夜明けに実津瀬は佐保藁の宮を出て、本家に向かった。
眠っている桂の隣で体を起こしたまま、一睡もせず夜を過ごした。逆に桂は一度も起きることがなかった。
自分が桂を部屋に運んでいる間に他の五人はどうしただろうか、と桂の部屋を出てから思った。
簀子縁を歩いて玄関に行くと、昨日案内してくれ従者が現れた。
「あれからすぐに宴は終わり、皆さま帰られました。曽野様はご気分が良くないようで、少し休まれました。岩城稲生様が付き添われていました。曽野様が帰られる時に、稲生様は実津瀬様を待つとおっしゃっていましたが、しばらくして付き添われた従者の方と共に帰って行かれました」
来客が連れてきた従者たちの待合部屋を覗いてみたが、言われた通り誰もいなかった。
夜が明けて出仕する者たちが続々と宮廷に向かって歩いている時に、自分はその反対に向かって歩いているのは不思議な気持ちだった。
遅くなったら本家に泊まる……と芹には言ったから帰らなかったことを心配していないだろうが、稲生は心配してくれているだろうと思った。
本家に着くとすぐに稲生が出てきた。
「実津瀬、すまんな。先に帰ってしまった」
「いや、そんなことはいい」
「それで、昨夜はどうなったんだ……桂様とは……」
稲生が声を落として、先の言葉を濁した。
「何もない」
「何もないって!」
「桂様と私しかわからないことだが、何もなかったのだ。桂様はあの通り、酒をたくさん飲まれていたからな、部屋にお連れした後、すぐに眠りにつかれた」
「……帰って来るのが朝になったのは……?真実はそうかもしれないが、実津瀬が朝帰りしたことはいずれ知られることになる。どんな噂が流れるかわからないぞ」
「……そうだな……迂闊だった」
「昨日招かれた者は皆、人のことを面白おかしく吹聴するお調子者ではないが、いつ誰につい話してしまうかわからない。勘が良くて利用する者が現れるかもしれない」
稲生の言葉に確かに、と実津瀬は思った。
桂の記憶もどうかわからないところで、桂の傍に仕える侍女が隣の部屋に控えていたら、何もなかったことを知っていたかもしれないが、真実をはっきりと記憶しているのは実津瀬のみだ。
しかし、今更あれこれ考えても仕方がないので、実津瀬は本家で身支度をして、そのまま出仕することにした。本家に頼んで、従者を五条の邸に遣わして、芹に本家から出仕することを伝えてもらうことにした。本家に帰っているとわかっているはずだが、要らぬ心配をさせてはいけないと思ったのだ。
仕事を終えて、宮廷から帰ると、部屋で芹が待っていた。
「お帰りなさい」
芹は立ち上がって庇の間に一歩入った実津瀬の体に飛び込んできた。
慎ましやかな性格の芹がこうして庇の間で抱きついて来るのは稀有なことだった。
「心配させたね」
「いいえ、帰ってこないのは本家に泊まったのだろうと思ったわ」
「うん……昨夜、何かあったのかい?」
実津瀬は芹を抱きしめて訊ねた。
「いいえ、何も問題はありません。ただあなたが恋しかっただけ」
「そうか。一晩離れていたことなんて今までに何回もあったことなのに。恋しがってくれるなんて嬉しいな」
そう言って芹を強く抱いた。
「昨夜はお酒を沢山飲まれたの?本家に戻ってまた朝から出仕とは、お疲れになったでしょう」
芹は小さな声で言った。
「うん。昨夜は大変なもてなしをしていただいた。地方からもたらせられた食材を使った料理が多くの皿の上に載っていて、どれも美味しかった」
「まぁ、そうなのね。それは良かったわね」
芹から腕を解いた実津瀬は手を繋いで、部屋の奥へと向かった。
「桂様は知識のある方であり、好奇心も旺盛だ。我々に向けてくださる話題は多岐に渡って、話について行くのが大変だった」
「そう……。服はどうしたの?」
「本家で借りたんだ。寝たらあまりにも皺がひどくてね」
実津瀬の着ている服が昨夜のものと違うことに気づいた芹の質問に、実津瀬は嘘で答えた。
桂の衣服に焚き込められていた匂いが移ってしまって、そのまま出仕するのが憚られたため稲生に借りたのだった。
「あら、そうだったのね」
芹は理由を聞いただけで、特にそれ以上のことは気にしていないようだ。
奥の部屋の几帳の後ろには褥を敷いて、帰った実津瀬がすぐに寛げるように準備してあった。
実津瀬は芹を連れて褥に上が離、すぐに寝転がって、芹の膝を枕にした。
「……疲れたよ」
その声やため息が心の底から出た本心のように感じた。
「舞の練習も休んで、今日はゆっくりしてくださいな。昨夜の料理には及ばないと思いますが、あなたの好物ばかりの夕餉を支度していますから」
芹は実津瀬の肩に手を置いて言った。
「……芹」
「なぁに?」
「……私たちの寝室に御帳台を置くのはどうだろうか?」
「……御帳台?」
芹は上を向いている実津瀬の顔を覗き込んだ。
「うん……。両親は昔使っていたんだ。まだ邸の倉の中にあると思う。部屋は狭くなるが、いちいちこうして褥を準備する必要がないから槻や編も楽だろう。淳奈も成長して、部屋に連れてきて面倒を見てやることも減っているし。そう考えると御帳台を置くのは悪くないと思う」
「私は見たことがないわ。どのようなものかしら?あなたが置くというなら置きましょう。楽しみだわ」
芹の微笑みに実津瀬は手を伸ばして、その頬に触れた。
「私の隣に寝ておくれ。夕食まで一緒に寝よう」
「いま寝たら夜に眠れなくなるわ」
「寝なくていいじゃないか。二人で喋っていればいいし、裸になって愛し合えばいい。やることはいくらでもある」
「まぁ、実津瀬ったら」
芹は頬にある実津瀬の手に自分の手を重ねて、反対の手を実津瀬のもう一方の手に支えられて、夫の隣に横になった。
月の宴の舞の準備は極めて順調だ。
しかしそれは、実津瀬と朱鷺世の二人が舞う部分においてだけだが。昨年よりもいいものを、と麻奈見と淡路は寝ることも忘れて舞の振り付けを考えた。実津瀬と朱鷺世は持ち前の飲み込みの速さですぐに覚えてしまって、麻奈見と淡路の想像以上の舞を作っていく。
その反対に、実津瀬と朱鷺世の一人舞は行き詰まっている。
前回は各々自由な形にしたが、今回は決まった舞の型を基本に変化をつけたものを舞うことにした。各々どんな変化をつけるのか、それに頭を悩ませているのだった。
勝負に勝つ舞とはどんなものか?
相手はどのような舞を作ってくるのか?
実津瀬は考えれば考えるほどに細部が決まらなかった。決められないと言った方がいいかもしれないが。
芹に御帳台を置くことに賛成してもらってからすぐに実津瀬は動いた。
父の実言に御帳台はあるか、と聞きに行き予想通りに倉の中にしまってあった御帳台を出して、検分し使えることがわかったので、今日、部屋に設置することにした。
淳奈が眠った昼間、実津瀬夫婦の奥の部屋に御帳台を置く作業が始まった。
邸の使用人達が、長い柱や浜床を庭から持って上がって組み立てるのを実津瀬は芹と一緒に見守った。
芹は御帳台を見たことがないと言っていたので、組み立てる工程を簀子縁から興味深げに見守っていた。
「大きなものね」
芹の後ろで実家から連れてきた侍女の編も物珍しそうに見ている。
手際よく組み立てられ、岩城家に仕えている侍女の槻が浜床の上に敷物、褥を置いた。浜床を覆う屋根から帷子をたらして、三方に几帳を立てた。
「これだよ、これ」
実津瀬は芹の手を引いて、御帳台の入り口まで連れて行った。
「豪勢ね、王族になった気分」
芹は目を輝かせて言った。王族という言葉に実津瀬は佐保藁の宮の桂との夜を思い出した。御帳台を出して使おうと思ったのもあの夜があったからだ。
実津瀬と芹が話をしている姿を見て、侍女の二人は部屋から退出した。
「夜が楽しみね」
清らかな無邪気さの声音に実津瀬は思わず手を伸ばして抱きしめた。
「実津瀬……」
芹も実津瀬の背中に手を回した。
その時に部屋の外の簀子縁を走る足音が聞こえた。
「父様、母様」
昼寝から起きた淳奈が現れた。
実津瀬は芹の体から手を離し、淳奈を抱き上げた。寝て起きたすぐの顔で少しぼーとしているようだが、にこにこと機嫌良く笑っている。
「起きた時に芹様がいないと少し泣かれたのですよ」
後ろを追いかけてきた編が言った。
「そう。淳奈、泣いてしまったの?」
芹は実津瀬の腕にいる淳奈の顔を覗きこむと、頬に涙の跡があり、頬を撫でて跡を拭ってやった。
「淳奈、お父様にお見せしましょう。今日やった舞を」
淳奈は頷くと父の腕から下りて、庇の間の中央に芹と立った。
一緒に右手を肩の高さまで上げて止めると、左足を前に出した。上げた手を下げて回して元の高さに戻し、左手を肩まで上げて横に動かした。右足を一歩前に出して、右手をもう一度回して元の高さに戻した。
小さな体が一生懸命に舞う姿は可愛らしくて、微笑ましい。そしてその隣で同じように待っている芹に見入った。
二人の舞は実津瀬が月の宴のために作っている舞の一部だった。
淳奈と同じように楽しそうに舞っているのだが、型をなぞるのではなく、そこには芹の工夫が入っていた。伸ばした手、前に出した足、その後の動きは女人のたおやかさが出ているが、軽妙で面白かく、観ている者を楽しませられるように見えた。
実津瀬も芹の隣に立って、同じように舞い、芹の工夫を真似た。
「淳奈、お母様の真似をしてごらん」
実津瀬の言葉に従って、淳奈は母の真似をし始めた。それを見て芹はわかりやすいように大袈裟に手と足を動かして、舞ってみせた。
三人が合わせて舞うのが面白くて、淳奈が笑い声を上げた。その声が可愛らしくて実津瀬も芹も笑った。
「淳奈、うまいね。よくお母様の真似ができているよ」
最後は芹がはちゃめちゃな動きをして、淳奈と実津瀬は真似ができなくなり、三人は輪になって抱き合い、大きな笑い声を上げた。
その夜、実津瀬はその日設えた御帳台に先に上がって芹を待っていた。
寝転がって、昼間、芹が淳奈と舞っていた舞を思い返していた。
決まった型にどう工夫を凝らして自分らしさを出そうか、と決めかねているところに、芹の優美ながら面白い動きは実津瀬の目の前の曇りを晴らすものだった。
「実津瀬……」
寝る準備を終えて芹が御帳台の入り口に立った。
「おいで」
浜床の端に芹は膝をついて上がった。
「寝心地はどうだい」
「ええ、いいわ」
「よかった」
すぐに芹は実津瀬の隣に横たわった。実津瀬も腕の中に入れた。
「実津瀬、何を考えていたの?」
「つくづくあなたがそばにいてくれて、私は助けられていると思っていたんだ」
「……」
「私の舞の女神。いつも私を救ってくれる」
「まぁ、いつもそんなことを言ってくれるわね、実津瀬は。大袈裟よ」
「私はいたって真剣に言っているよ」
そう言って芹に口づけをした。
「でも……」
芹は実津瀬に唇を吸われている合間の息継ぎの時に途切れ途切れに言葉を出した。
「……嬉しい……わ……実津瀬」
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