梅の盛りが少し過ぎた頃、蓮は父の後ろについて美福門から王宮へと入った。
父の実言の顔はどの門から入っても、門を守る衛兵は知っているようで、皆深々と頭を下げている。
「ここは宗清が勤めている左衛門府が守る門だ。もしかしたら宗清に会えるかもしれない。しかし、向こうの皇嘉門から入った方が典薬寮に近いから、その時その時で決めたらいい」
蓮は父の言葉に蓮は返事した。
「はい」
まだ訳も分からぬ子供の頃を除いては、王宮に来るのは初めてだ。
藍が有馬王子と結婚して後宮に入った後、榧が一度だけ藍に会いに行ったときいたが、蓮は束蕗原に行ったため王宮に入ることはなかった。
あまりきょろきょろしてはいけないと思って、神妙な面持ちで父の後ろをついて行っていると、実言が振り返って心配そうな声で言った。
「しばらくは誰が人をつけようか。次は実津瀬に付き添ってもらうように頼もう」
「お父さま……私はそんなに頼りないですか?」
「蓮がどうこうではない。このようなところには慣れていないだろう。広くて、大勢の人が行き来している。迷子になったりしたら大変だ。それが心配なんだよ」
「まあ、子供扱いですね」
「いくつになってもお前は私の子供だよ」
「はい」
蓮は父の気持ちをありがたく思い素直に返事をした。
典薬寮の建物の前に来ると、玄関に立つ若い男が気付いて近づいて来た。
「岩城様でいらっしゃいますか?こちらへどうぞ」
実言が頷くと、青年は玄関の階に手の先を向けて言った。
実言と蓮は沓を脱いで、案内人について行った。長い簀子縁を歩いていると、部屋では典薬寮の医官たちが本を読んだり、写したり、薬草を広げて吟味したりしている姿が見えた。
蓮は右手側に見える部屋の中の様子を感じながら父の後ろをついて行った。
この館のどこかにいるのだろうか……。
伊緒理!
「どうぞ、こちらの部屋へお入りください」
振り返った案内人の男は言った。
内側に人がいて、御簾がまくり上げて実言と蓮が入るのを待っていた。
「岩城殿、ご足労いただきありがとうございます」
中に入ると立っている男が言った。
「三須磨殿」
事前に父から典薬寮の頭は三須磨という男で、代々医者の家系であると聞いていた。頭は白いものが混じった初老の男である。
「さ、どうぞお座りください」
三須磨が腰を下ろしたので、実言も座った。実言の斜め後ろに蓮が控えた。
「後ろにいらっしゃるのが、ご息女であられるか」
「はい。娘の蓮です」
「お母上について薬草の勉強をされているそうですね」
「はい。妻の伯母が都近くの領地で医者をしており、領地の住民の怪我、病気を看て、薬草の研究をしています。その伯母に妻は教えを乞い、娘も母とその伯母、娘にとっては祖母のような人ですが、その二人についてこれまで勉強してきました」
「そしてたいそう手蹟がうまいですね。医術の本を写したものを私も見せてもらいました。とても美しく見やすい手蹟でした」
「はい。これも自慢でして、幼い頃から筆を持つのが好きで、邸にある巻物を見て写していると、美しい文字を書くようになりました。……娘の写本は典薬寮の頭のところまで届いているのですか?」
「ご息女を推薦した者から見せてもらいました」
「そうですか」
「碧様も大変喜んでおられますよ。先日、どこが悪いというわけではありませんが、ご様子を窺いにお訪ねしました。そこで、今日のことをお話ししたのです。岩城家から典薬寮に仕える者が出るとは思わなかった、と言っておられました。その人が実言殿のご息女であることも理由のようです。昔、有馬王子がお生まれになる前に、実言殿の奥方が薬草を持って体調の悪い碧様を見舞われ、奥で薬湯を作って差し上げたことを思い出しました。若かりし日の私は、碧様のところで持ち込んだ薬草で薬湯を作っていると聞いて驚いたものでした。典薬寮を差し置いてそのようなことをする人がいると。その時の記憶が繋がりましたよ。二十年後にこうして、あの方のご息女が宮廷にいらっしゃるとは」
「ははは。これは懐かしい昔の話ですね。確かに、私の妻は碧様が後宮に入られて体調が優れない時に後宮に出入りしていました。あの時は、典薬寮の方々がいらっしゃるのに出過ぎたことをしてしまいました。当時、妻もたいそう恐縮していました」
「いえいえ。あれは碧様には必要なことだったのでしょう」
「そう言っていただけると、ありがたいです。そして、私も娘が典薬寮に入って、同じようなことをすると思うと……感慨深いです」
蓮は終始、父の後ろで会話を聞いていた。
今後どのように勤めに出るのか話し合いがなされた。蓮は大体五日ごとに典薬寮に出仕することが決まった。岩城家出身ということもあって、有馬王子の母の碧やその妻である藍の体の相談や、同じ女人として宮廷に勤める女官や侍女の怪我病気を診ることになった。
蓮としては、これから始まる典薬寮での働きに緊張と喜びが湧いてきていたが、その間で、蓮を推薦してくれた人は現れないのだろうか……と思っていた。
推薦してくれた人は間違いなく伊緒理だ。今日、姿だけでも見られると思っていたのに、影すら見えない。
でも、きっとこの建物の中のどこかにいるはずよ。
「では、五日後にお待ちしています」
三須磨と別れて、来た時に案内してくれた若い男が再び玄関まで案内してくれた。父の後ろを歩きながら、蓮はどこかに伊緒理の姿があるのではないかと目をやった。
「どうした?蓮」
きょろきょろする蓮に、実言が振り向いて言った。
「いいえ、次に来た時のために部屋の様子を覚えておこうと思いまして」
と答えた。
典薬寮の建物を出て、五条の邸に戻るのかと思ったら、実言は門とは反対につま先を向けた。
「お父さま?どちらに?」
「これから碧様のところに行こう」
「碧様ですか?」
「そうだ。昨日、面会のお伺いを立てて、お許しがでている。一緒に行こう」
王宮への門を通って王族の住まう建物の中へと進む。蓮は初めてみるように目を見開いてその壮麗な建物、室内に入ってから御簾や几帳などの調度類を見つめた。
「幼い頃に、礼と一緒に碧様のところに行ったことがあるはずだよ。有馬王子の遊び相手になった」
蓮は確かに兄と一緒に母に連れられて、有馬王子と遊んだ記憶はあるが、どのような場所だったかは全く憶えていない。
実言がお許しが出た印として昨日渡された札を出して、二人は護衛の前を通った。
「実言兄さま!」
部屋に入るなり明るい声が聞こえた。
「碧様、お久しぶりです」
部屋の奥に座る碧の前まで進んだ。
「本当に。姿を見かけることはあるけど、こうして対面できたのは久しぶり。後ろにいるのが蓮ね」
「そうです。先ほどまで典薬寮に伺って、娘の出仕の話をしていました」
実言と蓮は促されて座った。
「私も三須磨から聞いたわ。兄さま、凄いことではないですか?我が岩城一族から典薬寮に仕える者が出るなんて。……でも、確かに礼のことを考えたら、その子である蓮がこうなってもおかしくないわ」
「ははは、買いかぶり過ぎては困りますよ。確かに蓮は自慢の娘です。向上心があっていつも勉強しています。献身があり、人に寄り添える人物ですが」
「礼に似た娘ということでしょう。礼も勉強熱心で人のことを思っている」
「そうですね。確かにそうです」
蓮は褒められているのかそうでないのかわからず、曖昧な笑顔を作って二人の話を聞いている。
「蓮、これからよろしく」
実言から視線を離して碧が蓮に向かって言った。その時、初めて蓮は碧と目が合った。
「はい。よろしくお願いします」
言って、蓮は頭を下げた。
美しい人…。祖父の園栄の養女となって、前大王の元に送り込まれた女人は、並外れた美貌である。若い頃を想像すると怖いくらいだ。
「藍とも先日会って話をしたのよ。蓮に会えることを喜んでいたわ。ぜひ藍に会ってやってちょうだい」
「はい。もちろんです」
碧は再び実言に視線を移して小声で言った。
「二人とももっと近くに。ここにいる者は皆、岩城家が推薦して仕えてくれている者たちだから、安心できるけど、用心するに越したことはない」
実言が拳一つにじり寄って、蓮もそれに習った。
「私が岩城家出身だから、頻繁に岩城家の者を邸に出入りさせたら、何か密談でもしているのではないかと勘繰る者もいる。だから、実言兄さまから会いたいと言われてもすぐに会うことはできなかった」
碧は続けた。
「どうも、須波さまのお加減は良くないようだ。臥せっていらっしゃる日が多くて、いつ、何が起きても不思議ではない」
「そうですか」
「有馬にも心構えを説いている」
「はい。私は何が起きても準備はできています」
「ふふふ。頼もしいな、兄様は」
碧と父親の話に耳を傾けていたが、蓮には何のことかわからなかった。
須波さまとは、岩城一族が使っている現大王の隠語である。一部の者にしか伝わっておらず、蓮は須波さまとは誰のことを指しているのかわからなかったが、黙って聞いていた。
「お父さまとも会えていない。理由は同じだ。政から退いていると言っても、岩城一族の決定に影響を与えていることに変わりはない。今日は、蓮が一緒だから兄さまと会ってもいいだろうと思ったのだ」
そこまで言って、声音を少し大きくして言った。
「兄さまからお父さまに伝えておくれ。私は元気だと。次に会えるのは月の宴と思う。その時にはお父さまの元気な姿が見たいと」
「かしこまりました。……月の宴と言えば、今年も実津瀬が舞うのですよ」
「まあ、今年も」
「はい。雅楽寮の長官である麻奈見から勝負の依頼があったのです。実津瀬はその申し出を受けると言いました」
「それは楽しみだ。昨年、勝利した時は誇らしかった。実津瀬にせよ、蓮にせよ、我が一族には様々は才能を持った者がいるものだ。その血を引く有馬にもきっと人を惹きつける、人のためになる能力が備わっているはずだ。本人にも常に人のために行動するようにと言っている」
「はい。有馬王子は立派に成長されました。喜ばしいことです」
「うん。蓮」
といきなり、碧は再び蓮に顔を向けた。
「はい!」
蓮は不意だったので驚き、大きな声で返事した。
「藍のこと、頼みますね」
「はい!」
蓮はもう一度返事をした。そこで、実言は碧に別れの挨拶を言って辞去した。
碧の住まう宮を出て、蓮は黙って父の後ろを歩き、王宮から外に出る門に近づいた時。
「おっと、この門は左近の管轄だったかな?」
父の呟く声がはっきりと聞こえた。
お父さまも私と景之亮様が会わないように気を使ってくださっているのね。
蓮は申し訳ない気持ちになった。
「蓮、こっちだ。迷子にならないようについておいで」
蓮は進路を変えた父の背中について行った。
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