New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章19

小説 STAY(STAY DOLD)

 藍の気持ちが落ち着いた頃に侍女の朱が入ってきた。
 蓮は持ってきた袋を朱に渡して、中の薬草を煎じるように言った。程なくして朱は手に薬湯を載せた盆を持って他の侍女たちを連れて戻ってきた。
「藍様、どうぞ」
 藍は両手で椀を持ち上げると、ゆっくりとその中のものを口に入れた。温かくて甘い匂いがする。高ぶった気持ちが静まって行く感じが湧いてきた。
「……ありがとう、蓮」
 藍は笑顔を見せた。
「はい。藍様、また来ます」
 藍と別れて典薬寮の部屋に戻った蓮は、藍に飲ませた薬草を紙の上に分ける作業をしていると、そこに伊緒理が現れた。
「伊緒理様」
 蓮は足音に気づいて、立ち上がろうとした。
「ああ、そのままで。今日はあなたに本を渡しに来たのだ」
 蓮の前の薬草を挟んで向かいに座った伊緒理は、乾燥させた植物を見た。
「あまちゃづるだね」
「はい。藍様に煎じたものを飲んでいただきました。………本というのは?」
 伊緒理は傍に置いていた本を取り上げた。
「礼様にお渡ししておくれよ。お返しいただくのはいつでもいい。もしかしたら、あなたが写さないといけないかもしれないね」
「はい。私は筆を持つのは苦になりませんから、母には私から写すことを持ちかけます」
 と言った。
 今日は鋳流巳を付き添いに連れて来た。前回も鋳流巳を連れて来たから、いつもなら今日は侍女の曜を連れてくるのが通常であるが、今日は藍との面会が予定されていたので、何があってもいいように、鋳流巳を連れてくることにした。時間が必要なら、藍が許す限り夜になっても傍にいてやろうと思っていたのだ。しかし、気持ちの昂ぶりを静めるのに時間が掛かったが、大きく時間を取ることもなく、そろそろ帰る時間が近づいてきていた。
 もし、今日、侍女の曜を連れて来ていたら、きっと蓮は宮廷近くにある異国の人々の宿泊施設である江盧館に行って、伊緒理が来るのを待っていた。
 伊緒理も江盧館に行き、本を渡そうと思っていたが、今日の付き添いが男の鋳流巳だと知って、本をここまで届けに来たのだ。
「………今日は藍様のところに行ったのだろう。何か問題が起こったのかな」
「いいえ、そのようなことはありません。………気持ちが少し落ち込まれたようです。話し相手が欲しかったのかもしれません。子供の頃から私たちはお互いの邸を行き来してよく話をしていましたから」
「そうか……そうであればよかった」
 そこから伊緒理は蓮とともに目の前に広げた薬草を一緒に箱の中に納めた。
「次は………江盧館で」
「はい、でも………明日にでもあなたのところに行きたいわ」
「うん、そうか………明日はちょうどいい。私は今夜、宿直で昼は邸にいる。来て欲しい」
 伊緒理の言葉に蓮は頷いた。
 伊緒理とともに玄関に向かうとすでに待ち合いの部屋から出て待っている鋳流巳が見えた。
「では、また五日後に待っているよ」
「はい」
 蓮は鋳流巳を伴って宮廷の門に向かった。
「美福門から出ましょう」
 美福門には弟の宗清が見習いとして詰めている。もしかしたら、会えるかも知れないと思って、その道を選んだ。
 蓮は伊緒理に会えるのであればいつでも会いたいと思っていた。でも、今日はこのまま帰ることができてよかったと思っている。
 藍の悩み。
 子ができないということ。
 それは蓮の悩みでもあった。
 蓮はその悩みから逃げた。
 そう言っていいと思う。
しかし、藍は逃げることはできない。そのことは、どこまでも自分の腹の中に抱えていなければならないのだ。そのことを思ったら、藍にどこまでも寄り添ってやりたいと思った。もしかしたら宮廷に出仕したのは、伊緒理と密会するための手段とともに、藍を近くで支えるためだったのかもしれないと思えてくるのだった。
 今日、藍の話を聞いていたら、自分を苦しめたその悩みの蓋が開いた気がした。蓋が開いたまま伊緒理と濃密な時間を過ごすのは心が苦しくなると感じたので、一度、その蓋を閉じたいと思った。
 そのためには時間が必要だ。
 今日はこのまま帰った方がよかった。
 美福門に背を向けて門を守っている衛兵の一人に宗清がいた。門の中から外に出て行く者の動きを見張っている。
 蓮の姿をみつけた宗清は引き結んでいた唇を少し緩ませて目尻を下げた。
 結果、末っ子になった宗清は自由奔放で、家族の前では冗談、おふざけをしてよく笑わせてくれる明るい性格だが、仕事は真面目にしっかりとやっているようだ。
 十五歳になった宗清にはうちの娘の婿に、と引くて数多の申し出が来ていると聞いた。蓮が見る限り当の宗清はまだまだ妻を娶るなんてことは考えていないようだ。
 蓮も宗清に笑みを送って門の外へと出た。
 
 翌日、蓮は夜明けと共に起きて、薬草園に行き皆と一緒に手入れをした。朝餉を食べて、昨日伊緒理が貸してくれた本を写し始めた。
 帰ってからすぐに母の礼に伊緒理から本を受け取ったことを話すと、申し訳なさそうな顔をしたので、すぐに「写すわ。去様の分もね」と自分から申し出た。母は嬉しそうな顔になって「お願いね」と言った。
 蓮は本を写しながら昨日は藍の気持ちを押し測っていると、昔の自分を思い出して愛する男のそばにいることが辛いと思ったが、一晩経つと、やはり会いたい、触れ合いたいという思いが強くなった。だから、昨日出た「明日にでもあなたのところに行きたい」と言う言葉は真実だとわかった。
「曜、今日は七条に行くつもり」
「はい、準備しています」
 侍女の曜はわかっていると言わんばかりの自信に満ちた顔で返事をした。出仕には鋳流巳が続けて付き添いをしたので、昨日、江盧館に行けなかった蓮がこう言うはずだと予想していた。
 二人で歩いて七条の椎葉別邸に辿り着くと、高海が出迎えてくれて蓮を部屋に案内してくれたが、そこに伊緒理はいなかった。
「伊緒理様がいらっしゃるまでしばらくお待ちください」
 高海が屋を出て行った後、机の前にある二つの円座の一つに座って、机の上に広げられている巻物に目を落とした。陶国から持ち帰ったものだろうと推察した。読んでみたが内容はよくわからない。まだまだ勉強が足りないと思った。代わりに今日五条から持って来たひと月前に貸してもらった巻物を広げた。母と去のために二回写した。だから、大体内容は頭の中に入っており、今も知っていることをおさらいするつもりで文字を追った。
「蓮、待たせたね」
 蓮は読み終わった部分は右手で巻いて読み進めていると、静かに部屋に入ってきた伊緒理が読んだ。蓮は呼ばれるまで伊緒理が近づいていることに気が付かなかった。
「伊緒理………宿直が終わって帰ったばかりだったかしら。おしかけてしまったわね」
 伊緒理は蓮の前にある円座に腰を下ろした。
「何を言うんだ。私が来て欲しいと言ったんだよ」
 そう言って机の上に置いている蓮の手に手を重ねて握った。
「お疲れの顔ね」
「ははは。………昨夜は王宮に詰めていた女官が熱を出して苦しんでいると仲間が駆け込んできてね。薬湯を持って行って飲ませ、朝も様子を見に行ったりしていたからかな。普段はそう忙しくもないのだが」
「女人は宿直をしないのですか?もし可能であれば、私が宿直をしても構わないです」
「女人も宿直をしている。しかし、蓮が宿直をする必要はないよ。あなたには無理を言って来てもらっているのだから」
「そんなことはないわ。本当にありがたい申し出だったわ。しっかりとお勤めをしたいと思っているの。だから、宿直もできます」
「そうか。頼もしい言葉だ。………藍様に付き添いが必要なときはぜひお願いしよう」
「はい」
 伊緒理は蓮の手を握ったまま立ち上がった。そのため蓮も立ち上がるしかなくなった。これからどうするのか、どこに行くのかなんてことは愚問で、几帳の後ろには褥が敷かれていて、その上に向かい合って座った。
「蓮」
 伊緒理はすぐに蓮を抱き寄せた。
 言葉は要らない。江盧館やこの七条の邸で二人きりになれば、伊緒理は言い過ぎと思うほどの愛の言葉を言ってくれる。蓮も負けまいと自分の気持ちを言葉にした。でも、言葉がなくても、今、伊緒理の腰の帯を解くこと、下着を脱がせること、その一つ一つを運ぶ手は優しく動いて、愛しんでくれていることがわかる。だから、蓮も伊緒理の帯、上着、腰帯、袴と着けているものを脱がせる時は無言でも、指先の触れているところから愛しい気持ちが伝わるように丁寧に伊緒理に触れた。
 愛しい伊緒理。愛しているわ。
 伊緒理の唇が執拗に蓮の唇を吸った。
 しかし、蓮はいくらでもこの接吻が続けばいいと思った。初恋の人にこんなに愛されて、夢のようだと。
 それでも、頭の中をかすめるのは、伊緒理が陶国に留学してから蓮と再会するまでの間のことを知っているのか、と言うこと。これまで伊緒理に尋ねられたことはなく、蓮から話したこともない。去や母から聞いているかもしれないが、二人も伊緒理に伝えたと話されたことはない。しかし、蓮がその間、夫を持たなかったとは考えていないだろうし、岩城家の者以外から夫のことを耳にしているかもしれない。そして、夫と別れた理由も。
 伊緒理から聞かれない限り、今は結婚のことを話すつもりはなかった。
 今は髪の一本一本から足の先まで全身この幸せに浸かっていたかった。
 裸の肌が隙間なくぴったりと吸いついて蓮は喜びの吐息が漏れた。
「蓮………愛しい蓮」
 この幸せが終わらないで欲しいと蓮は思った。それを願うとうっすらと涙が浮かぶのだった。

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