「蓮しゃま」
蓮が離れの部屋に入ると、父の腕に抱き抱えられていた淳奈は手を前に出して蓮の元に行こうとした。
実津瀬は淳奈を下に下ろすと、淳奈は庇の間の蓮をめがけて一目散に走った。前に手を広げてかけて来た淳奈を蓮は脇の下に手を入れて抱き上げた。
「蓮しゃま」
母さま、父さまが言えるようになった淳奈だが、蓮を呼ぶ時は、蓮の後にさまと言おうとすると、しゃまになってしまうのだった。まだまだ幼い淳奈に蓮は破顔して、その柔らかな頬に自分の頬を擦り合わせた。
「淳奈、今日はなんの日だか知っているの?」
蓮の問いかけに。
「父さまが舞をする日!」
と元気に答えた。
「そうね!私はとても楽しみなの!」
「淳奈も!淳奈も!楽しみ!」
「そうね!」
蓮は淳奈の体を何度も肩よりも高く持ち上げて、その体を揺らした。
淳奈がきゃきゃと高い声を上げて喜ぶので、蓮はもうやめようと思ってもそれから三度淳奈を高く上げた。床に足がついた淳奈は蓮の裳の上から腕を回して抱きつき、蓮は柔らかな淳奈の髪に手を置いて撫でた。
「ふう」
蓮の小さなため息に芹が言った。
「蓮、淳奈はとても重たくなったでしょう。日に日に大きくなっている気がするもの。腕が痛いのでない?」
「ふふふ。そうね、また大きくなったわね、淳奈は」
蓮から離れて母の裳につかまった淳奈を芹は抱き上げた。
「蓮、どうしたんだ。ちょうど今から翔丘殿に向かおうとするところだった」
実津瀬は外出着に着替えた姿だった。
「見送りに来たの」
蓮は二人の前に立った。
「翔丘殿で、宴が始まる前に少しの時間なら会えるよ。昨年もそうだった。ねえ、芹」
「ええ、一族に顔を見せに来てくれたわ」
「邸を出るところから見たいのよ。昨年は見ることができなかったから今年は昨年の分も合わせて全てを味わいたいの。だから、お邪魔だと思ったけど来たの」
「邪魔ではないよ。私を心配してのことだろう」
実津瀬の言葉に蓮はニヤッと笑って。
「心配なんてしてないわ。あなたは都一の舞手でしょ?その姿を見たいの。どんな顔をして邸を出ていくのか。舞台に上がる時の顔はどうかってね」
「そうかい?そんな顔を見られるのは嫌だなぁ」
「邸では怖い顔をしているんじゃないかと思っていたけど、いつもと変わらず優しい顔ね」
「あはは。でも、少し緊張しているよ。勝負とつくものには負けたくないからね。そう思うと自然と体に力が入る」
実津瀬は自分の顔に手をやって撫でた。
「昨年は実津瀬から勝負に勝ったという知らせをもらって、どんなにその舞が見たかったか。その時ばかりは束蕗原に行ったことを後悔したわ。今年もあるなんて思っても見なかった。実津瀬は大変な思いをしているかもしれないけれど、私は今年もあって嬉しいの」
蓮は目を輝かせて続けた。
「私も勝負と名がつくものは負けたくないわ。でも、そんなのは二の次よ。まずは実津瀬が今日のためにしてきた努力が実を結ぶ最高の舞をしてほしいわ。その結果、勝負に勝ったならいい。たとえ負けたとしても、それは相手がさらに上を行っていただけで、実津瀬が劣っていたわけではないもの。ただ、実津瀬がもっとできたはず、と言う思いにならないようにと思うだけ」
「………ははは、これは」
蓮の言葉に実津瀬は声を出して笑った。
「?なぁに?」
蓮は怪訝な顔をして、くつくつと笑う実津瀬を見た。
「………いや、ごめん。私の周りは優しい女人ばかりで嬉しくなったんだ。昨夜、芹にも同じことを言われたんだ」
「まぁ、そうなのね。芹の後に続いて悪いわね」
蓮は芹を見て舌を出した。
「私たち一族は皆同じ思いよ。勝って欲しいけど、それよりも何よりも実津瀬が会心の舞を舞うのが一番だもの」
芹が言った。
昨夜、御帳台の帳の中で横になって、実津瀬の腕の中で芹は言った。
「明日はあなたの舞を舞って。そうすれば、何も問題はないわ」
「うん」
「そうできることを祈っているわ」
「結果はいいのかい?」
「勝つわ」
すぐさま芹は言った。
「勝つわよ」
もう一度、芹は実津瀬の胸から顔を上げて言った。
実津瀬は芹の頭に手を回して自分の顔を近づけて、そっと唇を合わせて吸った。
「心強い言葉だ」
唇を離した後、実津瀬は囁いた。
「………明日、いや、明後日になっているかしら。明日の昼間に別れてから次にあなたと会うのは。その時、あなたが自分はよくやったと思っている顔が見たいわ」
「うん。そのつもりだ。これまでやってきた事を全て出す。それを芹に見てもらいたい。あなたに認めてもらいたい」
「あなたの努力は誰よりも知っているわよ」
「全てが終わってここに帰ってきたらあなたに誉めてもらいたい。そしてあなたの腕の中で眠りたいよ。それが楽しみなんだ」
「ふふふ……。ええ、わかったわ」
平静に見えても、実津瀬の肩には重圧が掛かっている。
実津瀬は勝っても負けてもどちらでもよいのだ。物は考えようで、勝てば都一の舞手として誉められるし、負けたとしてもそれはさすがは雅楽寮の舞手だからということであり、それに拮抗した実力である実津瀬の評価が下がることはない。
しかし、実津瀬の矜持が負けることを前提にすることを許さない。どこまでも挑み、自分の実力を試したいと思っている。
それが実津瀬の心を苦しくしていることを芹は理解している。宴が終わらなければ解放されない。自分は何もしてあげられないが、実津瀬が帰って来たら望むことはなんでもしてあげたい。
芹は、実津瀬の体を抱き返して眠りについたのだった。
今、蓮の前で実津瀬と芹はお互いの顔を見合って微笑み合っている。
「淳奈、あなたのお父様とお母様はとっても仲が良いわね」
蓮は芹の腕の中にいる淳奈の頬を人差し指の先でちょっちょっと突いた。
蓮の笑顔に淳奈もにっこりと笑い返した。
「実津瀬、そろそろここを発たないと行けないわね」
芹の言葉に実津瀬も頷いた。
「また翔丘殿で会おう」
実津瀬は妻の腕の中の息子が差し出した手を握って微笑み、離れから母屋に向かって簀子縁を歩いて行った。
それを蓮は芹と淳奈とともに見送った。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章21

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