典薬寮の玄関を上がる時に賀田彦は跪いて、蓮に肩に掴まるように言った。
蓮は素直に賀田彦の肩に手を置いて、靴を脱ごうとしたら、賀田彦は蓮の足に手を伸ばして沓を脱がせてくれた。蓮は驚いて言った。
「賀田彦殿、世話をかけて申し訳ありません」
「いいえ、気になさならいでください」
蓮は沓を脱ぎ終わると、賀田彦に案内されていつもの部屋に入って行った。そこには伊緒理がいて、机に向かって筆を動かしていた。
「伊緒理様」
賀田彦が声を掛けると伊緒理が顔を上げた。
「ああ、お帰り。藍様とはたくさんお話ができたかい?」
伊緒理は向かって来る蓮の方に体の向きを変えて言った。賀田彦が置いてくれた円座に蓮は会釈をして座ると返事をした。
「はい。たくさんお話ができました」
「それは良かった。……賀田彦、私は蓮殿に少し話があるから。お前はもう下がってよいよ。あとは私がやる」
伊緒理の言葉に、蓮の後ろに座ろうとしていた賀田彦は立ち上がり一礼して、部屋を出て行った。
これまで典薬寮に出仕してきて、伊緒理と二人きりになったことはなかった。最初はそうなることを期待していた蓮は、ここに来るたびごとに自分の不埒な気持ちを戒めた。しかし、今、こうして伊緒理と二人きりになると、嬉しくて笑顔になる。
「……蓮、どうだい。今日で五回、典薬寮に出仕してもらった。何か困ったことはないかい」
「はい、困ることはありません。みなさま、大変よくしてくださいます。特に賀田彦殿には助けていただいています」
「そうか、よかった。典薬寮の女官たちとはどうだい?」
「ええ、今のところは何もありません……」
「ん?」
蓮の言い方に引っかかることがあったのか、伊緒理の眉間に皺が寄った。
「みなさん、新参者の私に優しく指導してくださいます」
「……それは?」
宮廷の女官たちのことを少しでも知っている伊緒理は勘づくものがあった。
「心配はご無用です。私は束蕗原の見習いとして過ごした時に、女同士の付き合いを勉強しましたから。今は宮廷での振る舞いを教えてもらっているのです」
「そうかい。もし……目に余るようなことがあれば教えておくれ」
「はい」
そう言って、しばらく伊緒理は蓮を見つめている。蓮も伊緒理から視線を外すことなく見つめた。
「……付き添いには男がいいとはわかっているのだが……次はできたら侍女と一緒に来てくれないか。帰りは私の家の者を付き添いにつけるから」
伊緒理が不意に言った。蓮は伊緒理が何を言っているのかわからなかった。
「次に出仕した時は、帰りに寄って欲しいところがあるんだ。二人切りで会えるように段取りをした。そこに私も行くから」
「伊緒理……」
蓮は伊緒理の言っている意図を理解した。やっとゆっくりと対面できるのかと思うと、嬉しさが込み上げて来て胸に手を置いた。その時、上着の下に忍ばせていたものを思い出した。胸の中に手を入れて紙を取り出した。
「なんだい?」
「……最初に出仕した時、伊緒理が私に手紙を渡してくれたでしょう。その返事を書いていたのよ。だけど、それから二人切りになることが無くて、毎回書いていたのだけど渡すことができなかったの。四回も書いていたのよ」
と伊緒理の前に四通の手紙を出した。
「蓮……」
「受け取って。帰って読んで欲しい」
「……そうするよ。帰って読ませてもらう」
伊緒理は蓮の手から手紙を受け取り、少しの間目を落として見つめていた。
「……いいかい、次は少し帰りが遅くなると思う。その心積もりで来て欲しい。付き添いは侍女をお願いするよ」
伊緒理の言葉に蓮は頷いた。すると伊緒理は、
「では、今日はこれまでだ。お疲れさま」
と声音を変えて言った。それまでの親しい物言いから宮廷での上下の関係に戻ったことを教える声だった。
「はい」
蓮は返事をすると、伊緒理は立ち上がり蓮もそれに習った。
伊緒理が一緒に玄関まで付き添ってくれた。今日、ここまで一緒に来た鋳流巳が玄関に出て待っていた。
「では、蓮殿、いつも通り五日後に待っているよ」
伊緒理の言葉に頷くと、蓮は鋳流巳を伴って五条の邸に帰って行った。
五日後。
いつものように鋳流巳は自分が蓮の出仕の付き添いをすると思っていたが、蓮から曜を連れて行くと言われた。
「……しかし、最近の都は治安が悪くなっております」
鋳流巳は進言した。
「そうね、でも、帰りは典薬寮から付き添いがついてくれていることになっているの。だから、今日は大丈夫よ。あなたも邸でやることがあるでしょう」
蓮は鋳流巳がついて来ようとするのを、押しとどめた。
「蓮様!」
「今日は、典薬寮で用意していただいた付き添いがあるから、曜だけで大丈夫よ。鋳流巳には次の出仕の時に付き添ってもらうわ」
蓮が強い口調で言うと、鋳流巳は渋々引き下がり、その様子を見て蓮は曜を伴って五条の邸を発った。
六回目となると蓮にとっても慣れた道になり、難なく美福門の前について宮廷へと入った。
典薬寮の玄関に向かうと、いつものように賀田彦が立っていた。
「賀田彦殿、もう向かう部屋はわかっているから出迎えは良いと言ったのに」
「ええ、そうなのですが、蓮様がいらっしゃる日に玄関に立たないと、なんだか気持ちが落ち着かないのです。私が勝手にやっていることですよ」
「そうなの。あなたに負担がないのならいいけど。私は嬉しいわ」
「はい、無理はしてはおりません」
賀田彦は爽やかに笑った。
「そう、では甘えさせていただくわ。まだ、宮廷の中のことはわかっていなくて、心細いのは確かだから」
「はい。お気になさらずに。私は何の苦もありませんから」
賀田彦の言葉に蓮は笑顔を見せていつもの部屋へと入った。
蓮が机に着くと、賀田彦が箱を持って来た。その中には昨日から今朝にかけて届けられた木片が入っていた。その木片には病気の症状が書かれていて、それに対応した処方をしてするのが仕事だった。蓮は部屋にある薬草を手に取り、そこにはない薬草は別の板に書いていく。あとで倉に行き、まとめて必要な薬草を取って来るのだ。その間に宮廷の女官が体調が悪いと言って連れてこられた。蓮は丁寧に症状について話を聞き、それに合わせた薬の調合を行って、薬湯を作って飲ませた。その日はそれで終わったが、これまでに、女官が体調が悪いと言って寝ていると言って、女官の居住している建物に行って診察したこともあった。
あっちに行ったりこっちに行ったりとせわしないことではあるが、蓮はそれが全く苦にはならなかった。束蕗原から戻って宮廷に出仕していない日は、母の礼が運営している診療所の手伝いをしており、同じようなことを行っているからだ。
束蕗原に行く前も同じようなことをしていたが、束蕗原から戻って、格段に上がった知識で症状に合わせた繊細な薬草の処方ができていると思った。
「蓮様の処方された薬草は大変好評ですよ。体がつらいのが治ったとおっしゃる方が多くいらっしゃいます。あの時の処方の薬湯が欲しいと言われますから」
賀田彦からそう伝えられて、蓮は嬉しくなった。
早くから母の元で、また束蕗原の去の元で学んできたことは何一つ無駄になっていない。特に集団生活と朝から晩までの様々な仕事に忙殺されていた束蕗原の生活だったが、そこで学んだ薬草の知識がしっかりと根付いていると実感した。
蓮はその日、二刻ほど忙しく立ち働いている間、伊緒理の姿を観ることはなかったが午刻(正午)を過ぎた頃、部屋に伊緒理が現れた。
「蓮殿、お疲れさま」
そう言った伊緒理は蓮が出仕した時に姿を見せなかったのは朝から忙しかったのか、その顔は少し疲れたような表情だった。
「……今日は、この前に言った通り、寄り道をしてもらう。そこに私は少し遅れていくことになるが、必ず行くから待っていておくれ」
蓮が頷いて、伊緒理は顔を後ろに向けた。ちょうど、賀田彦が部屋の中に入って来た。
「そこには賀田彦が案内してくれる」
伊緒理と一緒に簀子縁まで出ると、後は賀田彦に連れられて、玄関に向かった。侍女の曜が出て来て三人で宮廷の佐伯門を出た。
「こちらです」
賀田彦は蓮と並んで歩いた。
「ここから遠いのですか?」
「いいえ、近くですよ」
と、賀田彦は門を出て真っすぐに道を歩いた。
一区画歩いたところで、北に進路を取って、最初の角を西に向かった。
「伊緒理様からあまり目立たないように、と言われておりますので、裏門から入ります」
と言って、賀田彦はその邸の裏門から入った。門の内側にいた門番に会釈をしただけで素通りである。それがよく知った仲のようにうかがえて、賀田彦がここに来るのは初めてではないことが分かった。
裏門から門の詰所の前を通って、両側に連なる建物の間を歩いていると、向こうから男が二人歩いて来た。すれ違った時に、二人の話している声が聞こえた。しかし、蓮には話している内容は全く分からなかった。あれは、異国の言葉ではないか……と思った。
「こちらです」
賀田彦は、奥まで進んで左側にある建物の階の前に立って言った。
「曜殿は、こちらの部屋でお待ちください。蓮様は私と一緒にこちらへ」
階を上がったところにある小さな部屋に曜を入れると賀田彦は蓮を連れて簀子縁を歩き、突きあたりを左に曲がったところにある扉の前で止まった。
「どうぞ中へ」
明けた扉の中に蓮が入ると後から賀田彦も入って来た。
質素な部屋で、扉の前に几帳が、その奥に円座が二つ置いてあった。
「伊緒理様がいらっしゃるまで、こちらでお待ちください。私は典薬寮に戻ってやり残した仕事をやらなくてはなりません」
「……わかったわ。案内、ありがとう」
賀田彦が出て行って、蓮は心もとない気持ちで円座の一つに座った。
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