三月に入っても、まだまだ寒い日が続いた。その日も束蕗原には霜が降りて、土を踏むとザクザクと音がした。早朝の寒さも陽が登ると次第に和らいだ。
礼は束蕗原の畑の脇に自生している蓬生を摘んでいた。他にも去の弟子たちが畑に出て作業をしていた。空は晴れて気持ちのいい日だった。
近くで馬の嘶きが聞こえた。畑で作業をしている者何人かは曲げていた腰を伸ばすために体を起こして、馬の蹄の聞こえる方へと視線をやった。
礼も同じように、視線を畑の外周を通る道へと上げた。はじめ、麻奈見の訪れかと思った。しかし、いつもなら邸の前の馬留めに止めるはずだけど、畑の方に来ているのは、何かあったのだろうか。
礼は嘶きの聞こえた方に目を凝らした。そこには確かに一人の男が、木の枝に馬を繋ごうとしているところだった。しかし、その人は、麻奈見ではないように見える。
誰だろうか……。麻奈見よりも体が大きくて、武官の服装をしている。
男は、馬をつなぎ終えて、顔を上げた。その視線はまっすぐに、礼に向けられた。
二年前の面影が、かろうじてその男だと教えてくれたが、まるで知らない男のようにも思えた。
「礼」
でも、その声は紛れもなく、聞き覚えのあるものだった。少し離れた距離だが、しっかりと礼の耳に届いた。
……実言……。
礼は、十四の、あの異国の行列を見物していた時の通りの向こう側から飛んでくる矢のことを思い出していた。なぜ、あの時、矢のことがわかったのだろうか。脳裏に浮かぶことが、現実になる。起こることが脳裏に浮かぶのだろうか。台風の水害の時も村が流される様子が頭に浮かんだ。そして、今も、脳裏に浮かんでいることは今から起こることなのだろう。そうであるならば、わかっていながら、何もしないなんてことはできない。
礼は、摘んだ蓬生を入れていたざるを手から離した。ざるは足元に落ちて、蓬生が散らばった。
礼は実言に向かって走り出した。実言は、馬から離れて、一歩一歩と礼に向かって歩み出した。
どうか、間に合って欲しい。
礼は、裳の裾が足に絡んで邪魔だと思いながら、早く実言のところまで行かなくてはと思っていた。自分が許婚だとか、そういうことは関係なく、今この男を守れるのは自分しかいないのだ。
実言!それ以上前に出てはだめだ。向こうの林から、実言の姿が見えてしまう。せっかく木に隠れて相手は手が出せないでいるのに。もう、それ以上歩いたら、標的になってしまう。
実言!間に合って!
礼は突き飛ばされたように実言に体を預けてその胸に飛び込んだ。
「礼!」
実言は自分の広げた腕の中に収まった礼と、左側から礼に襲いかかる一筋の影を見た。その影が何かわかった時には、叫ばずにはいられなかった。
「礼ーーーっ!」
その叫びは、木に止まっていた山鳩を驚かせて空へ羽ばたかせた。
最初に放たれた一矢は実言のすぐそばに落ちた。そして二矢が礼を射た。それからも次々放たれた矢が襲いかかって、木につき刺さったり、そのまま地に落ちたりして、馬は驚いて嘶き暴れた。そして、林の向こうからの攻撃はやんだ。
実言はその体を受けとめて衝撃で後ろに倒れてもすぐに起き上がり、腕の中の礼を揺すった。
「礼、お前は!」
実言の腕の中で、礼は小さく呻いた。矢が自分の体を射たのはわかったが、どこに当たったのかまではわからない。実言に抱きとめられて、そのまま倒れてしまった。すぐそばで実言の声がする。自分の名を何度も呼んでいる。
そんなふうに呼ばないで。また、あなたは私に同情して、私を思う振りをしなくちゃいけない。私を傷つけたと思って、私に優しくしなくちゃいけない。
束蕗原。ここでの生活は楽しくて、この生活をもっと続けたかった。でも、実言にこれ以上、負い目を負わしてまで、生きたくはない。
実言、これで、おしまいにして……。
実言は礼を抱きしめて他に攻撃がないか警戒した。幸いに、畑で作業していた女たちがこの異変に気付いて、すぐに礼と実言の元に駆け寄ってきた。
次に矢が放たれる様子はない。
実言は、女たちにこの状況をすぐに去に伝えること、近くに落ちている矢を慎重に拾って持っていくことを指示した。矢の先に毒が塗ってある可能性があり、そうであれば礼の体が毒に侵されてしまう。右肩に突き刺さった矢をそのままに礼を抱きかかえて、去の邸に向かった。去が邸の前に出て待っており、一緒に部屋に運び込んだ。
「実言殿。あとは、こちらで」
去にぴしゃりと言われて、実言は一歩下がった。目の前の御簾が下げられ、簀子縁に立ってしばらく中の様子を伺った。
矢の襲撃は実言を狙ったことは明らかで、実言はすぐに、従者に都まで馬を走らせてこのことを岩城家に伝えるとともに、矢が発射された場所も捜索させたが、大した手がかりもないまま日は過ぎた。
九鬼谷の戦いにはてこずったが、最期には大王軍が勝利した。それには実言をはじめとする岩城の武人たちの活躍があった。大王に勝利の報告を行うのに、その武功は伝えられて、大王の岩城への信頼はますます増した。
それを快く思わないものは少なからずいる。だから、こんなふうに思いもよらぬところで矢を射てくる勢力もいるのだ。しかし、確実に実言を殺すわけでもなく、このような脅しのようなことをしてくるのは、小さな勢力の仕業のように思った。
いずれにせよ、岩城の権力を削ごうとした者がいるということが分かった。
実言は、礼が矢に射られたその日は、夜通し部屋に詰めて礼の容態を窺った。隣の部屋では、礼の肩から矢が取り除かれて、処置が続いていた。時折礼のうめき声が聞こえて来る。実言の瞼には、五年前のことが思い出された。自分の身代わりに矢を受けて左目を失った娘は、今日も自分の身代わりに肩に矢を受けた。偶然ではなく、この女はわかっているのだろう。だから、今日も一直線に走ってきた。必死に走って、実言に矢が当たる前に自分が間に入ることを考えて飛び込んで来た。実言の腕の中に。
二年の歳月の隔たりを乗り越えて、寂しくて恋しくてと、礼と感動的な再会をすることを期待していた。しかし、予想に反して礼をこんな目に遭わせるとはどうしたものか。このような目に遭わせたいなんて思っていないのに。また、礼を傷つけてしまった。
「実言殿」
明け方、実言は去に呼ばれた。
「礼の側についていてあげて。うわ言がひどくて。心配よ」
去たちの見立てでは、矢の傷では命を奪われることはないだろうとのことだった。矢の先には毒らしきものが塗ってあったが、少量であり、死に至らしめることはない。しかし、その後の傷の状態と礼の体力によっては命の危険があると言われた。
礼の寝ているそばで、実言は礼の手を握った。礼は熱も高く、その息は荒く苦しそうだった。苦しそうな吐息の合間に何か言葉を言っている。実言は正午までいたが、礼は苦しそうに唸っていて、意識がはっきりすることはなかった。
実言は一旦都に帰らなければならず、従者が早くと急かした。名残惜しそうに実言は立ち上がり、去に礼に何かあればすぐに使いをよこして欲しいと言って都に帰っていった。
礼は、熱に侵されながら、できることなら母や兄の瀬矢のいるところに行きたいと願った。もっともっとこの熱に苦しめば、すぐにでもその願いは受け入れられると思った。でも、去から教わった医術の知識で人を助けることには未練があった。
朦朧とした意識の中で、口に入れられるものを吐き出すと、去は悲鳴のような声を上げて礼を叱った。
去様、もう、いいの。おしまいにしたい。
礼は、また意識をなくしていくのだった。
それから数日後、礼ははっきりとした意識を取り戻した。目が覚めて、うっすらと目を開けたら一番に見えたのは、男の顔だった。心配そうに見下ろすその顔が見えた。
「礼」
名前を呼ばれて、手を力一杯握られた。
実言?実言がいる。ここは、まだ生きている人の世界?
礼は実言と目があって、礼はそのまま目をつむった。
「礼。私のところに返ってきておくれ」
実言の囁きが、まだ現の世にいることを教えてくれた。実言は私たちの葛藤が続いても平気なのだろうか?体と心は同じにはならない。心は母と瀬矢兄様のところに行きたいのに、体はまだこの世に未練があるのか。
礼は、逃げた。意識をなくして、一人深い闇に落ちていった。
それから、礼の熱は下がり、礼は生きた。体は日に日に回復していった。意識がはっきりしている時間が多くなり、口に運ばれるものを吸って、生きながらえることになった。
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