稽古場の後ろにある雅楽寮の倉では朝早くから男たちが出入りしていた。荷物を入れた箱を担いだ男はそのまま翔丘殿に向かって出発した。
いつも通りの時間に目覚めた朱鷺世は、仲間が忙しくしているその様子を突っ立て見つめていた。
今夜の催しの主役である朱鷺世は舞に集中するべきだと皆は思っていて、朱鷺世が手を貸そうとすると、鋭い声音で断ってくる。だから、朱鷺世は突っ立って見ているしかなかった。
「朱鷺世……」
名を呼ばれて振り返ると淡路が立っていた。
「こっちだ。準備が整った」
朱鷺世はゆらりと細長い体を翻して淡路の後ろをついていった。何もできず時間を持て余していたので呼ばれて幸いだった。
これから宮廷にある風呂に入って身なりを整え、朝餉をたらふく食べる時間になったのだ。
昨年も同じようなことをしてもらった。
宮廷で働く者たちが使っている風呂の建物に入った。特別な儀式のある時に関係する者が使っている風呂である。蒸気の充満した部屋の中に入って、体を蒸らした。外では火を焚いて、湯を沸かしている下働きの男がいる。その男が湯をすくって桶に入れ、その湯が樋を伝って部屋の中の浴槽に溜まっていく。朱鷺世は蒸れた体にお湯を頭からかぶって長い髪を濡らした。
いつもは冷たい水に布を浸して体を拭いているだけだから、湯を使わせてもらうなんて贅沢でありがたいことだった。
朱鷺世は煌びやかな錦の衣装のことが頭の中をよぎった。
あの美しい衣装を着るのだから、その体はきれいでなくてはいけない。垢にまみれた体には、あの衣装は相応しくない。
使い古しの布を湯につけて体を擦る。湯はまたたく間に汚れていった。
「お湯を足してもらえないか」
朱鷺世は外にいる下働きの者に言った。
「へい」
しばらくすると樋を伝ってお湯が流れてきた。手で受けると熱くてすぐに手を引っ込めた。その代わり足を浸して、徐々にその熱さに慣れていった。
浴槽に溜まったお湯の中に体を入れた。尻が浸かるくらいまでの深さしかないが、湯をすくって肩や胸にかけた。体を縮めて、足の指を洗った。足の爪の中に入った土を全部出して、真っ白な足袋を履き、沓を履くのだ。
これまでにも宮廷の宴で一人舞をしたし、淡路と一緒に舞っても来た。その時も今と同じように風呂に入れてもらって、体をきれいにし、特別な美しい衣装を着てきたが、今日はそれまでとは自分の心持ちが違う気がした。
それは今日の宴の舞台が特別だからだろう。
昨年の勝負は負けてしまった。
勝とうが負けようがどちらでもいいと思っていたが、僅差ではあるか相手が勝っていると言われて、宴の後で悔しいという気持ちが湧いてきた。あの時まで何も欲しいなんて気持ちはないと思っていたが、悔し涙が込み上げてきて勝ちたいという気持ちがあることに気づいた。
桂はあのいけ好かない貴族を気に入っているようだが、舞のことになると少しまずい舞でも贔屓して目をつむろうなんてことは考えない。そこはどこまでも公平な目で見てくれるはずだ。そうであれば、あの男の舞を凌駕すれば必ず自分は勝つことができる。
今日の宴に相応しい舞をするにはいつも以上に体をきれいにし、全ての行いを丁寧にする必要があると思った。その心掛けが、舞の細部に表れるはずだから、短気を起こしたり、投げやりな気持ちになってはいけない。
忍耐を持って、自分の行動を変えることができたのが朱鷺世の成長だった。
昨年の宴当日までの道のりでは麻奈見や淡路に厳しく体の動きを直されて、時には鞭で叩かれもしたがやれと言われたことをできるまでやったことが、朱鷺世を変えた。
勝負に勝てば他人の自分を見る目が変わる。そして、認められたら、よい服を、よい食事を与えてくれる。もしかしたら、位を与えてくれるかもしれない。
宮廷に仕える者たちが折り重なって寝ている宿舎ではなく、自分だけが寝る部屋、自分の邸を持つことだってできるかもしれない。
都に出て来た時には食べることができたらいいと思っていた。あのまま家族と一緒にいても、ひもじい思いをして、もしかしたら食べる物がなく死んでいたかもしれないのだから。だが、今は食べること以上のことも望めば叶うかもしれないのだ。
体の内側が熱くなってじっとりと汗をかき始めた時に、湯から出て、菖蒲の葉で体を拭った。風呂場に入る前に手渡された真新しい白布で体の水滴を拭って、これまた真っ新な下着を付けた。その上から自分の袴と着古した上着を引っ掛けて、風呂の建物を出ると、雅楽寮の下働きをしている少年から青年に変わる年頃の男が立っていた。
「……こちらです」
これから遅い朝餉を食べさせてくれるために、いつもの食堂ではない場所に連れて行くために待っていたのだ。
起きてから水しか飲んでいなかったから、腹がとてつもなく空いていた。
台所の近くに立つ建物の侍女や従者の休憩部屋の一室の入り口に立つと。
「あちらです」
と下働きの青年が手の先で示した。
部屋の真ん中に膳だけが据えてあった。円座に座って待っていると、朱鷺世が入ってきた入り口から一人の年配の侍女が盆を持って入って来た。
「どうぞたくさんお食べください」
焼き魚と醤のかかった青菜の湯がいたもの、貝の汁、そして炊いた米をこんもりと盛ったものが膳のうえに置かれた。
これから翔丘殿に移動して、舞の前にも少し食事をするので、腹をパンパンに満たす必要はなかった。膳の上の物を淡々としかし全部たいらげた。
下働きの青年と並んで稽古場に行く途中、その青年は朱鷺世に言った。
「私も朱鷺世さんみたいになりたいです。舞をして皆に認められたいのです」
「……ん」
青年は自分が目指す将来なりたい人と並んで歩いていること、自分の気持ちを言えたことに感激、満足した表情をしている。
俺のようになりたい、なんて言われることがあるのだな。
朱鷺世は不思議な気持ちになった。自分だって今の自分に満足しておらず、違う自分になりたいともがいているのに。
「あんた、名前は?」
「玖珠又(くすまた)と言います」
青年は恥ずかしそうに自分の名を言った。
稽古場では淡路が今日の宴に必要な道具を翔丘殿に持っていく最後の手配をしているところだった。荷物を運び出して、がらんとした稽古場に残った淡路が言った。
「少し舞をさらうか」
これは宴や宮廷で舞を披露する朝に淡路と必ずしていることである。その日の舞の始まりの儀式のようなもので、断る理由はなかった。
朱鷺世が頷くと、二人は稽古場の中央に立ち、最初に舞う二人舞をゆっくりと舞い始めた。
下働きの青年、玖珠又がじいっと二人の舞を見つめていた。
この舞をどれだけ舞ったことか。遅い、速い、どのような速度であっても寸分違わず舞えるまでに修練を重ねた。
いつものようにゆっくりと始めて途中から速くなる。淡路とは何度も同じ稽古をしているので、遅れることも一人先を行くことなく一人舞の前までの二人舞を舞い終えた。
「うん。いい感じだ!」
舞の終わりの手を上げた状態のまま立っていると、淡路の明るい声がした。それで朱鷺世は手を下ろした。朱鷺世の前に立った淡路が言った。
「決して気負うなよ。自分を信じて最高の舞を舞え。そうすれば結果は自ずとついてくる」
淡路なりの激励の言葉が発せられた。
朱鷺世は頷いた。
最後は自分を信じるだけだ。
淡路の言うことは正しい。
どうあがいても自分は自分だ。もし別人になるなら、それは宴が終わった後だろう。
朱鷺世は淡路と付き添いの青年と一緒に稽古場を出て、翔丘殿へと向かった。
昨年と同じように庭に舞台が組まれて、正面、左右に伸びる部屋から舞台が見られるようになっている。
数日前から準備は進められていて、今はほぼ整った状態だった。
朱鷺世は淡路と一緒に舞台の上に上がった。
すると舞台の上には麻奈見と一緒にあの男がいた。
「や、実津瀬、もう来ていたのか」
淡路がすぐに声をかけた。
階を上がる足音に気づいて岩城実津瀬がこちらを向いていた。
「早くついてしまったようだ。先生と一緒に一足早く舞台に上がらせてもらった」
先生とは雅楽寮長官の麻奈見のことだ。
「どうだ?」
淡路は実津瀬の隣に立って訊ねた。実津瀬はゆっくりと舞台の上から正面、そして左右の観客が座る場所を見回した後に言った。
「またこの景色を見ることができるとは思いもしなかった。最初で最後だと思っていたからね。昨年のことが昨夜のように思い出されるよ。ここに立つと思わず身慄いしてしまう」
「朱鷺世はどうだい?」
麻奈見が一歩下がったところで所在なげに立っている朱鷺世に言った。
「……はい……怖いです」
いっそ恐怖など感じているとは思えない顔で朱鷺世は答えた。聞かれたから何か言わないといけないという気持ちがありありと感じられたが、それが朱鷺世と言う男だ。本番になったら、顔つきは変わって、思っても見ない素晴らしい舞をする。
「二人とも昨年は堂々とした舞っぷりだった。言葉では身慄いするや怖いなんてことを言っているが、いざ本番となればそんなことをどの口が言っていたのかと思うほど立派な舞をしてくれるに違いない」
麻奈見が言って、淡路は笑顔で賛同した。
実津瀬は微笑し、朱鷺世は相変わらずの無表情だ。
四人はしばらく舞台の上から各々の思いに浸ってそこから見える景色を眺めていた。
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