「あら、蓮も一緒だったの?」
離れの実津瀬の部屋に入っていくと、淳奈の肌着を縫っていた芹が顔を上げた。手を止めて立ち上がると人数分の円座を出した。
「どうしたのですか?二人とも難しい顔をして。そんなに難題を与えられたの」
円座に座った二人に芹が訊ねた。
「……芹、私が呼ばれたのは、今年の月の宴で昨年と同じように舞の勝負をしないかということだった」
実津瀬が言った。
「まぁ」
芹は大きな声を出して、慌てて両手で口を塞いだ。
「それであなたは受けたのですか?」
「いや、すぐに答えは出さなくていいと父上は言った。芹とも話せと」
「そうですか。それで、蓮はどうしたのですか?そんなに眉根を寄せて」
「私と同じように父上に呼ばれたんだよ」
「そうなの。どんな話をされたのですか?」
芹の問いかけに蓮は答えた。
「私は典薬寮に出仕しないかと言われたの」
「出仕を!」
これまた芹は大きな声を出してしまった。
「ええ、そうなの?」
「それで二人とも受けるか受けないかを考えていて、そんな難しい顔をしているのね」
二人は頷いた。
「蓮はどうするつもりだい?」
実津瀬が訊いた。
「……私は……お母さまとも話をするけど……受けようと思っているわ。不安もあるけど、やってみたい」
「そうか……でも、宮廷に出仕するということは……いいのかい?」
実津瀬の何か含んだ言葉に蓮は何を言いたいのか分からなくて、首を傾げた。
「……景之亮殿とばったり会うこともある」
景之亮の名を聞いて、蓮は押し黙った。
伊緒理と会える喜びに浮かれて、実津瀬が言うように宮廷に出仕すればいつか景之亮とばったり会うことを想像できなかった。確かにその可能性はある。
それでも、出仕を断ろうという気持ちに傾かない。
景之亮様には新しい妻がいて、子供もいる。その幸せがあれば、昔の妻を見かけても何も思うことはないだろう。そして、私も元夫が新しい家族と幸せなら、それが本望だ。笑顔で会釈できる。
「もし……景之亮様と会ったとしても、私は平気よ」
「……そうか」
実津瀬は蓮の言葉に呟くように返事して黙った。
「それより」
沈黙が嫌で蓮は声色をとりわけ明るくして言った。
「実津瀬はどうするの?勝負を受けるの?」
蓮に水を向けられても実津瀬は黙ったままだ。
実津瀬が再び勝負を申し込まれたと聞いて思ったことは。
確かに……負けた方は自ずと再び勝負したいという気持ちが湧くだろう。もし自分が負けていたら同じように思うだろうから。相手の、そして師匠に当たる麻奈見の気持ちはわかる。
負けたままではいられない。
「……そうだなぁ。もし受けるとなると、これは昨年の対決以上に修練を積まなければならないと思う」
実津瀬は昨年の月の宴からほとんど舞らしき舞をやっていない。息子の淳奈が舞を教えて欲しいというと時に、一緒に舞うくらいだ。
実津瀬の頭の中に浮かんでいるのは、新嘗祭の時の宴でのあの男の舞だ。美しくて見惚れた。舞の技術は格段に向上しており、淡路の実力を超えた舞手になっている。
ひと月前の新年の祝いの席でも淡路と二人で舞っていた。大王もそして末席に連なっていた桂も目を輝かせてその舞を見つめていた。
あれ以上の舞をすることができるだろうか。
「芹はどう思う?」
実津瀬は隣にいる芹に訊いた。
「私は……実津瀬の気持ちが一番よ」
芹は考えて控えめな答えを口にした。
「私は見てみたいわ」
横から蓮が言った。
「私は実津瀬の舞を観たいわ。昨年の宴の舞は見られなかった。実津瀬が手紙を書いてその様子を教えてくれたけど、その様子を思い浮かべてその場で見ることができたらどんなにいいだろうかと思っていたの。束蕗原に行くことを望んだのは私だけど、月の宴の時だけはその選択を悔やんだわ。だから、私は、観たいわ」
「ははは。そうだな。蓮は観たいか!」
蓮の言葉に実津瀬は頷いた。
そこで昼寝から起きた淳奈が部屋に入って来て、この話は終わってしまった。
「れんさま」
淳奈は一目散に母ではなく蓮のところに走って来て、その膝に座った。
「あら、淳奈、目が覚めたのね」
蓮は淳奈を抱いて、その顔を覗き込んだ。
「れんさま、ふでのれんしゅう!」
と蓮と筆を持って文字を書きたいと言うので、蓮は庇の間に行って、実津瀬の机で筆を持った淳奈の手を持って文字を書く練習をした。
その夜、褥に上がると、実津瀬は四本の指のない芹の右手を包んで撫でながら訊ねた。
「昼間は私の気持ちを尊重すると言ってくれたけど、芹の本当の気持ちはどうなんだい?教えてくれないか」
舞の勝負を受けるか受けないか、実津瀬は芹の気持ちを確認したかった。
「あなたも言っていたわ……昨年以上に修練を積まないといけないと。それは誰でもないあなたがすることだもの。多くの時間を舞の練習に費やさなければならないでしょう。今年になってからお仕事は忙しいし、一族での役割もある。あなたが思う舞を舞えるように時間が取れるかしら……」
芹は実津瀬を気遣うが、実津瀬はそんなことが聞きたいわけではなかった。
「そんなことはいいんだ。それは私がどうにかすればいいことだから。私は芹の気持ちが聞きたいんだよ。率直にどう思うのか」
芹はしばらく黙って実津瀬を見つめていたが、やっと口を開いて言った。
「……私もあなたの舞を観たいわ……」
実津瀬が黙っていると。
「無理はしてほしくないのよ。気が進まないことは望まないわ」
慌てて自分の言葉を否定した。
「そんなことはない。ただあなたの言った言葉を思っていただけだ。それに気が進まないことはない。私は舞が好きだよ。それは本当の気持ちだ」
「私が観たいと言ったから勝負を受けるなんて嫌よ。実津瀬は実津瀬のために勝負して」
芹は左手で実津瀬の右手を強く握り、体を前に傾けて訴えた。
「そうかい?私は愛する人に乞われるのは嬉しいけどね。芹が観たいというなら、芹を喜ばせるために舞いたい」
「私だけではなく、淳奈も蓮もあなたの舞を観たがっているわ」
「そうかもしれないが、私は芹のために舞う。……申し出を受けたいという気持ちあるんだ。しかし、踏み切れない気持ちもあった。芹が観たいと言ってくれて、芹のために舞うと思うと気持ちが落ち着いた。そう思える人がいることが私は嬉しい」
「もう、そんなことを言って。……私も、私もうれしい……うれしいわ。……あの時から私を掴まえていてくれて」
あの時とは、出会ってから実津瀬を拒む芹をそうか、と諦めず離さなかったことを言っている。
芹は腕を伸ばして、実津瀬の首に飛びついた。勢いがよかったため、実津瀬は芹を受け止めたまま後ろに倒れた。ちょうど良く、枕の端に頭を載せた。
「芹も私を離してはだめだよ、ね」
芹は頷いた。実津瀬の顔が近づいたので、芹も自分から顔を近づけた。
こつん、とお互いの額と頭がぶつかった。
二人はふっと口の端を上げて笑いの口の形になって、そのまま唇を重ねた。
実津瀬の胸の上に乗って、続けて芹は実津瀬の唇を吸い、実津瀬は芹を抱き締めた。
五日後はすぐに来た。
仕事から戻って来た実津瀬の着替えを芹が手伝っていると、母の礼が現れた。
芹に差し出された帯を取って締め終えた実津瀬は母を振り返った。
「父上がお呼びですか?」
「ええ、その通り。芹もいらっしゃいよ。二人で話し合って、実津瀬の答えを知っているのでしょう」
芹は頷いた。
「蓮も呼ばれているの?」
「ええ、呼びに行ってもらっているわ」
三人は部屋を出て母屋へと渡っていった。
「やあ、実津瀬、帰って来たばかりですまないね。芹も来てもらって。淳奈はぐずっていないかい?」
奥の部屋、中央に座っている実言が言った。
「はい。ちょうど昼寝をしていますから問題ありません」
芹が答えた。
実言の前には既に蓮が座っていた。
「やあ、蓮」
「実津瀬、お帰りなさい」
実津瀬と芹は用意されている円座の上に座った。最後に部屋に入った礼が夫の隣に座ると、実言は話し始めた。
「二人の答えを聞かせてもらおうか。まずは、蓮から。どうしたい」
「はい……私は受けたいと思います。……私にできるだろうか、と不安にもなりましたが、やはりやってみたいという気持ちの方が勝ちました。束蕗原で学んできたことやこれまでお母さまに教えてもらったことをもとに私にできることを精一杯やってみたいです。……藍様にお会いできることも楽しみです。藍様の、何かしら力になれるのも喜びです」
一気に話す蓮の言葉にじっと耳を傾けていたみことは蓮の話が終わったとわかるとすぐに口を開いた。
「そうか。わかったよ。では次は実津瀬だ。どうだい?」
「……はい。……私も受けようと思います」
「へえ、そうか」
「はい。……父上から話を聞いた時は私の気持ちは半分半分でした。しかし、芹とも話して」
と言って、実津瀬は隣に座る芹を見た。微笑む実津瀬に芹も目を合わせて微笑み返した。
「受けることにしました。それに、私は舞うのが好きです。昨年の月の宴が最後と思って修練したことは確かです。それ以降に舞ったことはないですが、心の奥底には舞をしたいという気持ちがあるのだと思います。相手を見ると、今度は私が追う立場のように感じます。しかし、それはそれで私にとっては心が燃えると思ったのです」
「二人ともやってくれる。そうなればいいな、と思っていたから、図らずも二人ともやると言ってくれて嬉しいよ」
実言は隣に座る妻に顔を見た。
「昨年は昨年でいろいろあったが、今年は今年でまた忙しくなりそうだ。なぁ、礼」
礼は頷いて、微笑んだがその顔は少し苦い表情も含んでいた。
「二人とも、よろしく頼む!」
父の言葉に、二人は双子らしく。
「はい」
と声を揃えて返事した。
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