New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章10

小説 STAY(STAY DOLD)

 ここは何という邸だろうか……。
 蓮がそんなことを考えていると、外で人の話し声がする。話している言葉は先ほどと同じ聞いたことのない言葉だった。あの人たちは異国の……人たちではないかしら……。
蓮はそんなことを思いながら、来るであろう伊緒理をじっと待っていた。部屋は薄暗く、今が何時かもわからない。頭の中で昨日写していた本の内容を思い出していた。
 随分待った気がしたが、本当はどれだけ待ったかわからない。伊緒理はいつ来るのだろうか……。それからしばらくじっとしていると、不意に外で話し声が聞こえた。
 その言葉も何を言っているのか全く分からなかった。部屋の中にいるから聞こえづらいのか……それともやはり異国の言葉なのか……。
 扉の前まで声が近づいて来た。
 蓮は顔を上げた。その声が伊緒理の声だと分かったからだ。
 伊緒理の声……だけど、何を言っているのかわからない。
 扉が音を立てて開いたので、蓮は身構えた。
 伊緒理の喋り声はやはり何を言っているかわからず、蓮に向かって言っている言葉ではないようだ。蓮は立ち上がって、几帳の陰から開いた扉の方を覗き見た。
 そこには、伊緒理とともに、その隣に知らない男が立っていた。蓮はその男と目が合い、驚いてすぐに伊緒理に視線を移した。目つきの鋭い男の視線、蓮が見慣れている服装とは少し違う衣服に驚いた。伊緒理は隣に立つ男に強い口調で話し、しっしっと手を振って男を向こうに追いやった。
 そして、背中で扉を閉めると。
「蓮、待たせてしまったね。すまない」
 と言った。
 蓮は几帳を越えて、伊緒理の前に飛び出し、その胸の中に飛び込んだ。
「……怖がらせてしまったね。ここは、陶国から来た人々の宿舎なのだ。薬草の知識のある方がいるので、私はよくここを訪れるし、また通訳として呼ばれることもある。それでここに空き部屋があることに気づいてね。私たちが会うのに使わせてもらうことを思いついたんだ。」
「そうだったのね……」
「あの者は私が陶国から帰ってくるときに同じ船に乗っていた知り合いなんだ。私がここに入ろうとしたら、見つけられてね。何をしているのかと話し掛けて来た。何でもないと返したのだが、階を上がって来て、言い合いになったんだ。蓮の顔を見て、そう言うことなら早く言え、と言って階を下りて行ったよ。怖い思いをさせたね。先にここのことをよく話しておけばよかった。私の配慮が足りなかった。許しておくれ……」
 震えている蓮の体を伊緒理は抱き締めた。
「いいえ……」
 蓮は伊緒理の胸から顔を上げて、上を向いた。伊緒理の優しそうな微笑みが見えた。
「蓮……」
「……嬉しいの。こうしてあなたの胸に抱きついていられることが」
 伊緒理は蓮の手を取って几帳の内側に連れて行った。
「あなたの手紙を読んだよ」
 円座の上に座るように手を添えて誘い、二人が座ったらすぐに伊緒理は蓮を抱き寄寄せて、蓮は崩れるように伊緒理の胸に倒れ込んだ。
「手紙を読んだら、すぐにあなたに会いたくなった。五日も待てないと思った。今日までが長くて長くて仕方がなかった」
「……伊緒理……私もよ。今日が待ち遠しかった」
 蓮は伊緒理の脇の下から腕を回し、伊緒理の背中を抱いた。
 伊緒理の腕の力が緩まったのを機に蓮が顔を上げると、伊緒理が顔を近づけて蓮の唇に自分のそれを重ねて吸った。唇が離れると蓮は再び伊緒理の胸に顔を伏せていた。
 伊緒理が言う。
「あなたに会えるだけでもうれしいことだけど、それだけでは我慢ができなかった。こうして抱き合いたくて……典薬寮では誰の目があるかわからないし、あそこは仕事をする場だ。蓮にはしっかりと仕事をしてもらいたい。私の不埒な思いで、こんなことをしているのを見られて、あなたの名を汚してはいけないからね」
「そんなことないわ。私だって、私だって早く伊緒理とこうして抱き合いたかったのよ」
「うん」
 伊緒理は蓮の顎に指をかけて上を向かせて、その瞳を覗いた。
「……伊緒理」
 伊緒理は顔を寄せて、蓮に頬ずりした。
「……かわいいんだ。……あなたが愛しくて、愛しくて」
 そう言った後に、蓮の唇を再び塞いで吸った。今度は蓮も伊緒理の唇を吸い返し、二人はそれを繰り返した。
 蓮は夢を見ているようだった。
 ちらりと、あの時……伊緒理が留学することを聞き、束蕗原に追いかけて行った時に、どうしてこうしてくれなかったのか……と思う。そうすれば、こんな遠回りはしなったはずなのに。そう思ってから、あの時、伊緒理はこうはできなかったのだと、蓮は自分を諭す。伊緒理は命の保証のない海の上を行く旅に出る前で、旅が成功したら異国で勉強に励まなければならなかった。そしていつ帰るかもわからない。帰る船に乗っても行きと同じで、必ず戻られるという無事の保証はないのだから、優しい伊緒理は蓮の心を引き止めるようなことをしなかったのだ。そして、この年月とその間の経験があったからこそ、今こうして、お互いの気持ちを表すことができているのだ。
 蓮は思った。何もかも無駄ではなかったと。
 唇を離した二人は、伊緒理の肘から手の平までの距離を保って見つめ合っていたが、伊緒理が右手を蓮の腹の真ん中にある帯の結びに伸ばした。
 蓮は伸ばされた伊緒理の手を見つめた。その手がこれから自分の体に何をしようとしているのかを想像して、それは自分も望むことだと思った。
 伊緒理の右手は蓮の帯の結び目の上に置き、それから帯の結んだ端の垂れた方へと動いて、その端を人差し指と親指で掴み、ためらうことなく、その端を引っ張った。
 帯は抵抗することなく解けて、蓮の背子は緩まって肩からずり落ちた。伊緒理は開いた背子の下にある裳を留める帯にも手を伸ばして解いた。そこで蓮から体を離し、自分が着ている鹿の皮を脱ぎ、その下にはおっている上着を脱いだ。桜の樹に蕾がつき始めたころで暖かい日もあるが、まだまだ朝夕は寒いから、その上着は綿の入った厚いものだった。
 皮の上着を二人の間に置くとその上に綿の厚い上着を敷いた。脱がした蓮の背子を丁寧に畳んで、蓮の後ろに置くと、上着の上に押し倒した。
「……こんなところにあなたを寝かせるのは申し訳ないと思っている」
 上を向いた蓮の顔を、覆いかぶさって真っすぐに見下ろして伊緒理は言った。
「いいえ」
 その言葉に蓮は強い口調で返事した。
「そんなことは決して思わないで」
 蓮は左手を伸ばして、伊緒理がその手を取った。蓮は伊緒理の手を自分の方に引き寄せて、胸の上に置いた。
「私は初めからこうしたいと……二人切りになったら、抱き合いたいと思っていたの。それがどこだろうと構わないわ。束蕗原で会った最後の夜から、ずっと待っていたのよ」
 蓮の言葉に伊緒理は蓮に誘われて置いた胸の上の手を広げて蓮の上着の襟を掴んで、白い肌を露わにした。反射的に蓮も伊緒理に手を伸ばし、伊緒理の服の襟を掴んだ。
 伊緒理は蓮の横に寝そべると、一旦襟から手を離して蓮の顔に持って行って、指の背で頬を撫ぜた。その手は首筋から鎖骨、その下へと動いていった。
 蓮はうっとりと伊緒理を見つめた。伊緒理にどこを触られても、嫌のことはない。部屋の中は壁の板と板の隙間から差し込む細い光では薄暗いが、伊緒理の顔を表情を見るのには十分だった。
 留学前に抱いてくれと言ってせがんだ時の伊緒理は色白で整った美しい顔の細い体の優男であった。伊緒理の父も整った男前ではあるが、それよりも母の美貌が評判だった。伊織の母である朔を知る人は口をそろえて、美人だったと言った。大王の妃に推薦されるほどだと。残念なことに蓮が伊緒理の母を見る前に、その母は亡くなってしまったが。伊緒理を見ていると、見たこともない母上さまの美しさを思っていた。
 海原を超える旅、異国での生活、大王の命を背負って勉学に励むこと。それらが、伊緒理を優男から、力強い、頼れる医師にそして男にした。
 蓮は見つめているだけでは物足りず、掴んでいた伊緒理の上着の襟を引き寄せ、それに合わせて自分の顔を伊緒理に近づけて頬に唇を押し付けた。すぐに伊緒理から顔を離したが伊緒理は蓮を見下ろしていた。
「伊緒理が陶国に行って、五年近く経った。あの時とは比べものにならないくらい、あなたは逞しくなった。でも、変わらないのね、優しい顔。笑った時の目、変わらず優しいわ」
「そうかい?私はあなたに好きになってもらえる男かな?」
「……私はずっとあなたのことが好きよ。小さな頃、あなたと初めて会った時に好きになってからずっと」
 伊緒理は蓮の体の下に腕を入れて、抱き寄せた。
 
「そろそろあなたを帰さなくてはいけない」
 伊緒理は左肘をついて、上半身を起こした。それで、伊緒理のはだけた胸に伏せていた顔を上げた。
「まだいいではないですか?私はまだ伊緒理と一緒にいたいの」
 と言って、伊緒理の腹に腕を回した。
 体を重ねて果てた後の余韻に浸っていたのに、もう別れるというのはなんとも寂しい気持ちだった。
「私も同じだよ。もっと一緒にいられたらどんなに幸せか……だけど、今はここまでだ。実言様にも礼様にも理解をいただいて安心して蓮を典薬寮に送り出してもらっているのに、帰りが遅くなって心配させてはいけない。また……そうだな……次に蓮が来た時にも、と言いたいところだけど、次に次、十日後にまたここで会おう。いいかな?」
 蓮は次に来た時も、ここで会いたいと思ったが、我慢して頷いた。
「次にまたこうして会うことが楽しみだ……それまであなたとこうすることができないことを我慢するよ」
 伊緒理は言うと、蓮の頤に指をかけて上を向かせて唇を吸った。
 これで今日、何度目の接吻だろうか。いくらしても飽きることはない。
 蓮は吸い返した。
 その時、外で声がした。二人は唇を離して身構えた。蓮には何を話しているのかわからなかった。すると、伊緒理が吹き出して声を殺して笑い始めた。
「?」
 蓮は怪訝な顔で伊緒理を見た。
「すまない……私が入ってくるときに覗いた陶人の男がいただろう。今、外で別の陶人がその男にどうしてそこに立っているのか?と尋ねたのだ。すると、あの男が、伊緒理の逢引きに邪魔が入らないようにここで見張っていると言ったんだ」
「まぁ!」
「堅物の私の恋だから、守ってやりたいなんてことを言っている」
「そう?」
「あの男は陶国からの帰りの船で船酔いが酷くて、私が助けたのをえらく感謝してくれているようだ」
「……恥ずかしいわ。私たちのこれまでのことが外に」
「大丈夫だよ。だいぶ距離はある。心配することはない」
 伊緒理と蓮は起き上がって、乱れた衣服を整えた。
 下着だけの体に、傍に追いやった上着や裳を着けながら、蓮は伊緒理の愛撫の痕に触れてその時の甘い記憶を頭の中に焼きつけた。
「侍女は待ちくたびれているかな」
「大丈夫よ。私のことをよくわかっている侍女だから」
 衣服が整え終わると、部屋を出た。
 その時には伊緒理の友人である陶国人の姿はなかった。
「妻戸が開く音を聞いて、立ち去ったのだろう。そこまで無粋な男ではないのだ」
 伊緒理と共に蓮は簀子縁を歩き、侍女の曜がいる部屋へと行った。
 部屋に入ると知らない男が曜の前に座っていて、二人は談笑していた。
「高海(たかうみ)、待たせたね。お二人を五条のお邸まで送っておくれ」
 伊緒理の言葉で、高海と呼ばれた男は頷いて立ち上がった。話をしていた曜は打ち解けたようで、笑顔で高海についていく。これが伊緒理が用意した帰りの付き添いの男だとわかった。
 階を降りたところで、伊緒理は曜や高海の目を憚らず蓮の手を取った。
「蓮、ではまた五日後に会おう。待っているよ」
 目尻が下がった優しい微笑みを見せた。
 蓮はまた伊緒理と会えることが嬉しくて大きく頷いた。
 伊緒理はその場に残って、蓮と曜は高海に連れられて邸の裏門を潜って外に出た。
 蓮は少し後ろを歩いてくる曜を思った。
 前回、伊緒理が付き添いは侍女にしてほしいと言っていたことを思い出していた。今の自分を曜はどう思っているだろうか。きちんと着たつもりではあるが、着崩れた感じのある襟元や帯に、曜はもう蓮と伊緒理が別の部屋で何をしていたかわかっているはずだ。もし、鋳流巳が付き添いだったら、伊緒理はここまで付き添ってくれなかったかもしれない。また、鋳流巳は蓮と伊緒理が別室で何をしていたかを勘づいて、蓮も伊緒理も気まずい思いをしただろう。
 だから、伊緒理は今日は侍女を付き添いにしてほしいと言ったのだ。
 付き添いの高海は五条岩城の邸がどこにあるか知っている様子で、どの道を行けばいいか聞くこともなく、進んでいった。
「いつも正面の門から出入りされますか?」
「はい」
 蓮の代わりに曜が答えた。
「では、こちらでお別れです。私はここでお二人が門に入られるのを見ています」
「そんなところまで見届けていただかなくてもいいのですよ」
 蓮が言うと。
「伊緒理様からお二人が無事に五条のお邸に着くのを確認するように言われております。ですので、このまま真っ直ぐ行って門の中に入ってください」
 高海に言われて、蓮と曜は真っ直ぐ門の前まで行った。すると、門番が門の内側から出てきた。
「蓮様、今日は遅かったですね」
「蓮様はよくお勤めされました」
 門番の言葉に蓮の代わりに曜が門番に返事をした。蓮は今きた道を振り返えると、そこに高海の姿はなかった。

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