新年を迎える前に蓮と母の礼が束蕗原から五条岩城邸に帰って来た。
戻る前日に実津瀬が束蕗原に迎えに行くために都を発った。一泊して、翌日母と蓮を連れて都に戻って来た。
約一年振りに会う姉に妹弟たちは門の前に出ては、まだかまだかと待っていた。
実津瀬の馬が一足早く着いて、妹弟たちはやっと姉さまやお母さまに会えると色めき立った。
だいぶ後に二人が乗った車が五条に辿り着いた。
母屋の玄関に着けられた車の後ろから、最初に蓮が下りてくると、妹の榧が寄って来た。
「姉さま、会いたかった」
榧はそう言って蓮に抱きついた。
その後ろを母の礼が下りてきて、珊が駆け寄った。十一歳の珊は母と三月も離れていて寂しかった。礼は珊の背中に手を回して抱き締めた。
広間の部屋に行く簀子縁の前に宗清が立っていて、蓮に微笑みかけて来た。
「宗清……」
「姉さま、心配したよ」
「……心配を掛けてしまって本当にごめんなさい」
蓮は宗清に近寄ると、いつの間にか自分よりも背の高くなった宗清がそっと抱き寄せてくれた。
「無事でよかった。兄さまが無事を知らせてくれるまで不安だったんだ」
「そうだったのね。……こうやって無事五条のお邸に帰って来られたわ」
蓮は目尻に涙が溢れて来た。
「蓮、父上がお待ちだよ」
簀子縁を進んだ角に立ち止まって待っている実津瀬が呼んだ。
蓮は榧と手を繋いで父の待つ広間へと行って、実言に戻って来たことを報告した。
それから榧は会えなかったこの一年の間を埋めるかのように蓮の部屋に押しかけて十日ほど居座った。不思議と、一日中一緒にいても、話は尽きることはなかった。
夜は並べた褥に横たわり、衾の下で手を繋いであーでもないこーでもないと話をした。
蓮は婚約した榧とその相手である実由羅王子のことを聞きたがった。
榧はおしゃべりではないが、訥々と王子との出来事や自分の思いを話した。
榧と実由羅王子は筒井筒の仲で、小さな頃から弟の宗清も加わって三人で一緒に遊んでいた。
父の実言は将来は榧と実由羅王子を結婚させようと考えていたが、当の榧は親のそんな思いは露知らず、自分は一つ年下の高貴な出自の男の子の遊び相手だと思っていた。
それが年頃になったら結婚相手になったことに榧は少しの引っ掛かりを感じていた。
決して実由羅王子のことを嫌いではない。いや、好意はあるものの、それがとても静かな気持ちのため兄や姉の恋愛から結婚の経緯との違いに戸惑っていた。
そう榧は告白した。
いつも傍にいた人がそのまま夫になること、それが私の生き方なのかしら……。
榧の思いに蓮も答えはわからない。
一つ言えることは。
自分の気持ちを決めるのは自分だ。
「もし、榧が決めたことが岩城家が望んでいないことでも、お父さまは榧の気持ちを認めてくださるわ」
蓮は言った。
「そして、お母さまも、実津瀬も、もちろん私もあなたの決めたこと尊重するわ」
榧は「はい」とだけ答えた。
新年の行事も一通り終わり、五条岩城家はいつも通りの平穏な日々が続いていた。
新しい年になって変わったことは、宗清が宮廷に見習いとして出仕し始めたことだった。
詰めている役所が左衛門府に決まったと聞いた時、武官としての勤めに姉たちは納得した。
「宗清が実津瀬と同じ中務省などに勤められるわけないわ。あの子は机についてじっとなんてしていられないでしょうからね」
蓮の言葉に榧が頷いた。
「人には向き不向きがあるから。宗清に向いた部署で経験が積めるのはいいことだわ」
母の礼だけは前向きなことを言った。
末の子の珊は、すぐ上の兄が邸に不在がちになることを寂しがった。
月も二月に入り、五条岩城邸の庭には梅の香りがし始めた頃。出仕していた伊緒理が弟の宗清と一緒に邸に帰って来た。宗清はすぐに自分の部屋に行った。
実津瀬は離れの部屋に入ると芹が着替えを手伝って楽な格好になった。芹が脱いだ服を畳んで箱に入れ、実津瀬は円座に座った時、実言の腹心の部下で邸の家政を受け持っている忠道が現れた。
「実津瀬様、実言様がお呼びです。母屋へいらしてください」
忠道が呼びに来るなんて何事だろうと、実津瀬は芹と顔を見合わせた。座ったばかりだが、すぐに立ち上がって母屋に向かった。
一方、自分の部屋で写本をしていた蓮の元に母の礼が現れた。
「あら、お母さま、何かお手伝いすることがありますか?」
蓮は筆を置いて、母の方に体を向けた。
「いいえ。お父さまがお呼びよ。私たちの部屋に来てちょうだい」
「……お父さまが?」
たまに父に呼ばれて、両親の部屋で話をすることはあるから不思議には思わなかった。
「何かご用があるのでしょうか?」
「私も知らないのよ。ただあなたを呼んで来てくれと言われてね」
「そうですか?」
蓮は立ち上がり、母と一緒に両親の部屋に向かった。
母屋と離れを繋ぐ渡り廊下を渡って、蓮とは反対側の簀子縁を実津瀬が歩いて来た。丁度二人は角を曲がったところでお互いの姿を見て笑顔になった。
「蓮も呼ばれたのか?」
「実津瀬も?何かしら」
御簾の上がった入口まで来て、二人は言った。
「さ、お父さまがお待ちよ」
礼が先に部屋に入って二人に言った。
実津瀬と蓮が部屋に入ると、几帳の向こうの奥の部屋に父の実言が座っていた。
「やぁ、二人とも悪いね。来てもらって」
実言の前には二つの円座が用意されており、そこに二人は座った。母の蓮が父の隣に座るのを待って、実言が口を開いた。
「二人一緒でないといけないことではないのだが、お前たちはお母さまのお腹の中から一緒にいた深い仲の兄妹だし、お互いのことをいつも思いやっているから一緒に聞いてもらおうかと思って呼んだんだ」
とにっこり笑って言った。
実津瀬と蓮は何事だろうと身構える。
「どちらから話そうかな……。そうだな。蓮から話そう」
顎に手を当てて考えていた父が手を下ろして、蓮を見た。
蓮は居住まいを正して父の目を見つめる。
「蓮……お前に宮廷に出仕する話があるんだ」
父の言葉に蓮は驚いて、ぽかんと口を開けたままになった。
母の礼も本当に何も聞いていなかったようで、口に両手を当てて驚きの声が出るのを防いだ。
「典薬寮に出仕して薬の調合の手伝いや、王宮の女人の体の相談を受ける仕事だよ。どうだい?」
「……どうだいって……私」
蓮は突然の話にすぐに言葉が出てこない。
「王宮には有馬王子の母君である碧様や、有馬王子に嫁いだ藍様もいる。二人とも岩城一族に関わりのある女人だ。蓮が宮廷に出仕して二人のお話を聞き、体によい薬湯を調合すれば、碧様や藍様もそして岩城一族も安心だ」
そうね……、と蓮は心の中で頷いた。確かに、有馬王子の母は岩城出身だから藍を気にかけてくださっているだろうけど、後宮に入った藍の話し相手になれるのなら、それは願うことだ。
「……昔、有馬王子の母、碧様が後宮に入った時、礼も話し相手になるため訪ねて行ったな」
と実言は隣に座る礼を見て言ったがいつの間にか遠い目になった。それは二十数年前の苦い記憶が蘇って来たからだった。しかしすぐに気を取り直して、蓮を見た。
「その時とは違う。今回はきちんと仕事として王宮の方々に仕えるのだ。しかし実津瀬のように毎日の出仕はしなくてよい。日を決めて、また要請があれば出仕するというものだ。礼の手伝いをしながら、決まった日に出仕すればいいということだ」
「……そうですか」
「聞いた今、すぐに答えを出しなさい、なんてことは言わない。礼と話をして、また自分でも考えてみてどうするか決めたらいい」
「……お父さまはどう思われているのですか?」
「私?……私は悪くないと思っている。蓮が束蕗原で学んできたことが活かせるだろうし、藍様の話し相手になるのもいい。……前に一度榧を藍様のところに連れて行ったのだ。色々と話しが弾んで藍様は喜ばれていた。藍様も時に実家を恋しく思われていると聞くから、蓮と榧の二人が訪ねたら、実家にいるような気持ちになっていただけるかもしれない。しかし、気の進まないことをしろとは言わないよ」
父の笑顔に偽りないない。言った言葉が全てだと知っている。
「……はい。……よく考えます」
蓮はそう返事したその頭の中は、この降って湧いたような話の陰に伊緒理がいると考えていた。
一度、伊緒理から手紙が届いた。
十二月のある日、五条の邸の裏の使用人たちが行き来する垣の前に、蓮に手紙を届けに来たと一人の女人が現れた。
使用人たちは門へ回ってくれと言ったが、内密にお渡ししたいと言い、押し問答になっているところを、蓮の傍のことをやっている侍女が通りがかり、そのことを蓮に伝えに行ったのだった。
蓮は手紙をもらう予定などないので、訝しみながらも知らないと言って無碍に帰すのも申し訳ないと思い、何より誰が自分に手紙を寄こしたのか気になって、念のため従者の鋳流巳を連れて自分でその垣の前まで行った。
「……椎葉様の七条にあるお邸に仕えている、毬と申します。こちらを、伊緒理様から預かって参りました」
と言って、胸に入れていた紙を差し出した。
蓮は伊緒理の名を聞き、すぐにその手紙に手を伸ばした。
「伊緒理から……」
手紙を開くとそこには、見慣れている伊緒理の筆跡が見えた。蓮はすぐに言った。
「……返事を書きたいの。少し待ってくれるかしら?」
女人は頷き、蓮は部屋に戻って手紙を読んだ。
伊緒理から蓮への愛の言葉が書き連ねてあった。
私もよ……私も早くあなたに会いたい。
あの一夜を思い出しては、あなたに会えないこの時間の自分を慰めている。再び伊緒理に会える日を渇望している。
蓮は伊緒理以上に自分の気持ちを書き表したいと思ったが、使者の女人を待たせていると思うとそんなに考えている時間もないと思って、今ある気持ちを書いた。
私もあなたに早く会いたいです。あの夜、あなたの腕の中で聞いたことが全てと、あなたを信じて待っています。
蓮はそれを曜に託して、使者に渡してもらったのだった。
あの手紙の中で、蓮に会える方法を模索していると書いてあった。
それが宮廷への出仕になったということだろうか。もし典薬寮に出仕すれば、伊緒理は典薬寮の医官なのだから、必ず会える。
蓮は伊緒理との逢瀬の道筋を見た。
「次は、実津瀬だ」
実言は考え込んでいる蓮の顔から眼を離して、隣の実津瀬に視線を移した。
蓮を思ってその様子を見守っている実津瀬は顔を上げて父を見た。
「はい」
実津瀬も居住まいを正した。
「昨年の月の宴での勝負。お前はあれが最初で最後と思い、舞に打ち込んだ」
「はい」
「勝負の結果は、実津瀬の勝ちだった。私も大変鼻が高い出来事だった。しかし、一方で負けた方はその結果を受け入れつつも、一矢報いたいと思うものだ」
「はい」
実津瀬は父の言葉にじっくりと耳を傾けた。
「雅楽寮の頭である麻奈見からもう一度勝負を挑みたいとの依頼があったのだ。それに桂様はたいそう乗り気で、今年の月の宴でも同じように対決をしたいと話をいただいた」
その言葉に自分の気持ちに囚われていた蓮は驚き、実津瀬を振り向いた。
「実津瀬、どうだろうか?」
そう問われて、実津瀬は驚き、強張った顔をして黙っている。
「……これまた、すぐに返事をしてほしいなんてことは思っていない。この勝負を受けるとなると、今まで以上に練習が必要だろう。大嘗祭、そして新年の祝いの宴での舞を観たらそう思うことだろう。気安く受けろとは言えない。受けるなら覚悟のいることだ。これまた部屋に戻って芹とも話をして決めたらいい」
「……はい」
実津瀬はやっと返事をした。
「話は以上だ。奇しくも二人に同じ時期に一時でも生活の変わるような話が舞い込んできた。これは身に余る申し出だと思うし、またできない話でもない。二人がよくよく考えて答えを出してくれたらいいと思っている。そうだなぁ……五日後、五日後に答えを聞かせてもらうよ。いいかい?」
実津瀬と蓮は同時に頷いた。
二人の頷きが同時なのに、実言はやはり双子だと思って笑顔になった。
「では、部屋にもどっておくれ」
実津瀬と蓮は立ち上がり、両親の部屋から簀子縁に出た。各々の部屋に戻るにはそこで別れなければならなかった。
「蓮、離れにおいでよ。話しをしよう」
と実津瀬から申し出た。蓮は異論なく頷いた。
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