ぽんっと、右肩に手を置かれて朱鷺世は顔を上げた。
そこには雅楽寮の長官である麻奈見が立っていた。
「よかったよ」
麻奈見はそう言ったが、朱鷺世は顔を両ひざの上に載せた腕に額を押し付けて下を向いた。
「着替えよう。夏といっても、体が冷える」
麻奈見の予言なのか、朱鷺世はくしゃみをしたので、汗で濡れた下着を着替えることにした。
盥に手をつけたら、体の熱が吸い取られていくのがわかる。上半身裸になって濡らした白布で汗を拭っては、水に浸して体の上に置いた。
結った紐が緩くなって、髪が落ちていた。一旦解いて、付き人の少年が櫛を通して、一つにまとめて垂らし髪にしてくれた。
控えの間に入って、着ているものを全て脱いで用意していた着替えを着けた。乾いた衣服がさらっとしていて、気持ちよかった。朱鷺世が着替え終わったのを見計らって、麻奈見が部屋に入って来た。
「行こう、朱鷺世。ご馳走が待っているぞ」
去年のことを忘れてしまっていたが、雅楽寮の宴に関わった者たちに、貴族たちと同じ料理が振舞われるのだった。これからは料理と酒が振舞われる時間で、音楽は添え物となり、奏者たちは交代する。朱鷺世たちの舞の楽器演奏者たちが食事の席に行くところに、朱鷺世も麻奈見に付き添われて一緒に行くことになった。
母屋の裏にある使用人たちの食堂に入ると、すでに何人かが座って、宴のために各地から集められた食材で作られた料理を食べていた。
朱鷺世も入ってすぐの長机の椅子に腰かけようとしたが、麻奈見がそれを止めた。
「朱鷺世。お前はそんな端の席ではないよ」
腕を掴まれて、奥へと連れていかれる。
その間に、机に向かって黙々と食べている者、隣同士でしゃべっている者たちが顔を上げて通り過ぎる朱鷺世に視線を送った。
朱鷺世はその視線を無視していたが、一人の男が朱鷺世が近づいてきたら立ち上がって。
「よかったよ。負けていなかった」
と言った。
それを皮切りに次々に同僚たちが立ち上がって朱鷺世に労いの言葉を掛けて来た。
「素晴らしかった」
「いい舞だった」
そんな言葉に朱鷺世はどんな顔をしたらよいか、わからなかった。
昨年の月の宴で抜擢されて、舞ったことで桂に気に入られた。その代わり、雅楽寮の同僚たちには嫌われた、と思っていた。食事を食べられなくされる嫌がらせを受けて、いつも腹が空いていた。しかし、こうして立ち上がって朱鷺世の健闘を讃えてくれる仲間がいたことを今初めて知った。
「朱鷺世!なに、怒ったような顔をしているんだ。みんな、お前の後ろで演奏していた仲間だぞ。演奏に手心を加えることはしない中立な立場だが、心の中ではお前のことを応援していたのだ」
麻奈見に言われて朱鷺世は少し目尻が下がって、気の抜けた表情になった。
自分一人で戦っていると思っていた。応援してくれる人など誰もいないと。師匠と兄弟子である麻奈見と淡路だけは、雅楽寮の威信をかけた勝負に勝つために必死にならざるを得ないのだと思っていた。しかし、それは朱鷺世が勝手に思い込んでいただけのことだった。
朱鷺世よりも早く雅楽寮に所属して舞を始めた者たちが、大抜擢された朱鷺世に嫉妬して陰湿ないじめを始めて、それを周りの者たちは黙認していた。しかし、今回の対決のために、人知れず大きな努力、精進をしていた朱鷺世を雅楽寮の仲間たちは心の中では応援してくれていたのだ。
朱鷺世が奥の長机の端の席に着くと、手に膳を持った女官が五人現れた。
「素晴らしい舞をした方には、こちらの膳です」
大きな膳が目の前に置かれた、その左右には小さな膳が並ぶ。その上に大小の皿が載っていた。
「どうぞ。杯をお取りください」
盆を差し出され、その上の杯を手に取った。
「大王から贈られた酒でございます」
徳利が傾けられ、杯に酒が注がれた。
「どうぞ、お召し上がりください」
朱鷺世は杯を見つめた。
酒など今まで飲んだことがない。おそるおそるといった様子で杯の縁に口をつけた。
甘いような苦いような相反する味がした。まずいとは思わなかったため、そのまま一気に飲んだ。
「よい飲みっぷりでいらっしゃいますね」
そう言って、女官はもう一度杯に酒を注いで、徳利を膳の横に置いた。
朱鷺世はもう一口だけ酒を口に含んで嚥下して、杯を置いた。
「ほら、食べろ。いくらでも食べていいんだ。お前の膳は特別だ」
朱鷺世は目の前に広がる料理を眺めた。
少し離れた場所で食べている同僚の前には一つの膳しかないのに、自分の前には三つも置いてある。焼いた魚が一尾まるまる皿にのっている。猪肉の塊らしきものもある。いつも搗き米を握ったものや粥ばかりだから、こんな料理を見るのも初めてだった。湯気の立つ温かい汁までもついている。
朱鷺世は箸を取って、焼き魚の身をほぐして口に入れた。
こんな食べ物は今までに食べたことがない。初めての味だ。
次に猪肉の塊に箸を入れた。ほろっと肉が割れて、小さくした塊を口に入れて咀嚼した。とても柔らかい。湯気の立つ汁をすすると、体の内側からじんわりと温まって、体の緊張がほぐれていくようだった。それで、舞が終わったのだと実感した。
朱鷺世が食べ始めたのを見た女官たちは笑顔になって、奥の部屋へと戻って行った。
その後ろ姿を見つめて、朱鷺世は思った。
もし、うまく選ばれていたら、この場に女官として露がいたかもしれない。
……露にいて欲しかったな……。
そんな気持ちが湧いて来た。
しかし……負けてしまった。
露はどんな顔をするだろうか。
朱鷺世は粥の入った椀を持ち上げて、喉が天井を向くほどにあおった。
そうしなければ、涙がこぼれてしまうと思ったからだ。
ようやく悔し涙が込み上げてきたのだった。
コメント