景之亮を見送った蓮は、褥の上で目を瞑っているといつの間にか眠ってしまった。
目が覚めたのは、女人の控えめな声が聞こえたからだ。
「失礼します。もし……お目覚めでございますか?」
蓮は眼を開けた。几帳の後ろに人影が見えて、飛び起きた。
「はい……起きました」
「そちらに行ってもよろしいですか?」
蓮はその言葉で、自分が下着だけだと気づいた。
「待って。少し、待ってちょうだい」
蓮は脇に置いてある上着を引き寄せて袖に手を通した。
帯も結ばないと……
蓮は昨夜、景之亮の手がこの帯の解いた時のことを思い出した。
昨夜の景之亮様はきっと、泉のほとりの時のように私が躊躇してもあの手を止めることはなかったはずね……でも、私もそんなことしないわ……ああ、景之亮様の体は温かくて気持ちよかった。
「……お待たせしたわ。どうぞ」
蓮は崩れた着方になっているとわかっているが、待たせることに気が引けて急いで帯を結び終えたところでそう言った。
そうすると年老いた女人がひょっこりと顔を出した。
「失礼致します」
体を小さくして、几帳の前に座った。
「……お加減はいかがですか?良く、おやすみになられましたか」
蓮は首を縦に振った。
よく眠った。頭はすっきりしている。景之亮を見送ってからどれくらい寝ていたのだろうか。もう、外は明るい。
「そうですか……。旦那様からは、岩城のお邸までお送りするように仰せつかっているのですが……」
女人は景之亮から言われたことを説明する。
蓮は女人を見つめた。景之亮の話の中で、侍女の丸という邸を取り仕切る女人が出てくる。
この人がその丸という人かしら。
その時、運悪く。
ぐー
と蓮の腹の虫が鳴いた。
あっ、と帯の上を急いで押さえたが、そんなことで治まるものではない。
「……お帰りになる前に朝餉を用意していいでしょうか?お供の方には召し上がっていただきましたし」
「……あら、鹿丸に……ご迷惑をかけてしまって……」
「いいえ。粗末な朝餉ですが、準備してまいりますね」
侍女の丸は、もう一人侍女と一緒にすぐに戻って来た。
「どうぞ」
膳の上には粥の入った椀と、塩の利いた青菜が載った皿があるだけだ。
粗末と言ったが、本当にそうだった。
しかし、蓮はお腹が空いていたからか、おいしくて一気に椀の中を空にした。
「おかわりはいかがです?」
そう言われたが、蓮は首を横に振った。
「これ以上お世話をかけられないわ。帰ります」
侍女たちが部屋から出て行くと、蓮はもう一度襟を直して帯を結び直した。
しばらくすると庭に鹿丸と付き添いの従者が現れた。階の下には昨夜蓮が脱ぎ捨てた沓が揃えて置いてあった。それを履くと、蓮は世話をしてくれた侍女にお礼を言った。
「いろいろとありがとう」
蓮は侍女に見送られて、鹿丸と従者の後ろについて景之亮の邸を後にした。
無言で実言邸まで帰り、邸の裏門に着くと蓮はお礼を言って従者と別れた。裏庭まで鹿丸と一緒に進んで、そこで、蓮は鹿丸に言った。
「鹿丸、昨夜のことは誰にも言わないでね。お願いよ」
鹿丸は、顔を近づけてお願いされるのを黙って頷くしかできなかった。
蓮は自分の部屋の前の階を上がり、庇の間に入ろうとしたところ。
「蓮」
と呼ばれて、振り返った。声で誰だかわかる。
「……実津瀬……何をしているの」
「歩く練習さ。もう、痛みを感じない。明日から宮廷の仕事に行こうと思ってね」
庭に立っている実津瀬は歩けるようになって本当に嬉しそうに笑っている。
蓮は昨夜、邸を抜け出したことがばれていないか心配で振り向くのも怖々だったが、実津瀬は実津瀬で自分のことに精一杯のようだ。
蓮は自分の部屋へと入り、昨夜一人寝るはずだった褥の上に寝転がった。
体の内側の鈍い痛みはそう簡単には消えないのだと、蓮は思った。
晴れて景之亮の妻になったという嬉しい気持ちで、何もないのに笑い顔になってしまう。
蓮は一度衣服を脱いで、汚れた下着を取り換えた。
その時を見計らったように、侍女の曜が部屋に入って来た。
「蓮様!どちらに行っていらっしゃったのですか?私は命が縮む思いでしたわ!」
と小さな声だが、責め立てるような鋭い口調で言った。
「朝、起きて来られないから、どうしたのかしら、と礼様がこの部屋に行かれようとするのを、私は冷や汗をかきながら、止めたのですよ。昨夜、夜更かしをされたので、まだ寝ていらっしゃると言って!」
夜明けとともに、この部屋に来た曜は蓮がいないことに驚いた。思い立ったら邸の外に出て行くなどわけもないこの娘は、どこに姿をくらましたのだろうと、心配していたのだ。
「ごめんなさい、曜。景之亮様のところに行っていたの」
「そうですか、景之亮様のところに……景之亮様⁉……景之亮様のところとは」
曜は景之亮の名を聞いて、すぐに誰とは想像できなかった。実津瀬と思って聞き飛ばしてしまいそうなところ、自らの口で景之亮の名を言って、驚いたのだった。
「どうやって?」
「鹿丸に連れて行ってもらったのよ」
「鹿丸に⁉」
曜は、その場にへたり込んで、蓮の顔を見た。
蓮は恥ずかしそうだが、嬉しそうな横顔を見せて、お腹の前で帯を結んでいる。
「蓮様……景之亮様と……」
曜が言うと蓮は目を反らして、背中を向けた。
「そうなのですね!」
蓮の様子で曜は察した。
昨夜、蓮は景之亮と契ったのだ。
蓮は恥ずかしそうに一度だけ頭を立てに小さく振った。
「まあ、それは……それは……よかったですわ……」
曜は涙ぐんだようなかすれた声で言った。それを聞いた蓮は体ごと振り返った。泣いている曜は恥ずかしそうに照れ笑いをする。蓮は自分が悩んでいたことを傍で世話をしてくれている曜も同じように心配して悩んでくれていたのだと知った。
「曜……」
蓮は膝の上の曜の手を取り、強く握った。
蓮は部屋で写本をしていると、庇の間に人影が差して顔を上げた。
母の礼とその後ろに立つ侍女の曜が入って来た。
「お母さま……」
「景之亮様がお見えよ。お父さまがあなたと一緒に話を聞きたいのですって」
蓮は筆を置いてすぐに立ち上がった。
景之亮は夜明け前に蓮に言った約束を守るために、宮廷を下がってすぐに父実言に会いに来たのだ。
母の後ろをついて父の部屋に入って行くと、几帳の内側で父と対面している景之亮の姿が見えた。
礼と蓮がそれぞれの男の隣に座ったところで、実言が口を開いた。
「蓮、景之亮がね、神妙な顔をしてお願いがあるというから、蓮のことだろうと思って、来てもらったんだよ。一緒に聞こう」
景之亮は少し驚いた表情をしたが、居住まいを正してかしこまり、口を開いた。
「はい。しきたりに習って蓮殿と結婚の儀をとり行い、我が邸に迎えたく思っております。そのお許しをいただきたくて、参りました」
そこで、低頭したままの景之亮に実言が言った。
「景之亮、顔を上げてよ。私は二人を引き合わせた者だよ。二人が結婚するのは賛成だよ。蓮はどう?でも……結婚しても、景之亮がうちに通ってくれたらいいと思うのだけどね」
実言が言うと、蓮は一呼吸置いて口を開いた。
「景之亮様と結婚します。でも……景之亮様のところに行きたいです。お父さまやお母さま……兄妹と離れるのは、最初は寂しいけど……でも、小さくても古びたお邸でも気にならないわ、景之亮様の傍にいたい」
蓮の言葉に、実言は頷いた。
「そう、わかった。……でも、景之亮はどういう風の吹き回しなの?古びた邸に蓮を迎えるのは心苦しいから、もう少し時間が欲しいとか言っていたのに。まあ、私はお前がこの邸に通ってくれればいいことだと思っていたのだがね」
「はい……そう申しましたが……その、やはり蓮殿に傍にいてほしいと思いまして……」
「ふうん。……蓮、景之亮の邸は小さいとか古びたとか言っていたね。景之亮の邸を見たわけでもないだろうに」
実言に突っ込まれて、蓮は慌てて言った。
「ええ!もちろんです。私は景之亮様のお邸のことをよく聞いていたものだから、見たように想像できるのよ」
蓮はそう言って、景之亮を盗み見た。景之亮も蓮を見ている。
夜明け前まで一緒にいた二人は、勘の良い両親にそのことを知られないように、ほころびが出ないようにと苦心している姿を思いやった。
「蓮がそういう気持ちなら、早い方がいいね。準備にかかろう。景之亮、よろしく頼むよ」
「はい」
返事をして顔を上げた景之亮は満面の笑みを見せる蓮に、自身も笑顔を見せた。
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