支度ができたら、礼は牛車に乗って、岩城家へと向かった。
当代随一の権力者である岩城のその権勢を誇った邸の構えに圧倒されて、その門の中へと入っていった。礼は案内された一室で縫と二人で待っていると、岩城の侍女が先触れに現れた。
「実言様の母上様である毬様が今からこちらへ参られます」
礼と縫は静かに互いの視線を合わせた。実言の母上も礼のことを漏れ聞いているだろう。
左目のない娘。息子を庇った女。
実言の母は礼をどう思っているだろう。それも、実言もおらず、礼はうまく話ができるだろうか、と戸惑っているとゆっくりと簀子縁をこちらに向かってくる上品な衣擦れの音が聞こえてきた。妻戸を通って、几帳の陰から女性が現れた。
気後れしている礼は、ハッと我に帰って上座を譲るために立ち上がろうとした。
「そのままで。主役はあなたなのだから」
毬は礼の向かいにゆっくりと座った。礼は正面から実言の母の顔を見た。
にっこりと笑う顔は、実言に似ている。実言はこの方の切れ長の涼しい目元を受け継いでいるのだとわかった。
「突然にごめんなさいね。あなたに渡したいものがあったのよ」
後ろに控える侍女の方を振り向くと、侍女は箱を持って立ち上がり、毬の左横へと差し出した。蓋を取って、その中にあるものを手に取った。
「今日、これをあなたに着けてもらいたいのよ」
取り出されたものは、明るい翠の玉が七つ付いており、玉と玉の間には金の細工が施された飾りが付いている。それを金の鎖でつなげた首飾りだった。同じ取り合わせで、より濃い翠の玉が胸の前に垂れた。それに加えて、濃い碧の小さな玉に大ぶりの金の飾りがついた耳飾りもあった。
「さあ」
毬が首飾りの両端を持って礼の前に掲げる。礼は恐縮したが、重ねて「早く」と言われて、腰を浮かして、上体を前に倒した。毬が連れて来た侍女と縫が礼の後ろに回りに、毬から受け取って礼の首へとつけてやった。同じように耳飾りもつけると、礼は面差しをあげて正面の実言の母を見た。
とても近くで、自分が見られていることの羞恥が頬に立ち上ってきそうだった。美しく化粧をしていても、左顏は眼帯に覆われて、実言の新妻の異形の顔立ちに母親は気味悪く思っているのではないか。
「よく似合っているわよ。その衣装とも合っているわね」
「これは……」
「私には実言しか子供がいなくてね。本当は女の子が欲しかったのだけど。使うこともないから、今日のような日に使って欲しいのよ」
「ありがとうございます。身に余るお品を、お借り致します」
礼は再び恐縮して頭を下げた。
「失礼致します。実言様がこちらにお渡りになります」
別の侍女が入ってきて声をかけた。しかし、礼と対面している人が実言の母だとわかると、深くお辞儀して。
「大変失礼致しました。実言様には、もう少しお待ちいただくよう申し上げてきます」
と言って引き返そうとした。
「いいのよ。私が勝手にここに来たことがわかってしまうわ。あの人よりも先に妻の婚礼の姿を見たと言って怒られそう」
そう言って、毬は立ち上がって去った。
しばらくすると、新たに簀子縁を踏み鳴らす音がした。落ち着いた進み具合、でも、速足で。先ほど毬が入ってきた妻戸に大きな影が立った。ゆっくりと礼を覆う几帳に近寄り、帽子の先が几帳の上からのぞいた。
「やあ、礼」
声とともに実言がにっこりと微笑んで、几帳の陰から現れた。
礼が都に戻り、実家の真皿尾家に入った日に、実言は礼の父親の元を訪れていた。そのついでのように、礼の部屋へ来て、しばしの逢瀬を愛しんだ。それ以来の対面であった。
実言も婚礼用の衣装を着付けて準備万端の姿だった。実言が礼の正面へ座ると、侍女たちの姿は一人二人と消えていく。
「礼……美しいよ」
実言はひとつ礼に近寄って囁いた。
「これは、化粧や飾りのおかげ……」
「そうかい?私はそうは思わないけど。私たちの晴れの日に相応しい出で立ちで」
と言って、礼がきれいに膝の上に重ねている手を取った。そして、礼の胸元に目をやった。
「おや……美しい首飾りだね。見覚えがあるものだけど」
「これは、あの……」
礼は、言葉を詰まらせた。ここに毬が来たことは言ってはいけないことを思い出し、言葉を継ぐのをやめた。
「そうだな。それは、母上のものだね」
「……今日の日に、身につけるように届けてくださったのよ」
礼はとっさに毬の侍女が届けたと嘘を言う。
「その衣装ととても合っているね。礼の美しさを引き立てているよ」
実言はそう言って目を細めると、礼の部屋を出て行った。
実言が去ってしばらく、礼は肘掛にもたれて待っていると、急に場が整ったので部屋に案内すると連絡が来た。
縫や岩城家の侍女たちに付き添われて礼は岩城家の正殿につながる渡殿へと案内された。渡殿を渡ると、小さな部屋がありそこには実言が従者と共に待っていた。
「礼」
実言は礼に気づいて、微笑んだ。実言は礼を連れて几帳の裏から正殿の中を覗き見た。大広間は準備が整い両家の親族客人を迎え入れるだけの状態になっている。
「あそこが私たちの席だよ。親族が座ったら、私たちはここからあの席に着く段取りだ。宴が始まったら、もう私たちのことなどお構いなしだよ。好き勝手に酒を飲んでいるだろうよ。そうしたら抜け出して二人でゆっくりしよう」
広間の後ろに控えた実言と礼は、両家の親族が広間に着席するのを静かに待った。
実言は白い単の上に紺や藍で唐華丸文様に織られた上着を重ねている。衿には紅と金の糸を使って豪華な細かい刺繍が施されており、腰に巻いた帯も鈍い青色で、腰に太刀を履き、冠を被った正装であった。
ざわざわと小声で会話をしながら、両家は指定された席についているところだった。少し待たされていると、実言が礼へ向いて、いつものように耳に囁くのだった。
「先ほどは、少し時間が空いたので一瞬でもお前を見たいと思って出向いたのだ。思った通りに美しかった。宴あとで、もっとその姿を見せておくれね」
礼の部屋にやってきても、言葉少なに部屋を出て行った実言のことを思い出した。
礼は実言と同じように、白の単にその上から紅色の上着を着て、衿には紺と金の刺繍が施され、実言の衣装と対をなすように作られていた。緋色と紺で身頃と衿を縫分けられたものが、紅色を引き立てている。帯は実言と同じ鈍い青色だが、浅葱や紺の色を使いながら明るい色に仕上げ、緋色や金の刺繍が映えるように作られた豪華なものを締める。首から実言の母から預かった金細工に翡翠を付けた首飾りをかけ、耳には碧の濃い翡翠の耳飾りが光る。これが婚礼の衣装を一層引き立てた。左目にはいつもの墨色の眼帯ではなく、紅色の布をあてがい、緋色の細い帯に紺、金、紫などいろいろな色の刺繍を施し、礼の左顔を彩った。
いつもは左目を隠すために、おろしている髪も今日は左右のこめかみから上に髪を高く上げて、頭の上で留めた。留めるための飾りも金細工に赤い石をはめ込んだものを差して黒く艶やかな礼の髪とともに一層映えた。
礼の顔はお白いで整えられ、右目には目の周りを黒く縁取り目頭から目尻にかけての瞼に緋色を乗せて、鮮やかな目元を作り、唇には紅色を乗せて、今までにない華やかな礼の表情を作っていた。
陽が天の真上に登った時、準備の整った広間に、実言と礼は連なって出て行き、用意された一段高いその席に二人が座ると、婚礼の宴は始まった。
岩城家の口上から始まり、それを受けての真皿尾家の口上が終わると、静かに始まった宴はいつしか喧騒に変わっていった。酒の入った男たちは我を忘れたように騒ぎ、両家入り乱れての宴会へと変わっていった。礼は実言よりも早く、その席を退出した。
岩城家の母屋は現当主である実言の父親の園栄(そのえ)たちの居住区である。三人の妻と成人していない子供達が住んでいる。長男と次男はすでに位階を得て、すぐ隣に別に屋敷を構えている。三男の実言は位階を得ているもののまだ低く、敷地内の一番遠いところに、自分の部屋をもらった。
礼は案内されるままに渡り廊下を何本も歩いて、実言と自分が住まう離れにたどり着いた。酒の匂いに当てられて少し酔ったようになり、離れに着くと、肘掛にもたれて休んだ。
少し落ちつたら、目の前に広がる庭を見た。ここは正門から一番離れたところにあり、目の前の庭は裏庭になるのだが、広大な庭には木や花が季節によって楽しめるように種類を厳選し配置して植えてあった。礼は興味を引かれて階段を降り、庭に出て木の周りをめぐり、花を見ながら庭を散策した。少し奥に行くと、小さな畑が見えた。礼の心は踊った。束蕗原でしていたように、何か医療に役立つものを植え育てたいと実言に言おうと思った。そして、よく見ると薬になるような草花がすでに植わっており、束蕗原でしていたことがそのままできそうだった。
都を離れて二年以上、ここでの生活がどのようなものになるか想像もつかず、不安に感じていたけど、この庭が 都を離れて二年以上、ここでの生活がどのようなものになるか想像もつかず、不安に感じていたけど、この庭があればなんとかやっていけるような気がしてきた。
「礼ー。礼!」
離れで実言の声がした。礼は急いで庭の真ん中を突っ切り階の元に戻ると、心配そうに実言が部屋の中に向かって声をかけようとしているところだった。
「実言、私はここにいるわ」
礼は実言の背中に声を掛けた。実言は振り向いて。
「礼。お前は肝心な時にいつも部屋にいないね。私はいつもお前を探しているよ」
ごめんなさい、と礼は謝った。実言は階段に下まで降りてきて、礼の手を取って部屋にあげた。
「お前はもう庭を見てしまったんだね。あとで私が驚かせようと思っていたのに」
礼が申し訳なさそうに、下を向くと実言は笑って。
「いいんだよ。どうだい?気に入ったかい」
と明るい声で礼に訊いた。
「とても!束蕗原と同じようにしてもいいの?」
礼は顔を輝かせて言った。
「いいよ。お前から束蕗原を奪ってしまったら、どんなことになるかと思って、あんなものを用意してみた。お前が気に入ってくれたら嬉しいよ」
「とても、気に入ったわ。ありがとう」
礼は満面の笑みで、実言に感謝した。
「礼。こっちにおいで」
実言に導かれて、礼は部屋の中に入っていった。
「こんな邸の奥の小さな離れで、侍女は縫と岩城家の者一人だけ。贅沢な暮らしとはならないけれど、ここでお前と暮らしていけたら私は幸せだ」
確かに小さな離れに少ない実言の側近や侍女たちだけど、なんの不服もなかった。礼は、俯いた顔を上げて実言を見上げた。瞼から目尻に乗せた緋色の化粧が映えた黒く縁取られた切れ上がった目元、その目の玉の真ん中で黒く潤んだ右の瞳が実言を捉えた。
「私もそれで幸せ」
礼の目の美しさに身震いして実言はたまらず、礼の頬に手を伸ばし引き寄せると、強引に礼の唇に自分のそれを重ねて吸ってゆっくりと離した。礼の唇に塗った紅が実言の唇に移ってしまい、礼は慌てて自分の指先で拭おうと手を出したが、実言は面白がってそうはさせず、礼の手を制して、もう一度礼の顔を捕まえて元の場所に戻すように唇を重ねるのだった。
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