【小話】独りの実津瀬　〈第ニ部STAY（STAY GOLD）〉

　妻と息子を別れて、供を連れて都に帰る。
　別れ際は……。
　母に抱かれて遠ざかる父を見る息子は、その距離が離れるにつれて表情を曇らせた。
「淳奈、お父さまとはしばらくさよならね。たくさんねんねしたら、また会いに来てくださるわ」
「とうしゃま……」
　淳奈は悲しそうな声を出して、実津瀬に向かって手を伸ばした。
　実津瀬は妻と息子に向かって手を上げた。芹も手を上げて夫とのしばらくの別れを惜しむ気持ちを表した。泣くまいとフーフー言っている息子の左手を持って、夫に向かって手を振らせた。母によって動かされた手ではあるが、実津瀬は息子に向かってもう一度手を上げた。
　その直後に大きな泣き声がして、母の胸に顔を埋める淳奈が見えた。
　しばらくの別れでも悲しんでくれる存在がいることは嬉しいものだ。　
　芹は気にせずに行ってと言っているようで、淳奈の体をゆっくりと揺すって、その興奮を静めようとしながら、実津瀬に向けて笑顔を見せた。
　母や妹の蓮たちと一緒に、妻と息子はしばらく都を離れて、束蕗原に滞在する。実津瀬も付き添いで来たが、さすがに二月も滞在はできず、今日、都に帰るのだった。
　芹も寂しそうな顔を見せていたが、最後はにっこりと笑って夫を見送った。
　妻とは結婚以来、二月も離れ離れになるのは初めてのことで、昨夜は一緒に温泉に入り、褥に上がってからは抱き合ってよくよく話をした。
「時間のある時はこちらに来られるように調整しよう」
「忙しいあなたが、さらに忙しくなってしまうわ。無理はしないで」
「無理なんかじゃないさ。私が来たいから来られるようにするのだ」
「……うれしい。私も淳奈もきっとあなたにすぐに会いたくなるわ」
「これほど離れ離れになるのは初めてだ。私も寂しい」
　実津瀬が芹に囁くと、芹は実津瀬の体に回していた手に力を込めた。
「あなたはここでゆっくりと過ごすんだ。温泉は体が温まって、気持ちがよかったね。ここにいる間何度も入ったらいい」
　去の館から少し離れた川のほとりに温泉が湧き出ている。束蕗原の者ならば誰でも入れるが、去が管理している建物があり、そこから村の者たちと会うことなくゆっくりと入れるように岩を積んで作った場所がある。
　昨日の昼間、淳奈が寝た隙に後は子守に任せて、実津瀬と芹は二人でそこに行ったのだ。
　湯浴み用の薄い肌着をつけたまま湯に浸かった芹だが、途中で実津瀬がその肌着を脱がせた。
　芹は痩せた体を見られるのを嫌がったが、実津瀬はありのままの芹でいいのだと言い聞かせて無理を押し通した。
　確かに、芹の体は痩せ細っていて板を抱いているようだ。
しかし、それは芹の苦悩を表しているようだった。それまでも苦しい思いをしてきた芹だから、実津瀬はこれ以上苦しんで欲しくないという気持ちで、結婚と同時に五条の邸に一緒に住み、自分ができることは何でもしようと思っていたのだが、逆により不安や悩みを増やしてしまったかもしれない。
　申し訳なさで、実津瀬は芹の体を抱き締めた。
「……」
　芹は実津瀬に抱かれるまま実津瀬の肩に頭を置いた。二人無言で湯に浸かって体を温めて、去の館の離れに帰って行った。
　夜は、芹の体を求めたい気持ちはあったが、芹はまだ実津瀬の気持ちに応えることができない。実津瀬が唇を求めて、強く吸った後に芹は実津瀬の肩に頭を載せてじっとしている。これ以上の行為には進めないという意志を表しているように思えて、実津瀬は再び痩せ細った芹の体を抱き締めたのだった。
　同じ褥に寝て、お互いの体を抱き締めることはしてもそれ以上の愛の行為に移ることを芹は怖がっているように思えた。
　無理をしてはいけない。温泉の湯に浸かって裸で抱き合ったことが今の芹の気持ちの限界なのだろう。実津瀬の欲望に応えたいと思う気持ちと命を失った恐れを感じている体の間で、芹は悩んでいるように感じた。
　実津瀬は芹の裸身をその腕の中に抱けるだけで満足で、それ以上のことを要求することはなかった。
芹は実津瀬の体に腕を回して抱きついた。実津瀬の気持ちに応えたいという気持ちの現れであった。
「芹……」
　実津瀬は健気な芹の気持ちに感じ入って、名前を呼んで顔を上げさせ、その唇を吸って気持ちを収めた。
　芹はいつかこの苦しみの穴の出口を見つけるだろうと信じるのだった。
　都に帰って来てからの実津瀬の生活は、特に変わることはない。夜明けとともに目覚め、まだ下っ端の役人としての仕事をこなし、仕事が終わると宮廷内にある稽古場に行って適当に話をして帰る。気が向けば少し舞の型をなぞる程度だ。それも、毎日のことではなく、ニ三日に一度の頻度である。
　稽古場に行かない日は五条の邸に帰って、一人積み上げた書物を読む日を過ごした。
　芹のいない、そして淳奈のいない日々。あの賑やかな声がないのは寂しい気持ちになったが、まだ子供に毛が生えたような若かりしときの自分を思い出して勉強に勤しんだ。
　芹と淳奈と別れて、十日が経った。実津瀬は職場である中務省の館を出て、一人五条の邸とは反対の方向に足を向けた。
　その足は都の北にある山の中へと入って行き、緩やかに上がる山道を進む。
　この山に上がる理由を知るのは、妹の蓮だけだ。
　もしかしたら、岩城の間者が護衛のために黙ってついて来ているかもしれないが、理由まではわからないはずだ。
　実津瀬は山を登り切り、開けた丘に出た。そこから眼下に広がる、都の街並み、宮廷の後ろ側から見下ろした。
　そして、振り返って目印の石の前まで来て両膝をついて座った。
　ここには初恋の人の指が埋まっている。
　実津瀬が埋めた。
　芹には言わない唯一の秘密だ。
　時折、ここを訪れて、己の身代わりに死なせてしまった初恋の人を想う。
　いつもは芹、そして淳奈が心のおおよそを占めているが、二人と離れた時に、そっと心の底にいるあの人に会いに行く。
　私のこと、長く忘れていたわね。
　そんなこと、言うわけないが、実津瀬はそんなふうに言われているように思うことがある。
　忘れるわけないさ。
　実津瀬は心の中で独り言のように言う。
　一番、二番と順序が着けられるものだろうか……。
　あなたも芹も愛している。
　芹とは芹と、あなたとはあなたと、それぞれに私の真実の心を見せたい。
　しばらく、心の中で対話をして、実津瀬は立ち上がった。
　雪、また来るよ。
　そう挨拶をして、実津瀬は丘を背にし、山を下りて行った。