「え、実津瀬、一緒に来ないの?」
岩城本家の末っ子である、鷹野が訊き返した。
「私はこれから、笛と踊りの稽古があるから、鷹野はお帰り」
「残念だな、今日はうちに面白い書物が届くから見ようと言っていたのに」
「そうなの?」
「今、異国の使節団が来ているだろう。大王に献上した物の他に、臣下にも賜ったものが届くらしい。おじい様やお父様が見た後、私たちにも見せていただけるとのことだったのに」
「明日行ったら、ダメかな」
「実津瀬が来るというなら、お父様に見せてもらうように頼んでおくよ」
鷹野のお父様というのは、実津瀬の父である実言の一番上の兄、蔦高のことである。
「ごめんよ。お願いだよ」
実津瀬はそう言って、笛や踊りの稽古をする館に向かう岐路で鷹野に手を振った。鷹野も手を振って家路に向かった。
実津瀬は幼い時から踊りや笛が好きだった。父の友人に宮廷楽団の跡取りがいて、その人物が笛、踊りの名手だったため、実津瀬は特別に弟子にしてもらった。
実津瀬は今では、機会があれば宴や大王の前でも踊るほどの若手の舞手である。
一人で宮廷の外れにある稽古場の建物に向かう石畳の道を歩いていると、後ろから声が掛かった。
「あら、これは、有名な舞手さんではないですか?」
自分のことを言われているとは思わず、そのまま行こうとしたら。
「まあ、若手といっても大王の前で舞われるほどの実力者とあれば、こんな下っ端からのかけ声など聞こえていても聞こえないふりをなさるのね」
となじる声が続いた。
実津瀬は足を止めて後ろを振り向いた。
自分が通ってきた石畳の上に一人の女人が立っていた。すれ違っていないから、庭からこの石畳に向かって歩いてきて、実津瀬を見つけて近寄ってきたと思われた。
「失礼。私に声を掛けてくださったとは思わなかったものですから。私のような若輩者の舞を覚えていただいているとは光栄です。まだ、一人前には程遠いものです」
「そうですの?舞の技術の優劣はわかりませんけど、好き嫌いでいうと、私は、あなた様の舞が好きですわ」
そう言って、女人は口元を袖で隠して、ふふっと柔らかい笑い声を上げた。
そこで、実津瀬は突然自分に話しかけてきた女人をよくみた。
最初に抱いた印象は冬の雪原に立っているのかと思うほどの肌の白い女だということだ。着ている衣装は濃い青を基調に差し色で朱の裳と緑の領巾をつけている。
じっと自分を見ている実津瀬の視線に気づいて、覆っていた口元の手を下ろして、真正面から自分を見せるように女は立った。
射干玉の黒髪という表現が合う、美しい髪を左右の耳の上のから引き上げて頭の上で一つにしていて、後ろ髪はそのまま肩から背中に下ろしていて、華美ではないが質の良い髪留めの櫛を二つ刺していた。細面の顔は左右の髪を上にあげているからか、少し目尻が上がって、きつい顔にも見えるが、頬から顎にかけてすっきりと削ぎ落ちた顔は美しく見えた。
そして、少しばかり自分より年上の女人だ、と実津瀬は思った。
「そうですか」
自分の舞を好きだと言うのは、身内以外では初めてのことで、実津瀬はそう言ったあと。
「そう言っていただけて、嬉しいです。もっと、精進します」
と答えた。
「まあ、私のようなものごときに、そのように畏まった話し方をしてはいけませんわ。でも、機会があるごとにあなた様の舞を拝見させていただきますわ。今の言葉に嘘がないことを確かめさせていただきます」
女人は腰を折って会釈し、振り返って実津瀬に背中を見せて遠ざかって行った。実津瀬はしばらく真っすぐ続く石畳を向こうに歩いていく女人の背中を見つめた。女人はこちらを振りかえることはなく、むしろ実津瀬に自分の背中をじっと見せているように思えた。
実津瀬は振り切るように自分が行くべき道へ向いた。稽古場はすぐそこだ。
開きの扉は閉じられていたが、蔀は上げられていて、そこからもう集まっている者たちが舞の型をそれぞれ練習している姿見えた。
実津瀬は急いで、扉を引いて館の中に入った。すると、自分の師匠である音原麻奈見が振り向いた。
「遅くなりました」
「いや、まだ全員集まったわけではないんだ。各々が勝手に始めているだけでね」
実津瀬は麻奈見の前に立った。
「父が、内輪での宴でもしようと言っていまして。先生にもお客様としてお越しいただきたいと言っています。近々正式な案内があると思います」
「そうかい。楽しみだね。また、君が舞うのだろう」
「はい。もう、何かあれば私に舞え、笛を吹けと、何でも言ってくるのですから。私は宴といっても食事も風景も楽しむことは難しくて、私にとってはそれほど嬉しいものではないのですけど」
「君には舞や笛の才があるのだよ。それに、努力をするから同じ年のころの者と比べたらずば抜けている。そのうち、都一の舞手と言われてもおかしくない。父上はそんな息子が自慢なのだよ。特別な方々に若い時の息子の舞を見てもらいたいと思っているのさ」
そう言って目を細めた。
実津瀬は照れた様子とそんな父親に困っているという風な表情を見せた。
その後実津瀬は、皆と一緒に舞の練習をした。
「え!宴ですか?」
母である礼の素っ頓狂な声がこちらの部屋にも聞こえてくる。
蓮は伊緒理が読むための薬の本を写している最中だった。また、父の実言が宴をすると言い出したのだと察した。
今年、宮廷での新年の祝いの催しに、兄の実津瀬が同年の男子たちと舞を披露したところ、実津瀬の舞が見事だと噂が立った。それに気を良くした父親は四季の折々に我が邸で身内だけの宴を開いて息子を舞わせた。親戚から舞ってくれと依頼が来ると、実津瀬の都合など構わず受けていた。
実津瀬が抗議すると、父、実言は。
「いいじゃない。若い身で、何が問題だというの。時間など余るほどあるだろうに。求められる時が花よ、咲き時よ。しっかりと励みなさい」
と言って、違う方を向いて幼い妹や弟の遊び相手になり、母の礼に構ってくれとちょっかいを出している。
しかし、蓮は父が息子の芸能の才を認め褒めていて、皆に見てもらいたいと思っているのがわかる。そんな才のある兄をうらやましく思い、自分は何もないように思うこともあるが、蓮は心の中に自分を支える言葉を唱えた。
私の勉強をとても助けてくれているんだよ、君の筆跡は。
こうも言ってくれていたっけ。
写本の文字は流れるように美しくて、そしてこれが一番だけどとても読みやすい。読んでいてすぐに書かれている内容が頭の中に入ってくる、と。
蓮は紙に向かって筆を置いた。子供の頃から筆を持ち、文字を書くのが好きだった。 でも、心に灯る喜びは美しい文字と言って伊緒理に褒めてもらって、助けになっていると言ってもらった言葉だ。
皆が兄の才に注目し、兄を褒めそやしても、みじめな思いにはならない。それは、伊緒理が褒めてくれるからだ。世の中がどれほど自分のことを無視しても、伊緒理だけは自分を見てくれていると分かっていれば、どんなことでも気にならない。
実際には無視されることはないのだが。だって、うちの親兄弟姉妹はうっとうしいほどに放っておいてはくれない。
今も。
「蓮姉さま!」
と庭から呼ぶ声がした。
この元気な声は、弟の宗清である。
蓮は筆を置いて、簀子縁に出た。階の下に、宗清と妹の榧が立っていた。
二人とも欲しくて欲しくて仕方なかった妹弟である。
妹の榧とは五つ違い、弟の宗清とは七つ違いである。
「どうしたの?」
「宗清が樹の皮で指に怪我をしました」
榧が自分の身に着けていた領巾を取って宗清の指に巻いていた。
「まあ、痛いの?」
呑気な宗清は平気な顔をしているが、榧の領巾を通して血が見えた。
蓮は二人を部屋にあげて、宗清の指の状態を見た。指を切ったようで血が出ている。部屋の隅に置いてある盥を持って来て水の中に宗清の指を入れて、洗った。その時ばかりは呑気な宗清も大きな声を出して痛がった。
それにびっくりした榧は立ち上がって簀子縁を走り出した。母を呼びに行ったのだろう。
状況を聞けば、母は適切な薬を持ってここに来てくれるから、ちょうどよい。
「姉さま、痛いよ~」
と宗清はべそをかいた。
「あなたが平気な顔をしているから、痛くないのかと思った」
血をきれいに落として、白布で水気を拭いて指を見た。樹の皮で傷つけたと言ったけど、樹の皮の破片が指の皮の中に入り込んでいる様子はない。じっくり見ている蓮に弟はべそをかきながら手を引っ込めることができない。
「どうしたの?宗清、泣いて」
静かに歩いてきた母と榧が庇の間に入って来た。
礼は蓮の隣に座って、娘が見ている指を見た。
「血が出ただけね。塗り薬を塗っておきましょう」
そう言って、持って来た箱からガラスの器に入った粘り気のあるものを宗清の指の傷に塗った。その後、蓮が小さく切った白布を指に巻き付けた。
宗清のまわりに母と二人の姉が額を合わせるようにしてその小さな指の傷を診て、手当している。
「ごめんなさい」
榧が小さな声で謝った。
「榧が謝ることないのよ。次には怪我しないように遊びなさいね」
蓮が諭すように言うのを、母親はにこにこと笑顔で見ている。
「宗清の指が飛んでいないでよかった。うちは傷を持った人が多いから、宗清がその仲間入りしなくてよかった」
とおどけたようなことを礼は言った。
そういう母の礼は左目が無くて、常に眼帯をしている。父の実言も、肩や足には大きな傷跡を持っている。だから、そんなことを言ったのだった。
四人がひざを突き合わせて笑っているところに、父の実言が簀子縁から庇の間に入って来た。
「なんだい?みんなで楽しそうに輪になって。私はのけ者かい?」
と恨めしそうに言って、妻の後ろに座った。
蓮は皆の顔を見回した。
稀有なことに、両親は他に愛人や恋人など作らず二人でいる。同じ親から生まれた兄弟姉妹が四人。父が他の女人のところに作った子供はいない……はずである。今までに名乗り出てきたものはいないから。
そして、家族は皆が皆を思いやり、好き合っている。とても仲が良くて……居心地のいい家。
蓮は思うのだった。
私もこんな家族を作りたい。愛する人と夫婦になって、他に愛人なんかいらないと言って、二人の間にたくさんの子供を作って、お互いを思いやって楽しく暮らすのだ。
その相手は……蓮の中ではもう決まっている。
幼いころからの思い人、椎葉伊緒理である。
伊緒理のことが好きで好きでたまらないのだった。
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