「淳奈(じゅんな)!淳奈!どこに行ったの?出ておいで!」
小さな淳奈の後ろ姿はしっかりと見えているが、隠れた自分を見つけてもらうのが楽しい淳奈を思って、芹は声を掛けた。
「淳奈?淳奈?」
低木の後ろに隠れた淳奈を追いかけて、名を呼ぶ。
母の声が心細い、心配げな声音に変わったのを感じた淳奈はしゃがんで隠れていた低木の陰から飛び出した。
「まあ、淳奈!そこにいたのね」
芹はしゃがんで両手を広げると、淳奈は笑顔でその胸に飛び込んできた。
「淳奈!淳奈!」
芹は節をつけて息子の名前を連呼すると、腕の中の淳奈は嬉しそうに芹の頬に自分のそれを押し付けて、ころころと明るい声で笑った。
淳奈を抱いて立ち上がった時、庭には強い風が吹き抜けていった。
芹は淳奈の頭を右の袖に覆って、強い風から守った。
目の前に布が下りて真っ暗になった淳奈は、芹の右腕が下りて明るくなると同時に母の顔が現れたので、安心の笑顔を見せた。それに芹もつられて、笑顔を返した。
「かあたま」
最近はたくさんの言葉を言うようになった淳奈であるが、まだ正しく発語できないことがあり、「おかあさま」と言いたいのだが、かあたま、と言ったのだった。
芹は幼い我が子が日々果敢に挑戦してできることが増えて行く、その成長をみるのが楽しくて仕方ない。
懐妊したことが分かった時は戸惑った。いずれいつかは……と思っていたが思いのほか早く懐妊した。夫の実津瀬も早く早くとは思っていなかったようで、懐妊したことを告げると少し驚いた様子だったが喜んでくれた。
私のような者が人の親になれるかしら、と芹は不安であったが生まれた子はかわいくて、乳母に任せっきりにせず、何でもやってあげたくなった。
「風が強いね。もうお部屋に戻ろうか」
芹は息子に問うと、淳奈は母の顔を見上げていた視線を母の背後に移した。その時、後ろから声がした。
「もう少し歩こうよ。木の下の日陰は涼しくて気持ちがいいはずだ」
芹は振り向くと夫の実津瀬が立っていた。
「あら、お帰りになっていたの」
「今さっきね」
実津瀬が芹の隣に立つと、芹の腕の中の淳奈は父に向かって両手を開いた。その姿を見た実津瀬も淳奈に手を差し伸べたので、芹は息子を夫に渡した。父の腕の中に移った息子は父に会えて嬉しそうな表情だ。
実津瀬はそのまま歩き出したので、芹もそれに続いた。
岩城実言邸の離れに住む三人は、母屋と離れの間の目隠しの役目のような森のような広い庭の奥へと進んで、大きな樹の下に来ると、実津瀬は腰を下ろした。抱いていた淳奈は地に足が着いたところで、歩き出した。
芹も実津瀬の隣に座って、息子が離れて歩き回る姿を見ている。短い足が、数十歩も歩いて行ったが、ふっと怖くなったのか淳奈は両親の方を振り返った。
淳奈がこちらを振り返ったのを、実津瀬も芹も見逃さず、微笑み、芹は手を振った。
「ととしゃま」
「淳奈!」
お父さま、と言いたいのをうまく言えず、ととしゃまと言ったのはいつものことで、実津瀬はこちらに走り込んでくる淳奈を膝に抱いた。
淳奈は父の腕から、隣の母の膝に移ろうと体を動かし、二人はしばらく息子の気持ちの赴くままの遊びに付き合った。実津瀬の掻いたあぐらの中にすっぽりと体を入れて、腕を枕に目を瞑った淳奈はすぐに眠りに落ちた。
「あら、寝てしまった」
「あなたが帰ってくる前から走りまわっていたから、眠たくなったのね」
芹は夫の肩に顔を寄せて、息子の寝顔を窺った。
「実津瀬は、舞の練習だったの?」
芹が訊ねた。
「うん、そうだ。本番間近だからね。細かいところまで、合わせるのに苦労している」
「そうであれば、あなたもお疲れでしょう」
「ああ、そうだな。疲れたよ。ちょっと、私も休もうかな?」
芹の言葉に、実津瀬はそう返して、淳奈を起こさないように抱きかかえて、芹に背中を見せたかと思うと、そのまま後ろへと倒れて寝転がり、芹の膝枕に頭を載せた。
「そうね……実津瀬の舞は素晴らしいもの。都中が期待をしているわ」
「……今回はあなたが観に来てくれるから、嬉しいな。あなたは、私の女神だから。よい舞を見せて、褒めてもらいたい」
「まあ、女神だなんて。そんな力はないわ。私は実津瀬の舞が好きなだけよ。私と淳奈の前だけで舞ってくれるおどけた舞も、大王の前で舞う技に磨きのかかった舞もね」
実津瀬は左手を上げて、芹の左頬を指の背で撫ぜた。自分を見上げて微笑む夫に、芹も笑顔を向けた。
実津瀬は左手を下ろし、芹の腿に置いた。上を向いた手の平の上に芹は左手を載せると、実津瀬はその手をぎゅっと握って、目を瞑った。
芹は目を瞑った夫の寝顔を見ながら思い出していた。
結婚して、この邸に来て、新しい年を迎えた。梅の咲く頃、宮廷で催される宴で、初めて実津瀬の舞を見た時のこと。
この邸は芹が想像できる範囲を超えている。
芹は夫となった岩城実津瀬と一緒に住むために、岩城実言邸にやって来て、初めて迎えた朝に改めて思ったのだった。
夜は実津瀬と同じ衾の中で愛を交わし合って眠り、夜明けに起きると、宮廷へと行く実津瀬の支度を手伝い、見送った。その後に、実家から連れてきた侍女の編(あみ)と編を手助けしてくれるこの邸の侍女槻(つき)の二人が来て、用意してくれた朝餉をいただいた。
お粥以外にも、小皿に載ったおかずが別の膳で用意されていて、来たばかりだからこのような豪華な朝餉を用意してもらったのだろう、と思ったがそれが毎日続くので、これがこの邸の普通なのだと知った。
母屋にいる義父母に会いに行く時も、長い廊下を進み母屋に渡る廊下を進みと、母屋の部屋にたどり着くまでに時間がかかる。帰る時も同じだ。途中どの部屋の御簾も几帳も、美しく古ぼけたものを見ることはない。どこまでも美しく整えられた邸である。そして、母屋と離れの間にある庭の広さにも驚いた。大きな樹々から低木まで季節ごとに咲くことも考えて植えられていることを、一年を通して知ることになった。邸の外から小川を引き込み、母屋の客人を招く部屋の前に池が作られている。その池には舟が浮かべてあって舟遊びができた。
何もかも芹の実家とはやることが桁違いである。
戸惑う芹に実津瀬は寄り添ってくれた。そして、そんな実津瀬の周りにいる人たちも同じように優しく手助けをしてくれた。
義母の礼は、実津瀬から聞いていたから驚きを顔に出すことはなかったが、つぶれている左目を隠すために眼帯をしている。片方の目だけでは不自由があると思うが自然と夫、子供たち、周りの使用人たちと助け合いがなされている。
この邸の人々はよく働く。
芹は慣れるまでは与えられた離れにじっと座っていたが、入れ替わり立ち代わり人がやって来た。義父母の実言と礼、義妹になった蓮とその夫の景之亮、実津瀬の小さな妹弟たち。その人たちと話をしていると、自分も立ち上がって何かしなくてはいけない気になる。
一緒に庭に下りて歩く。庭の一画に作られた薬草園に行って、薬草摘みをする。
野盗に襲われた時に幼い弟の命と共に失った左手の四本の指がないことで、芹はできるかな……と戸惑っていると、すぐに礼、蓮、周りの侍女たちが助けてくれる。
小さな妹弟たちと一緒に庭の樹になった実を取る時に、籠を持って実を取るのが難しかった。すると、宗清がすぐに「手伝ってあげる」と籠を受け取った。榧は芹が持った実を一緒に掴んで枝からもぎ取ってくれた。
「芹姉さま、笑った」
宗清が実を取るために木に登ろうとして、わざと落ちてとおどけたことをして、周りの者たちの笑いを誘った。芹も思わず、にっこりとした。
それを隣にいた榧がみていて、呟くように言った。
芹は榧の方を向いた。自分はつまらなそうな顔をしていただろうか。
「芹姉さまが楽しそうで嬉しいの」
「うん。楽しい。宗清は面白い子ね」
「あの子はお調子者なだけ」
毎日の一つ一つの出来事が、新鮮で楽しくて、芹の傷ついた心を救ってくれていることを実感するのだった。
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