の声は震えて、涙声になった。
「蓮」
 伊緒理の声がより近くで聞こえた。それは、伊緒理が褥に上がり、蓮の手に手を置いたからだった。
「よくここまで回復してくれた。嬉しい……嬉しいよ」
 伊緒理は重ねた蓮の手を撫でた。
 蓮は自分の手の上にある伊緒理の手にもう一方の手を重ねた。
 大きくてごつごつと硬い皮の手の感触に、長い年月を感じた。確かに伊緒理に撫でられているのに、伊緒理の手のように思えなかった。もっと華奢で、きれいな手だったはずなのに。
「あなたが束蕗原にいるのを何度か見かけたわ。それで、私は、留学から帰って来たのだと知ったの」
 蓮は言った。
「そうか。私もあなたが束蕗原で他の見習いと一緒に学んでいることを去様から教えてもらった」
「そう……去様が……」
「言葉ではっきり言われたわけではない。あなたと一緒で、渡り廊下ですれ違った時にあれは蓮だと知ったのさ。去様から見習いに、よい手蹟の者が少し前に入ってね、と言って写本を手渡されてね。中を一目見て誰の筆跡なのかわかった。よい手蹟の見習いとは蓮だと察したのさ。それから、去様に率直にお尋ねした。蓮はここで見習いとして学んでいるのかとね」
「……そうなの……。去様やお母さまの助けになりたいと思って、ここでひとりの見習いとして勉強することにしたのよ」
「去様や礼様の手伝いをか……蓮の筆跡は昔と変わらず美しい」
「懐かしいものだったかしら」
「いいや……蓮が私のために書いてくれた写本は留学先にも持っていた。船には限られた荷物しか持って行けなかったけど、小さな行李の中に幾冊か入れて行った。陶国でも蓮の本は褒められた。陶国で学ぶ間、また帰国の船に乗っている間に何冊か失ってしまったけど、二冊は残った。肌身離さず持っている。今もだ。私の心の支えだったよ。私が留学の間ずっと持っていたものは、父から出発前にもらった手紙と蓮の写本だ」
「……うれしいわ……」
 蓮の手に挟まれている伊緒理の手は下にある蓮の手を握った。蓮は顔を上げて伊緒理を見た。
 伊緒理は腰を上げて、先ほどよりももっと蓮に近づいた。蓮は真正面から伊緒理の顔を見つめることができた。
 束蕗原ですれ違った時にも思ったことだけど、昔と変わらない優しい顔。別れた時は色の白い、体の細い人だったけど、今は肌は日焼けして浅黒く、体は一回り大きくなったように見える。
 蓮は伊緒理に笑いかけた。
 その時、伊緒理は再び腰を上げて、蓮に近づき蓮の体を腕の中に入れた。
「……伊緒理……」
「蓮……諦めなかったね」
「あなたが私を励ましてくれたわ。何度も諦めるなって、生きろって言ってくれた。意識がなくなる中で、その言葉をわたし自身も唱えていたのよ」
「そうか。よく耐えてくれた……。礼様たちに聞いたら、大きな怪我や傷もなかったようだね。心配だったんだ。村人の中には、流れて来た大きな枝がぶつかって傷を負ったり、骨を折った者がいた。蓮もそんな怪我をしていたらと思うとね。私が抱き上げた時には頬や腕に擦り傷があった程度だったが」
「……私は幸運ね」
「そうとも言えない。真っ暗闇であたりがよく見えない冷たい水の中で一晩耐えた体は疲れ果てて、熱にうなされただろう。嘔吐して食事も満足に取れなかった。……つらい目に遭った蓮に私のできることはなかった。……こんなに痩せてしまって」
「……伊緒理と最後に会った時、私は十五歳だったわ。とてもふっくらしていた頃よ。束蕗原での生活で、少しは痩せたわ。都の生活のように頂き物を食べて、侍女が何でも世話してくれるような生活ではないからよ」
「そんなことはない。食事が摂れないのはよくないことだ。重湯を吐いてしまうあなたに礼様も去様も心を痛めておいでだったよ。しかし、お二人の献身な看護もあって、こうして部屋の中を立って歩けるくらいに快復した」
 蓮は伊緒理が心配してくれていたこと、ここまで快復する経過を見守ってくれていたことを知って嬉しくて伊緒理の胸に顔を伏せた。
「……あなたに再び会えたことが嬉しいよ」
 伊緒理は腕の中の蓮を抱き締めた。
 伊緒理……私と同じ気持ちだったのね。私も伊緒理と再び会えて嬉しい。
 蓮も左手を伊緒理の上着の襟に置き、握った。
 二人はそれが何かの合図のように感じて、お互いの顔を覗き合った。
 伊緒理が微笑んでいる。蓮もにっこりと笑い返した。
 すると、伊緒理が右手を蓮の顔に伸ばして、頤に指を添えて、その指が蓮を上へと向けさせた。
 何の前触れもなく、心構えもなく伊緒理の顔が蓮に迫り、あっという間に口づけされた。
 そっと軽く唇に触れた程度ですぐに、伊緒理は離れてしまった。
 いやよ、伊緒理。やめないで。
 蓮がそう思った矢先、再び伊緒理に口づけられた。次はそっと触れた後に、強く押しつけられた。
 蓮は目を閉じて、その甘美な時を味わった。
 初恋の人との口づけ。
 それは蓮にとって苦い苦い思い出だった。
 岩城家と椎葉家はその権力を二分する名家で、蓮と伊緒理はそのそれぞれの家の一員である。権力の拡大を目論む両家にとって、友好的に付き合っていても水面下では熾烈な権力争いをしている。その両家の出身者である二人が結婚することに抵抗をおぼえたのは伊緒理だった。お互いを思っていても、最後の一線を超えることをためらう伊緒理に蓮は迫ったのだった。留学する前に別れの挨拶をするため束蕗原にいる伊緒理を追った蓮は、伊緒理に自分の思いを受けて入れて欲しいと懇願し、押し倒して口づけをした。
 自分から伊緒理の唇に自分のそれを押し付けたのだったが、伊緒理に体を後ろに押されて拒否されてしまったのだ。
 それが、今は伊緒理から口づけされた。長い長い時を経て、あの時の出来事を塗りつぶして上書きするような長い接吻だった。
 伊緒理の唇が離れても蓮は目を閉じたまま、胸に顔を伏せた。
「……伊緒理……傍にいて」
 蓮は握っている伊緒理の襟に力を込めて言った。
「いるよ。……夜明けまで一緒だ」
 伊緒理は言うと、衾をめくって褥の上に横になった。蓮も衾の間に入り、再び伊緒理の腕の中に抱かれた。
「まだ体は治っていないのだから、しっかりと眠らなくてはいけない」
 秋の夜の虫の音と共に伊緒理の言葉を聴きながら、蓮は目を瞑った。

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