New Romantics 第一部あなた 第三章35

小説 あなた

 実津瀬は自分の方に顔を向けている芹の寝顔を見つめた。
 昨夜、芹は実津瀬がその体に加える愛撫に、最初は体を強張らせた。それは体を触られることに慣れていないだけで、頭を枕に置いて話をし、お互いどこか体に触れて、撫ぜてをしていると芹の緊張も解けた。
 芹を自分の体に跨がせて、一つになった時には芹によそよそしさは消えて、実津瀬を思う気持ちが溢れていた。実津瀬は恥ずかしそうに下を向こうとする芹の頤に人差し指を入れて持ち上げて、言った。
「あなたがこうして、私の妻になってくれて、嬉しい」
 実津瀬が言うと、芹は吐息の間に。
「わたしも……こんな喜びはないわ。誰かの妻になるなんて、望めないと……思っていたこと……だもの」
 と言ったのだった。
 実津瀬は芹が目覚めないように、ゆっくりと体を起こして脱いだ上着を引き寄せた。
 もうすぐ夜が明ける。
 物音をさせないように隣の庇の間に出て、御簾を上げた。蔀戸の上がった窓から遠くに見える山の稜線が白く浮き出して見える。
 腰を下ろして、夜が明けるのを待った。
 こうして女人と一緒に過ごして夜明けを迎えるのは初めてだ。
 実津瀬はそんなことを思い、錠を差して閉じ込めていた心の中の扉を開けた。
 ……雪……。
 その時、物音がして後ろを振り向くと芹が几帳の後ろに座って、こちらを見ていた。
「起こしてしまったね」
 芹は首を横に振り、ゆっくりと立ち上がって実津瀬に向かって歩き出した。
 実津瀬は芹に向かって左手を差し出した。芹は右手を伸ばして、その手につかまり、倒れ込むように実津瀬の隣に座った。
 上着を羽織っただけの芹は、夜気の冷たさに少し震えている。
「こっちにおいで。寒いだろう」
 実津瀬は胡坐をかいた足の中に座らせた。実津瀬の胸の中に納まった芹は言った。
「……何を見ているの」
「……何も……夜が明けるのを見ていただけだ」 
 実津瀬は自分が羽織っている上着を芹の体の前から掛けて、きつく抱いた。
「……山が白く光っている……。こんな朝を見たことないわ」
 芹も遠くに見える山の稜線が光っているのを見て、言った。
 しばらく二人は空が明るくなるのを眺めていたが、実津瀬が腕の中の芹に向いて話し始めた。
「私たちの結婚を考えた時、あなたは左指がないことを理由にうまくいかないと言ったけど。私の母は左目を怪我で失っている。無いんだ。だから、眼帯をして左顔を隠している。あなたが左袖を長くしているとの同じかな……。私の邸に限ったことかもしれないけれど、怪我人が多くてね。自分一人でできないことは、邸の者たちが助けてくれる。だから、あなたの指がない不自由も皆が助けてくれる。だから、この邸を出て私と一緒に暮らそう」
 芹は実津瀬が言う一言一言の意味を考えた。左指がないことでできることは限られ、誰かの手を借りることは多い。そんな自分の様子に、いつか実津瀬の気持ちが醒めていくのではないかと不安に思うことがある。でも今は最後に聞いた、この邸を出て一緒に暮らそうという言葉に、喜びが湧き上がった。
「私……」
「嫌かい?」
「嫌じゃないわ……でも……」
「房殿と別れるのは寂しいかもしれないが、いつでも会いに行ける。房殿がうちを訪ねて来てもいい。鷹野もうちによく来るからね」
 鷹野は近々、夜にこの邸を訪れるはずだ。房とは手紙の交換だけでは我慢ができなくて、先日、この邸を訪ねたのだ。房をお見合いした男から奪うことになるため、芹と房の父親と対面して、断りを入れるべきと考えたためだ。父親が嫌というはずはない。娘二人が一気に岩城一族の男に縁づくなんて、と周りからは妬まれている。
「不安だけど……でも……」
 不安と言っただけに、芹の表情は固くぎこちない。
「心配はいらない、私が傍にいるから、ね」
 実津瀬の言葉に、芹は微笑んだ。
「楽しみよ……この邸から出てあなたと一緒の生活」
 実津瀬も返事をするように微笑みを返した。
 秋の寒さの中に、明けていく朝の様子を二人は心に刻むように見つめた。

 蓮は夜明けとともに起きて、ひと働きして部屋へと戻って来た。これから、朝餉の準備をするという時に、部屋の前の庭を通る実津瀬の姿が見えた。
「実津瀬!」
 蓮は間髪入れずにその名を呼んだ。
 その後ろ姿は、とてもうれしそうに躍動しているように見えたからだ。
「蓮!なんだい?」
「どうしたの?何かあった」
「どうして?」
「なんだかうれしそうだから」
「うん!いいことがあった」
「何⁉何があったの?」
 そう訊ねる蓮に、実津瀬は黙って少し考えてから。
「今朝、妻にこの邸に来る承諾をもらったんだよ」
「えっ」 
 蓮は実津瀬の言葉の意味を読み取った。
「実津瀬!」
 実津瀬と芹に何があったのかを悟った蓮は言葉を忘れた。
 実津瀬も右手を上げて、蓮の言いたいことに答えて部屋に戻ったのだった。

 須原の邸から、付き添いの従者と侍女をそれぞれ一人連れて芹は夫の実津瀬と一緒に暮らす岩城実言邸に到着した。
 そう、芹は実津瀬と一緒に暮らすためにここに来たのだ。
 二人で夜明けを迎えた翌日、実津瀬は芹の父に岩城実言の手紙を持って会いに来た。
 実津瀬は朝帰りをした日、父の実言に妻となった芹をこの邸に迎え入れたいことを伝えた。実言は反対する理由もなく、すぐに小さな子達が生活している離れの部屋を新婚夫婦に与えるべく、指示を出した。そして、芹の父親宛に手紙を書いてくれたのだった。
 それが実津瀬自身で持って来た手紙である。
 手紙を広げて目を落とした芹の父は、にっこりと笑っている。
 拒否する理由はない。上の娘は五条の岩城分家へと嫁し、下の娘は岩城本家の子息と結婚し、その男は毎日のようにこの邸に通ってくれる。なんの不足もないのである。
 それから、実津瀬はすぐに話を進めて、冬の始まりには結婚の儀を執り行う準備が整った。 
 五条の岩城邸に出発する娘を父は嬉しそうに見送った。明日の結婚の儀に出席するので、挨拶はあっさりとしたものだった。
 妹の房とは昨夜遅くまで話をした。
 房は岩城鷹野と結婚する。姉妹の夫たちは従兄弟同士と近い関係で、一族の行事があればいつでも会えるとわかっているが、二人は自然と涙が出て、別れを惜しんだ。
 岩城邸の表門に立つ見張り番は、門の前に現れた三人が誰かをすぐに察したようで、芹たちはすぐに邸の中へと案内された。
 美しく整えられた庭の中を歩いて行くのに、建物の屋根は見えてもその部屋は庭の樹々に覆われて見えず、三人はなんと広い庭、お邸だろうと頭をあっちこっちに振って眺め、驚いた。
 屋根が近づいて来て、庭を抜けると階の前に出た。目の前に現れた大きな建物に、再び三人は驚いた。
 三人が階の上の部屋の広さに見入っていると、突然後ろから声が聞こえた。
「あなたが芹という人?」
 芹は声の方に振り向いた。
 そこには美しい衣装を纏った小柄な女人が立っていた。
「はい」
「やっと会えたわ。私は実津瀬の妹の蓮というの」
 芹の前に歩いて来た蓮と名乗る女人のにっこりと目を細めた笑顔は、実津瀬が見せる顔とよく似ている。
「あなたが……」
「実津瀬はまだ宮廷から帰っていないのよ。ごめんなさい」
 蓮は笑顔から一転、兄がいないことを詫びるのに笑顔を引っ込めた。
「あなたが来るから早く帰ると言っていたけど、まだみたいないの」
 芹は気にしないという気持ちで頷いた。
「せっかくあなたがここに来てくれたというのに、反対に私はあと二日でこの邸を出て行くの」
 芹は目の前の女人のことを実津瀬からよく聞いていた。
 母のお腹の中にいる時から、いつも一緒で自分の体の半分みたいに思っている。でも、私たちと数日違いで妹も結婚の儀を執り行い、夫となる人の邸に行くのだ。寂しいけど、それはお互い様だろうと。
「でも、母の手伝いをしにここに通うつもりなの。これから仲良くしてね」
「私のほうこそ、よろしくお願いします」
「実津瀬が何かひどいこと言ったりしたら、私に言いつけて!とっちめてやるわ」
「まぁ、それは……ありがたいです。……けど、実津瀬様はそんなこと言わないと……思いますわ」
「そうね!私もそう思うわ。私の兄は優しいもの」
 そして二人は笑った。
 侍女の曜が現れて、芹について来た二人を使用人の部屋と案内した。
「お部屋に上がりましょうか。昨日荷物は届いているようよ」
 そう言って蓮が沓を脱いで階を上がろうとした時だった。
「芹!」
 と呼ぶ実津瀬の声が聞こえた。
 女人二人は声の方を振り返ると、そこには実津瀬とそして景之亮も立っていた。
「景之亮様!」
 その姿を見て、蓮は声を上げた。
「景之亮殿と宮廷で会ってね、一緒に帰って来たんだよ」
 実津瀬は言って、芹に手を差し出した。
 芹は実津瀬の姿にほっとして、笑顔になりその手を取りに近づいた。
 蓮は沓を履き直すのも忘れて、景之亮のところへと走り寄った。
 蓮と芹はお互いの伴侶となった男の元に辿り着き、その手を握った。
 

                                第一部完

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