New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章20

小説 STAY(STAY DOLD)

「痛っ」
 桂の小さな叫びに、周りにいた三人の侍女はびっくりして振り向いた。
 椅子に座った桂が自分の指を真っ赤な唇に当てて吸っていた。
「桂様、指を」
 侍女の朱が近づいたが。
「大丈夫だよ。少し手元が狂っただけ」
 そう言って、唇から指を離し、再び針を持って布に刺した。
 縫い物など普段したりはしないが、今は一心不乱に針を刺している。
 桂が手にしているのは五日後に控えた月の宴で舞人二人が着ける衣装だ。
 昨年、桂が自ら作成を指示して作らせた衣装を少し、縫い直して今年用に準備した。
 その最後の仕上げを桂自ら針を持って縫い、二枚目の上着の袖に飾りの布を縫い付けていたところで、指に針を刺してしまったのだった。
「ふー。普段しないことをすると疲れるものだな。これでよし、できた」
 その言葉で侍女が盆を差し出し、桂はその上に針を置いた。
「桂様、指を怪我されたのでしょう?お見せください」
 侍女の朱が桂の前に跪いて言った。
「いや、大丈夫だ」
「お医師に診ていただきましょう?」
「ちょっと刺しただけだ。気にすることはない」
「塗り薬をもらって来ます」
「うん。朱がそうしたいなら、もらって来てくれ」
 桂は自分の手にある衣装の肩を掴んで高く上げた。別の侍女が同じように先に縫った衣装を持ち上げて、二着を並べた。桂は交互に衣装に視線を動かし、二つの出来栄えを見比べた。
「悪くないな」
 そう言うと、朱以外の侍女はその通りだと頷いた。
「素晴らしい出来でございます」
「では、明日、稽古場に持って行くことにする。畳んで箱に入れておいておくれ」
 桂の言葉に侍女たちは衣装を預かり、下がって行った。その代わり、朱が近づいて手を差し出した。
「ちょっと針を刺してしまっただけなのに」
「血が出ていましたよ」
「舐めたら治る」
「こんなに白くて柔らかな手なのに、放っておいて皮膚が硬くなったら困ります。小さな傷でも侮ると消えない傷になってしまうかも知れません。だから、塗り薬を塗りましょう」
「心配しすぎだ」
 桂は素直に朱の手に左手を載せた。
 朱は桂の人差し指に持って来た軟膏を塗って、細く裂いた白布を巻きつけた。

 滴り落ちる汗を拭っても拭っても止まらないので、朱鷺世は額に古びた布を巻きつけて汗を止めていた。
 月の宴を四日後に控えた稽古場は一通りの流れを終えると、一人舞が終わって再び二人で舞い始めるところの、手を大きく回して、その後の足の動き、体の向きを音楽に合わせて確認をしていた。そこへ、麻奈見と女人が入って来た。
 その女人が誰なのか、それは稽古場にいる者は皆、すぐにわかって、それまでの動きを止めて跪いた。
「実津瀬。朱鷺世。こちらへ」
 麻奈見が二人を呼んで、稽古場の中央にいた二人は入口の前に立つ桂の前に進み出た。朱鷺世は頭に舞いていた布をむしり取って手の中に丸め込んだ。
「二人とも、よく励んでくれているな。先ほど、麻奈見に二人の仕上がり具合を聞いた。よい舞になっているとか。早く宴当日にならないかと思っているのだ。あと四夜寝るととうとうその日が来るのだな。毎夜、楽しみで楽しみで目が冴えて眠れなくなってしまう。それで、今日は当日の衣装を持って来た」
 桂の後ろに控えている従者の持っている箱の蓋を侍女が開けた。中には二着の衣装が綺麗に畳まれて入っていた。
「昨年の宴の時に、桂様が用意して下さった衣装だ。今年はそれに少し飾りを付けて、昨年と違う趣の衣装に変えて下さったのだ」
 麻奈見の説明に、実津瀬も朱鷺世も一緒に深く頭を垂れた。
 昨年、桂が作らせた錦の衣裳は、今年、袖に輝くばかりの黄色の糸で織った布をつけて、より華やかな衣装になった。
「二人がこれを着て舞うのが楽しみだ」
 桂は二人を見下ろして、喜色を滲ませた声で言った。
「はっ!ありがとうございます!」
 実津瀬と朱鷺世の声が重なり稽古場に響いた。
「今日は衣装を届けに来ただけだ。衣装を着た姿も当日の楽しみにしておく。二人ともいい顔だ。自信に満ちた顔つき。ああ、早く宴の日にならないものか」
 桂はもう一度言って、稽古場を再度見回して楽団員たちの顔を見た後踵を返した。
「実津瀬、桂様をお送りしておくれ」
 麻奈見に言われて、実津瀬は桂について来た従者と侍女の後ろに続いた。
 稽古場の扉を出たところで、実津瀬が追いついた。
「桂様!宮廷の門までお送りします」
 実津瀬は桂の斜め後ろについて、片膝をついて言った。
「稽古に集中してくれていいのに」
 桂は足を止めて振り向き、言った。
「いいえ、もう終わりましたから」
 実津瀬は桂を見上げて返事した。
「そうか。では朱雀門まで一緒に歩いておくれ」
 実津瀬は立ち上がり桂の隣に立つと二人は歩き出した。
「……桂様……左手の指はどうされたのですか?」
 雅楽寮の稽古場を出て、美福門の前を通り終わった時に実津瀬が言った。
「!」
 桂は顔を実津瀬に向けて言った。
「実津瀬は目ざといな。長い袖で指など見えないはずだが」
「はい。しかし、私が桂様の左手側にいましたので、桂様が手を動かした時に見えたのですよ」
 実津瀬は腰を屈めて桂の耳に囁いた。
「ふむ。これはちょっとした怪我だ。大したことはないのだが、侍女が大袈裟に布を巻いた」
 桂は侍女の朱とのやりとりを思い出して言った。
「そんなことはありません。小さな怪我でも、それが大事になることはあります。侍女の方の手当ては正当です」
 実津瀬は神妙な面持ちで返事をした。母が怪我人の手当てをしている話を聞いているだけに、いくら小さな傷でも手当が必要だと思っていた。
「私も手当は要らないと言ったものの、こうして薬を塗ってもらって布を巻いてもらってありがたいと思っている」
 桂は言うと前を向いた。暫く桂は黙って前を向いて歩いていたが、いきなり話し始めた。
「ところで実津瀬………あの夜……」
 桂の言葉を聞いて実津瀬は立ち止まり、桂に体を向けた。あの夜、とは数人の貴族たちを呼んで、佐保藁の宮での小さな宴が行われた夜のことだ。しかし、桂は立ち止まらないので、実津瀬は慌てて追いかけることになった。
「桂様……」
「私はそれほどに魅力のない女人かな。王族という地位にふんぞり返った鼻持ちならない」
 酔った桂に命じられて桂の寝室まで付き添った時に、桂から一夜の伽を求められたが、何もしないまま実津瀬は夜明け前に桂の部屋から退散したのだった。
「何をおっしゃいますか!」
 実津瀬は即座に否定した。
「私はあの夜、実津瀬と一つになりたかった。しかし、それは叶わなかった。目覚めた時、一人で寝ていたことを知ってどれだけ悲しい気落ちになったか、お前はわからないだろう」
 桂は恨み節たっぷりで実津瀬に囁いた。
「私には桂様のお相手など畏れ多いことです」
 実津瀬はかしこまって返事した。
「私が望んでいるのだ。身分など関係ないことだ」
「私は桂様に相応しい相手ではありません」
「それは実津瀬が決めることではない。身分や分相応など関係ない。私と実津瀬の気持ち次第。実津瀬が私をどう思っているか、ということだ。私の気持ちはあの夜、言ったはずだ」
 桂にそう言われて実津瀬は返事ができず、黙った。
「しかし、私は大失態をしでかした。あの夜、今のようになんとかかわそうとするお前を問い詰めて私の言うことを聞くしかなくなるところを、たくさん酒を飲んで、一番大切な時に眠ってしまって、実津瀬を問い詰めることができなかった。………だから、あの夜のことはこれ以上は言わない」
「……桂様」
 実津瀬はなんと返事してよいか、言い淀んだ。
「月の宴を期待している。二人が最高の舞をしてくれることを」
 桂はそれまでの実津瀬に詰め寄るような様子は消し去ってさっぱりとした笑顔を見せた。
 ちょうど朱雀門が見えてきた。
「実津瀬、ここでよい。稽古が終わったなら、今日は今からしっかりと体を休めておくれ」
 門の前の階段を上がる前に差し出された桂の手を侍女が取って、一段一段を確かに上がっていく姿を実津瀬は見送った。
 階段を上りきって、門をくぐる前に桂は振り返った。
 実津瀬は桂の姿見えなくなるまで見送るつもりだったが、予期せず桂が振り返ったので視線が合い、見つめた。
 桂は実津瀬がこちらをじっと見ている姿に満足して前を向き朱雀門をくぐった。

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