貴族の子供はその家柄の生まれだけで、子供のころから宮廷に上がって、官僚の仕事の雑用をさせてもらう。それによって登用試験に推薦を受け、優遇されるのだ。
だいたい、早いものだと十二歳くらいから、宮廷に上がって雑用の仕事を始める。朝は辰刻(八時)の頃に宮廷に上がり、指示された雑用をする。
実言と瀬矢の出会いは、実言が十四になった年にまさにこの見習いとして宮廷に上がった時に始まる。初日に上がったのが治部省で、そこの世話係が瀬矢だった。初日で、緊張している実言に親しく話しかけてくれる瀬矢に、気持ちもほぐされその日をなんとか無難にこなしたことを覚えている。
人手がほしいという部署に回されるため、毎日同じ部署に行くわけではない。次の日は違う部署へ行ったので、瀬矢との交わりは何日か置きに顔を会わせるという感じであった。
岩城家は当代随一の権勢を誇る家柄であり、そこの三男であっても誰もが下にも置かぬ扱いをする中、瀬矢だけはそのようなことがなかった。一日目に瀬矢と出会った後だけに、二日目以降のひどく気を使われた扱いに驚いたものだった。
宮廷に見習いとして上がって、半年がたった。治部省に行っても世話係が瀬矢ではない時もあり、瀬矢に次に会うのに一月ほど間が空いた時があった。
次に会ったときに、瀬矢は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「巡り合わせが悪くて、実言と会う機会がなかなかなかった。久しぶりだな」
瀬矢は、そう言って今日の仕事について、説明をした。その日の仕事を終えると、瀬矢が近づいてきて、実言を誘った。
「実言、少しお前と話がしたいのだが、いいかな?」
実言に断る理由はなく、瀬矢ついて宮廷内の一室に入って行った。官僚たちが自由に集まって話をする部屋で、そのときも他に人がいて何やら話をしていた。
部屋の隅に座ると、瀬矢は話し始めた。
「実は、お前を治部省専任にお願いしたいと思っているのだが、どうだろう。治部省は外国とのやりとりを取り仕切っているところだし、お前が将来どのようなお役目を頂くかわからないが、知っていて無駄になることはないので、私は上に推薦したいと思っているのだが。私の気持ちだけで勝手にやるわけにもいかないと思い、こうしてお前の考えを聞こうと時間をとってもらった次第だよ」
実言にとっては思ってもいない話だった。雑用係は数ある部署を順番に回ってその日ある仕事をするものであるが、一つの部署で使いたいと推薦されることは、それだけその者の仕事振りが目に止まったり、見込まれたりしたということになる。
それが、岩城家の威光に気を使っておべっかを使う者たちではなく、家柄などで人を判断せず付き合っている瀬矢から言われたことが意外だった。
「私をですか?」
断る理由はないので、受けるつもりであったが、なぜ、自分を推薦してくれるのかしりたいと思った。
「そうだよ。理由は、お前はできる男だからさ。……それは、当たり前か。はははは」
と瀬矢は笑った。
真皿尾瀬矢という男は、みんなを楽しくさせる明るい男で、一見お調子者のように見えて、その人柄に身近に接した者は皆その細やかな気遣いや、配慮の深さに惹かれていくのだった。実言も治部省における瀬矢に対する周りの者の態度には気づいていた。上の者には一目置かれており、下のもからは尊敬の眼差しを向けられ、同期たちからは頼りされ互いを助けあっている様子を感じ取っていた。
「実言、お前は一度会った人を忘れないね。顔と名前はもちろんのこと、その人と会話したことや、そばで聞いていたことも覚えている。記憶力が素晴らしい。その場の状況を読み取る力にも長けているから、どの場所にやっても間違いはないはずだ。そういう人物を育てるのは大切でね」
実言は瀬矢の申し出をありがたく受けた。将来、宮廷社会に出た時に有利になる。それに、真皿尾瀬矢という公平な男の目にかなったことが、ただ岩城家の威によって推薦されたわけではないと示されたようで嬉しかった。
それから毎日治部省へ上がり、瀬矢について仕事を覚えた。
より近くで見る瀬矢は冗談の好きな男で、たまに緊張感の欠けるところがあり、不況を買うこともあるが、困ったことが起きると最後には瀬矢にお鉢が回ってきて、各部署との調整や、相手国との交渉を粘り強くやってのけ、事をまとめてしまうので、誰もが瀬矢に一目おいている。
瀬矢も自分の冗談をいう軽い口や態度が少なからず人を不愉快にさせ、自分を快く思わない人がいることはわかっているので、そう言った人物には奢ることなく相手を立ててその自尊心をくすぐりむやみに敵を作ることをしない。
瀬矢という男が面白く、実言は一族以外の男とこれほど身近に接するのは初めてで、興味を惹かれるのだった。
実言が雑用係として宮廷に上がって一年、治部省専属となって四月がたった。
その日の仕事が終わり、宮廷を下がろうとしていた時に、瀬矢から声がかかった。
「私もちょうど下がるところなのだ。どうかな、今から我が家に来ないか?少し話しがしたいのだが?」
「お話?」
「身構えなくても大丈夫。異国から珍しいものが届いてね。仕事の勉強にもなるし、お前に見せたいと思ったのだが。都合が悪いかな?」
「……いいえ。私のような見習いにそのように目をかけていただき、ありがとうございます」
実言は瀬矢と共に徒歩で真皿尾家へと行った。瀬矢の部屋に通されて、従者に持って来させた巻物を見せてもらった。確かに、異国からきたものだが、瀬矢はそれにはあまり熱心ではない。これを見せたいといった本人が心ここに在らずというような顔で庭の方を見ている。
「瀬矢様?」
「ああ。ところで、実言。お前は将来をどのように考えているのかな?」
「将来ですか?……私は兄二人が文官ですので、父親は武官にしたいようです。しかし、今、瀬矢様について自部で見習いを差せていただいていますし……」
「なんとも頼もしい。私が勝手にお前に自部の仕事を教えているが、武官を目指すのもいいかもしれない。岩城家にとっては、文武両面で子息が活躍されることになるのだな。我が真皿尾家も負けていられないな。で、もう一つの将来については、どうかな?」
「もう一つ?」
実言は瀬矢が何を言っているのかわからなかった。申し訳ないが、首を傾げてしまう。
「結婚だよ」
実言の反応が悪いので、瀬矢が先に言ってしまった。
「好きな娘でもいるのか?」
いきなり、軟派な話題を振られて驚いた。
「いえ、そんなことは……」
「そうか。三男といえども、岩城家だからな、婚約相手の話など引く手あまただろうな。お前はなかなかの美男子だから、お前を見た娘は少なからず心を動かされるだろう」
瀬矢は独り言のように言った。
「ところでだ。我が家にも一人きりの姫がいてね。この娘のことを我が家でも色々と考えているところなんだ」
「……はい」
「私が、勝手に考えていることだから、気楽に聞いてもらえばいいのだが。実言に我が妹を受けてもらえるとありがたいと思っているのだ。お前は我が妹の存在も知らないだろうから、ここで姿でも見てもらいたくてね。妹といっても異母兄弟で、名前は礼と言うんだ。礼は昨年実の母親を病気で亡くしてね、とても気を落としていたんだが、だいぶ元気になってね」
「そうですか」
「歳は、十一でね。実言とは三歳差ということになるかな。まあ、お似合いじゃないか。どんな娘かというと……うーん。いやー、顔は中の上というところかな?まあ、うちの親父を見ればわかるが、親父は熊みたいな顔をしているだろう。あれの母親は美しい人だったんだけど、父親の血が濃く出ているような……しかし、まだ子供だからこれから変わる可能性もあるのでね。いや、見目麗しいとは言い難いが、愛嬌のある娘なんだ」
実言は黙って聞いている。確かに、自分の娘を売り込むために近づいてくる大人は今までにもいるが、結局は、父親が決めてしまうことなので、結婚相手について実言は自分のこととは思えなかった。
「もう一つ、これは是非とも知っておいてもらいたいことだが、あの子は須和家の血が入っていてね」
「須和家?」
「そうだ。実言は知らないのか。しかし、岩城家はこういった事を重要にお考えになると聞いているから、その点においても悪い話しではないと思う。どうか、何かの折に結婚の話しが出たら、我が妹は須和の女だという事を心に留めておいておくれ」
実言にとって初めて聞く須和家という家柄の女の話を、瀬矢ははっきりと教えてくれない。教えて欲しいとも言えずに、黙っていると。瀬矢は巻物の話をし始めて、それでその日は終わったのだった。
真皿尾家から帰った実言は、すぐに須和家の女について調べようと思った。こんな事を聞けるのはこの家に古くから仕えている執事の雅之に聞くのが一番だった。家に帰るなり、雅之はどこだと探し回ってやっと屋敷の奥で岩城家に来た贈り物の整理をしている姿を見つけた。
「須和家の女について教えて」
二人きりになれる部屋に入って、実言は雅之に尋ねた。
「須和?……どうしてそんなことを聞くのです?」
雅之がいうには次の通りだった。
「それは、もう迷信みたいなものと言われていますが、須和家の女には不思議な力が備わっていて、その女をもらった家は栄えると言われているのですよ。昔むかしに須和家の女は巫女のような霊力を持っていて、予言をしたりしていたと言われています。今はそんな力はないとの事ですが、密かにその力は受け継がれているというのです。しかし、須和家の娘の誰もが受け継げるというものではないのです。だから、その力があるのかどうか誰もはっきりとわからず、迷信として片付ける人もいます。しかし、ある家が急に昇進して、栄えたりして、よく調べてみると須和家の娘を妻にしているというような事があって、迷信といいつつも、信じるものもいるみたいですよ」
雅之は素っ気のない話のように言った。
「我が家では、そのような迷信めいた話を気にしているのか」
「迷信と言っているのは、下のものたちですよ。どの家柄でも、全てを含めて家を盛り立てようとしているのです。どのようなものでも、家のためになるなら、受け入れたいと旦那様は考えておいででしょうね」
取るに足らない事のように言いながら、その実は裏ではどの家もこの須和の娘の事を気にしているということなのだ。迷信めいた話ではあるが、家を栄えさせるというのであればないよりあった方が良いに決まっている。
瀬矢から須和家のことを聞いてからしばらくして、実言は瀬矢と一緒になることができた。
「先日お伺いした話、私なりに調べてみました」
「……須和家のこと。実言は興味を持ってくれたか。そうか。ふふふ」
と瀬矢は含み笑いをした。
「今日、我が家に寄らないか。異国の巻物がまた届いてね。一緒に見よう」
瀬矢は仕事を早々に片づけて、実言を真皿尾家に連れてきた。奥からは確かに巻物が出てきて、そこに描かれている異国の風俗を見たりしていたが、不意に瀬矢が庭を見せたいと言いだした。
何かを考えてのことと思ったので、実言もその後ろに従い庭に出た。
「我が家の一人娘の母親は須和家の娘だったのだが、体の弱い人だったので、結婚は無理と言われていたのを我が父が口説いてね。娶り、礼が生まれたのだ。須和家の血を引く娘といったら、他に常盤家の朔がいる。朔の母親と礼の母親は姉妹でね。須和家の不思議な力の血を引くといったらこの二人かもしれないが、私は、我が妹がその血を引いていると思っているよ。ま、これは私の勘だから、どこにも確証はない。実言がわたしを信じるかどうかなんだがね。一度あの子を見てみてくれないか。まあ、今は子供だから色気も素っ気もないのだが……」
そう言われて、実言は瀬矢について、庭の奥へ進む。庭を通って屋敷の奥の離れに向かっていた。開けた庭に出たところで、瀬矢は妹の名前を呼んだ。
瀬矢は実言に木の陰に隠れていろと言って、実言は二人には見えない位置でその姿と会話を聞いていた。
「礼ー。どこだ?」
庭をキョロキョロ見回しながら瀬矢は礼の名前を呼び続けた。しばらくすると、瀬矢の立っている近くの木の枝の間から細い足が一本、にょきっと出てきた。
「何?兄様」
瀬矢はすぐにその足を捕まえて、体ごと引きずり降ろそうとした。
「きゃあ」
礼は瀬矢に足を引っ張られて、その腕の中に落っこちてきた。
「こら!すぐに木の上に登って。はしたないだろう」
兄に叱られて、機嫌が悪くなったのだろう、返事もせずに兄の腕の中でバタバタと手足を動かしている。実言はその様子をじっと幹の陰から右目でみていた。瀬矢は礼の体を背中に担いで、肩にあるお尻を優しく一度叩いて、諭した。
「お前は女の子なのだから、もう少しおしとやかにしないといけない」
しかし、そんなことを言われているそばから、礼は真逆なことを言い始める。
「兄様、また馬に乗りたい。いつ、馬に乗れるのですか?」
「馬?ああ、馬は兄様と一緒の時にしか乗ってはいけないよ。時間を作るからそれまでの我慢だ」
「いつなのかしら。早く乗りたい」
礼は、瀬矢と一緒に馬に乗ったことが楽しくて、早く次の機会をとせがんでいる。瀬矢は頭をかきながら、礼をなだめるのだった。
実言は瀬矢の肩に担がれている時の礼の顔を見た。確かに、瀬矢が言うように見目麗しい娘とは言い難いが、しかし、まだ子供であどけない幼い顔で、大きな目が愛くるしいと思った。
「あれ、兄様、お客様?ごめんなさい」
礼は何かを感じ取ったように、急にそんなことを言って瀬矢の耳元で「下ろして」と囁いた。瀬矢は言われるまま礼を下に下ろして、裳の裾が捲れているのを直してやった。
「わたし、部屋の中に戻ります。ごめんなさい」
礼はそう言って、近くの階を上がって部屋の奥深くに入っていった。
瀬矢は木の陰に潜んでいた実言の所まで戻った。
「あれが、我が妹でね。猿みたいに木に登るのが好きで、困ったものなんだが。わたしにとっては愛しくて仕方ないのだ。母を失ってあんまり落ち込んでいるから、馬に乗せて遠くに走りに行ったりしてね、その味をしめてしまって、馬に乗りたいとせがむのだ。ちょっと、活発すぎるのが気にかかるが、私は悪くないと思っている。うちは、その昔は名家との誉があったが今では落ちぶれ行く一方でね。父は、今の地位を維持するのに精一杯といった所だ。娘の礼を良きところに嫁がせて、縁戚の力で地位を保ちたいと思っているところだよ。この時世では娘を持つ家は、岩城家や椎葉家の息子君に熱視線を送っているところだ。我が家でも同じことで、どちらかといえば、椎葉家の嫡男が今十三で、礼とも釣り合いがいいし、やはり岩城家の三男よりは嫡男がいいということで、妹をどうにか椎葉家に縁付かせたいと思っているのだが、私はお前と知り合い、付き合うにつけ、我が妹をお前に任せられたらいいと思っているのだ。妹にもいい人を見つけてあげると約束したものだからね。だから、その時はどうか、お前も我が妹を心にかけておいて欲しいんだ」
実言は十四で、まだ結婚のことなど考えることはなかった。確かに父や兄たちを見るにつけ、自分が岩城家の中でどのように成長しなくていけないかを考えていたが、女については、時の力関係によって親が決めてくるものと思っていた。そして、女は一人と決めなくてはいけないわけではない。だから結婚相手は自分にとってはそこまで重要には感じられなかった。
ある日、実言は仕事が終わり、宮廷を下がる時に、長い回廊を抜ける途中で瀬矢の背中を見つけた。瀬矢は喫緊の外国に向けて使節を派遣する調整役になっているため、最近は実言の世話をすることはなかった。久しぶりに見る瀬矢と言葉を交わしたくて、実言は不用意に近づいてしまった。瀬矢の背中に隠れて見えなかったが、その陰には女人が一人立っていた。女官姿の若い女だった。
「瀬矢様」
気づいた時には、瀬矢の名を呼んでしまったので、瀬矢が振り向き、女性も顔を上げた。
「ああ、実言」
こともなげに瀬矢は実言に向かった。今度は女人に振り向いて、短く会話を交わすと、女性は微笑んで、瀬矢と実言に軽く会釈をして去って行った。
瀬矢の邪魔をしたと思って実言は恐縮した。
「すみません」
「いいのよ。あれは私の妻だよ」
実言は驚いて、言葉がすぐには出なかった。
「宮廷内の女官として出仕しているのだ。初恋の人だよ」
実言には意外に聞こえた。初恋とは。
「私は、なんでも自分で納得しないと受け入れられないたちでね。女についても同じなんだ。親が決めた女を妻にするのは受け入れ難くて初恋の人を妻にしてしまったのだ。自分が選んだ女人を妻にすることを実言にも薦めるよ。だが、我が妹に懸想してもらうことをこちらは願っているけどね。今はね、私が最近忙しくて、すれ違ってばかりなので寂しいと訴えてきたのだ。かわいいものだよ。今日こそは時間が取れるから、邸で待っているように伝えたのだ」
瀬矢の女に対する考えに、実言はさらに驚いた。確かに好いた女を妻にすることに異論はないが、時世の戦略とすれば、好いた女に肩入れするのは間違っているように思えた。 正妻に愛がなくとも、それはお互い納得づくのことでないのかと思っている。
「きっと、お前も愛する女が正妻であることがいいとわかるさ」
そう笑ってその場を立ち去る瀬矢を忘れられなかった。
貴族の子息の宮廷への雑用係りは一年ほどと決まっており、実言は、一年間の見習い期間を終えて、出仕の試験に備えていた。瀬矢を中心に治部省の推薦状を得て、後は試験を受けるばかりというときに、未曾有の飢饉に見舞われた。時を同じくして、疫病が流行りだし、庶民だけでなく、貴族、官僚たちにもその病は襲いかかった。そして、真皿尾家でも、周辺農民への視察に行っていた長兄の付き人がその病にかかった。高熱を出して倒れるまで、そのものが病気にかかっていることに気づかなかった。付き人に接触したものは次々と同じ症状を発症して倒れた。そして、真皿尾家に仕える使用人だけでおさまらず、その病魔は瀬矢に襲いかかった。瀬矢は高熱を出し、床から起き上がれなくなった。使用人の症状と同じため、瀬矢も疫病と診断された。疫病に罹ったものが皆死ぬ訳ではなかった。若く、体力のある瀬矢は、必ず良くなると思われていた。しかし、瀬矢の症状は益々悪化する。名のある医者に見せて、投薬などいろいろと手を尽くしたが、瀬矢の病状は一向に快方に向かわず、その顔には死相が出だ。
真皿尾家の期待の次男はいつ死んでもおかしくない状態にあった。
突然、兄に会えなくなり、自分を愛してくれた優しい兄が病気であることは、礼にも説明された。礼は、兄に会いたいと駄々をこねたが、疫病の近くに子供を行かせるわけにはいかないため、瀬矢に会うことは許されなかった。礼は兄に会いたいと一晩中泣いて、食事も摂らないため、困り果てた周りのものたちが、瀬矢が寝ている部屋の庭から声を掛けるだけなら、と許した。侍女に伴われて、庭の階段の下まで行った礼は力の限りの声を出して、叫んだ。
「瀬矢兄様ー。礼よ。兄様、早く良くなって!」
瀬矢兄様、瀬矢兄様という悲痛な礼の叫びが邸中に響き、真皿尾家の当主、兄弟や使用人達の涙を誘った。礼の必死の言葉も虚しく、瀬矢はあっけなく命を落とした。まだ二十一の若さであった。真皿尾家は深い悲しみに覆われた。葬儀には、瀬矢の人柄で多くの人が瀬矢との別れを偲んで集まった。実言もその中におり、尊敬していた瀬矢との惜別をかみしめた。葬儀の中で、実言は礼の姿を見た。
小さなその姿は悲しみ深く、立っていられない様子で、侍女の胸に顔を伏せていた。
実言は、十七になり許婚を決めることになった。瀬矢が亡くなって一年、真皿尾家から娘の礼を実言の許婚にと、申し込まれることはなく、実言の相手は常盤家の朔に決まった。
実言は瀬矢とその妹の礼のことは忘れていた。真皿尾も瀬矢がいなくなった今、一人娘の相手を椎葉家の嫡男、荒益と考えているのだ。須和家の娘の血を引くのは、朔も同じで、誰がその須和家の娘の不思議な血を引き継いでいるのかわからないのであれば、その娘は朔かも知れず、岩城家にとっては、朔をもらうことになんの異存もなかった。
実言も親の決めたことを受け入れ、朔との婚約は公に発表された。
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