「見たところ、顔や手、足に擦り傷……そして、足に打ち身……。流れてくる樹の枝などが当たったのだろうね……」
去はそっと蓮の体を触って言った。
「それにこんなにも体が冷たいですよ」
曜は蓮の手や足をさすった。
それは去もわかっていて、しばらくして焼いた石を布でくるんだものが蓮の足元に置かれた。冬の寒い時期に暖を取るためにすることだが、晩夏の今であっても冷えた蓮の体を温めるために用意された。
意識はないままだが、女人二人で蓮を抱き起こして冷ました薬湯と重湯を匙で口の中に入れる。重湯はうまく飲み込まない。
匙を持っている侍女の曜は苛立ちを抑えた。
蓮も目を覚まそうと必死で苦しみに耐えているのだから、短気を起こしてはいけない。
口の端に溜まった重湯を白布で拭き取って、蓮の顔を見つめた。
真っ白な顔色は変わらず、ぴくりとも動かないがたまに声を上げる。
そうなるとどこか体に痛いところがあるのか、と心配になり蓮に話し掛けるのだった。
「蓮様……もう安心ですからね……。ここは冷たくありません。ふかふかの褥が蓮様を守っています。そして、蓮様が目を覚ませば、温かい食事を持ってきます。蓮様の好きな焼いた魚があればいいですが、まだ魚は獲れないのです。でも蓮様が目を覚ましたら、すぐに用意しますからね。お腹が空いているでしょう……早く……目を覚まして……ううう……蓮様……お願いです」
最後には涙が出てきて、言葉にならなくなった。
夜になると去は寝ずに蓮の看病をするというのでみんなで止めた。高齢で、前日から大して眠っておらず心労も溜まっている。今夜も寝ないとなると、去の体も壊れてしまう。
しかし、去は周りの声を聞き入れようとはしないので、困り果てて伊緒理を呼んできて説得してもらった。
蓮を見つめる去の隣に座り、その横顔に語りかけた。
「去様、蓮はこうして戻って来たのです。だから、少しの間だけでもお休みください」
「皆が私の体を気遣ってくれているのはわかる。でも、私は蓮の傍にいてやりたいの」
「蓮が目覚めたら、すぐに去様にお知らせしますよ。ですから、去様はしっかりと食事を摂って、体を横にして休んでください」
伊緒理の言葉に渋々といった形で頷き、去は伊緒理の腕に掴まって自分の部屋へと向かった。
曜はずっと部屋の隅で蓮を見つめていたが、そのまま柱に寄りかかって眠ってしまった。
真夜中に目を覚ますと、蓮の傍に一人男が座っていた。左手で蓮の手を握り、右手で蓮の顔に触れていた。
ここには女人しかいないはずなのに……。
「だ……」
曜は小さな声を上げた。
声に男が振り返った。
「……伊緒理様!」
曜は小さな叫び声をあげた。
「驚かせてすまないね……蓮の様子を少しでもみたかったんだ」
そう言うと再び蓮の方を向いて、蓮の顔を見つめていたが、ふと、曜に訊ねた。
「都の……五条岩城家には……」
「それは、伊緒理様が都からいらっしゃったので、道が雨のせいで寸断されていないことがわかって、すぐに使者を走らせました」
去の館には五条岩城家から派遣されている使用人が少なからずいる。館の家政を担当する者、警備を担当する者たちだ。家政を担当する瓜野は岩城実言の腹心の部下の一人であった。
伊緒理のおかげで道が途絶えていないことがわかると、瓜野は岩城家から来ている従者をすぐに都に向かわせた。
乗馬の巧い者と速い馬の組み合わせであれば半日もかからず都に着ける。今頃、その使者は五条の門までたどり着き、事情を話して主人夫婦にお目通りを願っているだろう。
それを聞いた伊緒理は、五条岩城邸にいる自分の医者の師であり、蓮の母親である礼のことを思い浮かべた。
礼様は束蕗原が洪水に遭い、蓮が水の中に落ちて行方知らずになっていると聞いたら、きっと夜中だろうと馬に乗って束蕗原に向かおうとする。左目が潰れているが幼い頃から馬に乗っているので、恐れも躊躇もなくその手段を選択する。何より、最愛の子が行方知れずになったと聞いて、部屋の中でじっと朝を待っているような人ではない。夫の実言様がどうにか夜明けを待つように説き伏せているのが想像できた。夜明けとともに出発して、昼過ぎにはこちらに着くはずだろう。
幸い、蓮を見つけることができた。あとは、礼様が蓮の傍について献身な看病をしてくれるはずだ。
「礼様が束蕗原に来られるなら安心だ」
「はい……」
と、曜も礼が来ると思って返事をした。
「……私は部屋に戻るとしよう。では、蓮を頼むよ」
伊緒理は言うと立ち上がり、部屋を出て行った。
立ち上がる直前まで伊緒理の左手が、蓮の手をしっかりと握っている姿を曜は見ていた。
翌日の夜明け前、去が起きて来て蓮の横に座った。
去はよく眠ったためか、昨日よりも顔色が良かった。蓮が見つかったという安堵も大きいはずだ。
これからは、蓮を目覚めさせ、二日前と同じ姿に戻すことに集中するのだ。
しかし、蓮は額に汗を浮かべて苦しんでいた。
「いつからだい?こんなにうなされて」
「半刻ほど前からです。拭いても拭いても汗が出て」
「水を飲ませているかい。こんなに汗が出ていたら、体の中の水がなくなってしまう」
「もちろんです。お水は飲ませています」
曜が言った。
冷たい水の中で漂流物を避けながら掴まった樹に縋りついていた体は弱り、蓮を苦しめている。
「これからが正念場だ。蓮、耐えておくれ。諦めてはだめだよ」
去は蓮の頭を何度も撫でて同じ言葉を言った。それは蓮への励ましであったが、自分にも言い聞かせるためだった。
去自ら匙で蓮の口に薬湯を流し込み、喉が小さく動くのを見つめた。
災害があればいつもそうだが、今回の洪水も去は束蕗原の住人たちに惜しむことなく支援すると決めており、邸に仕えている者全員に言い聞かせている。
だから、今も家を失ったものが従者、侍女たちが寝る部屋で寝泊まりしているし、家に戻った者たちにも朝夕と食事を提供している。
夜が明けると、館で寝起きしている住人が起きだして、朝の食事を取っている。家に戻った者たちも家に食べる物はなく、朝餉を食べに丘に上がってきて、母屋前は騒がしい。
その喧噪と共に離れに足音が近づいて来た。部屋の前まで来ると、足音をさせないように入って来た。
「去様」
去の後ろに座ると声を掛けた。
「……伊緒理……昨夜はすまなかったね。よく眠ったよ」
顔を少し後ろに向けて去は言った。
「蓮を思う去様の気持ちは、皆痛いほどわかっているのです。しかし、去様が寝込んでしまったら元も子もありませんからね。蓮を助けられるのは去様と……礼様だけです」
「そうだね……朝方に苦しみだしたようだ。これからが戦いだよ。蓮が耐えてくれたらいいのだが」
伊緒理は去の後ろから横に移動し、苦しそうに眉根を寄せている蓮の顔を見つめた。
「去様、私は都に戻らなければなりません……」
「そうかい……あなたがここに来てくれたこと、本当に感謝している」
「都でも雨が降り続いて川が氾濫しているところがあったのです。だから、束蕗原も気になって。来られて本当によかった。蓮がこんなことになっているなんて思いもよりませんでしたから」
「あなたが来てくれなかったら、蓮の発見は遅れていたかもしれない」
「蓮を見つけられてよかったです」
そう言って伊緒理は蓮に手を伸ばした。衾の上に体に沿って置いてある蓮の右手を両手で握って。
「蓮、諦めないでおくれ。必ず良くなるから。元気になったあなたを見舞いに来るからね」
と言った。その後は無言で蓮の手を握り続ける。
伊緒理の中で整理がついたのか、去に体を向けた。
「去様、また束蕗原に参ります。私の力になれることは何でもおっしゃってください」
「いつも、ありがとう。あなたが束蕗原を気にかけてくれて心強いよ」
「蓮のことを頼みます。必ず、目覚めさせてください」
「もちろんだよ」
曜は部屋の隅で二人と蓮を見ていた。
最後まで名残惜しそうに蓮の手を握っている伊緒理の姿が目に焼きついた。
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