New Romantics 第一部あなた 第一章7

小説 あなた

 実津瀬の生活は朝早くに宮廷に出仕して、見習いとしての雑事をこなし、そこから宮廷近くに開かれた私塾で講義を受ける。異国から来た最新の書物についての知識を得られると人気である。その講義が終わると、実津瀬は再び宮廷に帰って、もし見習いの仕事が残っていればそれを片付けた。その後は、そのまま宮廷楽団の稽古場に行って、師匠や仲間と話しをし、舞や笛を練習して邸に帰るという日常である。
 梅が香る季節に差し掛かったその日も、塾の講義を終えて、宮廷に戻って来た時だ。朝、命じられた仕事は全て終わらせたが、もし追加でするべきことがあればと思って、実津瀬は見習として通っている中務省の館を覗いた。何もないことを確認すると、すぐに館を後にして楽団の稽古場に向かった。
 途中、梅の庭に差しかかった。
 こっちに来て嗅いでご覧と誘っているようなその庭を突っ切って稽古場に行こうと石畳の道を外れた。
 甘い香りが充満していて、実津瀬は酔いそうな気持ちになった。早く抜けてしまおうと思う一方、この季節だけ嗅げる甘い匂いを体中に行きわたらせたいとも思った。
 実津瀬はやはりこの場で梅の香を心行くまで味わおうと決めて、ゆっくりと歩いた。
 その時、目の前を紅梅と同じ鮮やかな紅の上着に白い裳、黄色の帯を締めた梅の化身と見まごうような女人が横切って行った。実津瀬はそれがすぐに誰だかわかった。
「雪!」
 無意識のうちにその名を大きな声で呼んでいた。
 女人は立ち止まり、自分の名が呼ばれた方へと振り向いた。その人の顔を見ると、女人はたちまちに笑顔になってゆっくりと歩いてきた。
「ああ、目の前をあなたが通り過ぎていくのが見えたから、つい名前を呼んでしまいました」
「まあ、嬉しいですわ。年を越す前にお会いして以来ですわね。空から白いものが降り始めたとても寒い日でした。あの時、あなた様は体から湯気を出しておられたわ。ひたむきに舞を練習された後でした。……あの新年の祝いの舞を私は遠くからですが、こっそりと見ておりましたわ」
 実津瀬はその言葉を聞いて、じんわりと喜びが滲むのを感じた。
 ああ、見ていてくれたのだ、とわかって嬉しかった。
「今から舞の稽古ですか?」
 実津瀬は頷いた。
「新年の舞は舞う二人が同じ型を一つの乱れもなく合わせるのがまず私たちの心を躍らされますわね。本当にお二人は背格好も同じくらいで、動きはぴったりと合っていましたもの。一緒に盗み見ていた他の女官たちもどこを取ってもそろっていると息を飲んで、それは皆で見惚れていたのですよ」
「そんなによく見ていただいていたのですか。それは、とても嬉しいです」
「ええ、末席の柱の陰から皆下から順に重なって顔を出して。はしたない姿ですわね。……でも、二人で同じ舞を舞っても、まったく同じものには見えません。顔の判別が難しいほど遠くから見ていても、私はあなた様の舞はわかります。動きはぴたりと同じでも、あなた様の気持ちが指先や足先、顔の向きに出ているのですわ」
 そう言って、雪は脇に下ろしていた右手を不意に頭の上まで振り上げた。それと同時に右足も上げて、実津瀬が舞った舞の始まりを真似しようとしたのであった。
 しかし、その急な動きに雪は自分の体を支えきれずに、上半身が前に倒れた。そのまま転げてしまうかと思った時に、実津瀬はとっさに両手を差し出して、雪の体全体を抱き留めた。
 雪は転ぶと思って閉じた目を、静かに開けて自分がどうなったのかを伺った。顔を上げたら、そこにはじっと自分を見つめている男の目があった。
 ああ、転んでいない、と安堵したと同時に、男の目を離すまいと念じて見つめ返した。
「……私は、本当にあなた様の舞が好きなのですわ。手の返しや間の取り方、相手との対し方、どれもあなた様の色が出ていて二人が同じ舞を舞っても違って見えます」
 実津瀬は雪の瞳に見つめられて舞を褒める言葉を聞いていると、そろりと雪との距離が近づいてしまう。
 何を言っているの?そんなに私を褒めて、どういうことだろう。
 実津瀬は何かの暗示にかかったように雪の顔に近づいて行って、はっと我に返った時には、もう目の前で触れるほど近くに雪の顔があった。
「あなた様の美しい舞が好き……」
 息がかかるほどの近さで雪がそう呟いて、唇が触れそうなほど近いと気づいた実津瀬は体を引こうとしたが、それよりも早くに雪は実津瀬の袖を掴み、後ろに体を引かせないように引っ張って、つま先立ちになると実津瀬の顔に自分の顔を近づけた。
 そして、それは実津瀬にとっては不覚にも、奪われたというものだった。
 雪の唇が勢いよく実津瀬のそれにぶつかり短い間触れあった。
 実津瀬は驚いて今度こそ体を起こした。
 実津瀬とは反対に雪はそれまでの表情を変えることなく、じっと実津瀬の目を見つめていて、再びさっき実津瀬の唇に触れたその口を開いて新たな言葉を発した。
「いいえ、私は……あなた様が好きなのですわ、舞も好きですけども、それ以上にあなた様のことが……」
 全てを聞き終わるまで待てなかった。
 実津瀬は、抱き留めている雪の体を引き寄せると、今度は自分からその自分の心を不安にも喜びにもしてしまう言葉を放つ雪の唇を塞いだ。
 雪は実津瀬の行動に驚いたようで、一瞬体が固まったようにじっとしていたが、すぐに実津瀬の襟を掴んで、その接吻を受けた。
 実津瀬は強く吸うと、雪は少しばかり唇を開いて実津瀬を呼んだ。深く、深く吸って息を継ぐために一時離れても、引き寄せられるように再び唇は合わさった。
 我に返った実津瀬は、雪の体を締め上げるように引き寄せていることに気づき、腕の力を緩めた。雪も実津瀬につかまるために持った襟を離して、つま先だった足を地につけ下を向いた。
「……私……行かなくては」
「ええ……私も練習に行かなくては」
 二人は、自分たちが今までしていたことに触れることなく、本来目指していた方向へと別れて行った。
 実津瀬は稽古場の扉を押して入って行ったが、舞を舞う気にもなれず楽団の演奏者と一緒に笛を吹いた。その間も、先ほどの雪と自分の出来事を思い返してばかりで、集中できなかった。
「実津瀬!」
 師匠である麻奈見が音の外れる実津瀬を叱責した。実津瀬は自分の集中力のなさがわかっているから、静かにその場を離れた。
 なんてことをしてしたのだろう。
 自分の舞を褒めてくれたからと言って、雪にあんなことを軽々しくしていいわけはない。
 実津瀬は頭を抱えそうになりながら、邸へと帰って行った。
 自分の部屋へ入ると、兄が帰って来たことを嗅ぎつけた蓮が庇の間に入って来た。
「お帰りなさい、実津瀬」
「うん、帰ったよ」
 実津瀬は部屋の真ん中にある円座に座ると、蓮も一緒に座った。
「あれ、実津瀬、襟がくしゃくしゃね」
 何気ない気付きを口にした蓮の言葉に実津瀬は飛び上がりそうになった。
 接吻の最中、雪が強く握りしめていたことを思い出した。
「……うん」
 実津瀬はあいまいに返事をして、襟のしわを掌で伸ばした。
 そんなことはお構いなしに、蓮は自分の話したいことを話し始めた。
「予定通り明日から、私たち束蕗原に行くわ」
 ここでいう私たちとは、母の礼と実津瀬以外の弟妹たちと本家から預かっている少女珊の五人のことである。
「ああ、そうか」
「あそこは温泉があるから、毎日温かいお湯につかるのが楽しみ」
「そうだね。去様のところで薬草の勉強をするのだろう。例年だと、伊緒理も来ているのではないかい?」
 そう問いかけると、蓮は無意識に嬉しそうな顔をして頷いた。
「多分そう。伊緒理と薬草作りをして、いろいろな話をするのが楽しみよ。その代わり、実津瀬は明日から一人きり。まあ、お父様がいるけど、お父様と一緒に食事してもそんなに楽しくはないわよ」
 と言った。
「そうかもしれないね。では、今夜は一緒に食べてくれるの?」
 と問うと。
「もちろんよ。榧、宗清、珊も呼んであげるわ」
 蓮は言うと立ち上がって部屋を出て行った。
 実津瀬は、蓮にどこか様子のおかしい自分を見抜かれないうちに部屋を出て行ってくれてよかったと安堵した。
 夕餉の準備ができたら、蓮が下の弟妹たちを連れて実津瀬の部屋にやってきた。夕餉を食べた後は、お決まりで兄に笛を吹けと下の者たちは言う。稽古場では全く吹けなかったが、弟妹たちといる時はいつものように吹けた。宗清が変な踊りを踊って皆が笑い転げるのがいつもの風景である。
 弟妹とは明日から離れ離れになり、実津瀬とはひと月、長ければ二月も会わないので、少しばかり別れを惜しむ気持ちになる。
 榧、宗清、珊はまだ小さくて、二か月も会わなければ、少し背が伸びるなどして様子が変わっているだろうな、と実津瀬は思った。
「もう夜も遅いですからね、皆さま、もうお部屋に戻りましょう」
 蓮の侍女である曜が膳を下げながら、下の子供たちを部屋に帰るよう促した。
 宗清は不服そうに頬を膨らませているが、明日は朝早くから束蕗原に出発することがわかっているから、仕方なく自分の部屋へと戻っていた。
 最後に蓮が立ち上がった。実津瀬は一緒に立って庇の間を歩いた。
「私がいないと寂しいでしょ?でも、実津瀬は実津瀬で忙しいでしょうから、ひと月二月なんてあっという間かもしれないわね」
 双子だから、母のお腹の中にいるときからずっと一緒だったが、十五や十六になればお互いの役割や性別の違いで一緒にいる時間も少なくなった。それでも、母のお腹の中に入る時から様々なことを二人で乗り越えてきて、お互いのことを良くわかっている。
「寂しいな……宗清や榧、珊の笑い声が聞こえないと、この邸は静かだよ」
「そうね、お父様は絶対寂しくなって、暇を見つけて束蕗原に来ると思うわ。お母さまに会いたくなると思うから」
 岩城一族を政の中心に置き続けるために叔父の蔦高を支えて、高い役職についている父の実言は、一族のためであれば非情な人間になるが反面、妻の礼には甘い。すぐに妻に会いたいと言うし、邸の中では礼の膝を枕に寝転んでいて、何かと話し相手をさせている。だからひと月二月も妻がいないのは耐えられないだろうと子供たちで話しているのだ。
「そうだなぁ」
 実津瀬は相槌を打って、簀子縁に出た。蓮も一つ遅れて簀子縁に出た時、少しの段差に躓いて前のめりになった。
「きゃあ」
 小さな声を上げるのを実津瀬はとっさに両手を出して受け止めた。
「ああ、驚いた。ありがとう、実津瀬」
 実津瀬の腕の中で顔を上げた蓮を見て、実津瀬は心中穏やかにはいられなかった。
 妹を抱くのと他の女人を抱くのでは訳が違う。蓮は小さな時から心細い時や嬉しくて気持ちが抑えられない時にぎゅっと抱きついて来た。体の大きさに違いがでても、妹は昔と変わらず腕を組んだり、抱きついてくることがある。他の女人のそれとはまったく違う感覚だ。当たり前のことだが、昼間の再現のようなこの場面に実津瀬は、自分がどうしてあのような大胆なことができたのだろうか、と思った。最初に唇を重ねてきたのは雪なのだから、嫌がってはいないだろうけど、でも、その後のようなことを望んでいたかはわからない。
「……実津瀬?どうしたの?そんなに寂しい?」
 実津瀬は我に返って、蓮から手を離した。
「うん、寂しいね」
「嘘ばっかり。一人でのびのびできると思っているでしょう!では、おやすみなさい」
 蓮は笑いながら自分の部屋へと帰っていた。
 実津瀬はその背中をしばらく見つめてから夜空へと目を転じた。半月が薄い雲に隠れているのが見えた。

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