宮廷での行事や宴が立て込んで、下働きの者を入れたためにいつも使っている宿舎の空き部屋を探し当てるのに少し苦労した。
やっと見つけた部屋で、誰にも聞かれないように、とひそめてもそれは静かな熱とともに漏れる。
実津瀬は雪に足を開かせて自分の腰の上に跨がせ、抱き合った。ちょうど顔の高さが同じになり額と額が合わせる。雪が自分の裸の胸に置いた左手の上に実津瀬は手を重ねて上から握った。雪の反対の手は実津瀬の背中を抱き、実津瀬の反対の手は雪の腰へ置いて、自分の方へと引き寄せた。
切れ切れに発せられる喘ぎ声とため息。
それから実津瀬は脱ぎ捨てた衣服の上に背中をつけて、下から雪の裸身を見つめた。雪の胸から腹に垂れている解けた髪がゆっくりと揺れている。雪が伸ばした手を迎えて、手のひらを合わせて指を交互に絡めて握った。静かに果てた後には、雪の手を引いて実津瀬は寝たまま雪を自分の腕の中に抱いた。
二人で横になって抱き合ったまましばらく過ごした後、実津瀬は起き上がった。下敷きにしていた肌着を着けていると、雪もゆっくりと体を起こした。その緩慢な動きが、雪の体をひどく自分の好きに扱っていたと思えて、実津瀬は心配した。
「大丈夫です。あなた様に別れを告げられてから今日偶然出会うまでの間の、あなた様の気持ちを教えてくださったのでしょう。その跡が私の体にはすぐには消せないほどについています」
手繰り寄せた裳を膝の上に掛けたが、上半身は裸のままで雪の首から胸に向かって実津瀬の唇が吸った跡がついている。
実津瀬は自分の会わなかった間に積もった底を知らない欲情を全て吐き出した成れの果てを見せつけられているようで、雪の強気な口ぶりに気圧され、恥じらった。
「私は、ここに来る前にあなた様のひどい仕打ちに怒って、あなた様に傷をつけてしまいましたわね。でも、それはあなた様のことを思っていたからこそ、本当に悲しかったのですわ。今日私を追って来るくらいなら、私を遠ざけられた時のお気持ちは何だったのかと。怒りが先だってしまいました。でも本当にあなた様を傷つけて逃れたいと思ったわけではありません。どうやっても私を放さないでくださって嬉しかった」
実津瀬は雪に爪を立てられ引っかかれた腕を見た。
「痛みはありますか?」
雪が手を伸ばしてきたので、実津瀬は腕を持ち上げた。すると、雪は顔を下げてその腕の傷を舐めて、そこから実津瀬を見上げた。
「痛みなどないさ。それに、今慰めてもらって治ったよ」
と実津瀬は返事をした。
手早く衣服を身に着けて、二人は立ち上がった。
実津瀬が妻戸を押して顔を出すと、あたりを見回した。誰もいないと確認して、簀子縁に出た。その背に隠れるように、雪が続いた。
雪は簀子縁に出ると、前に立つ実津瀬の胴に両手を回して、腹の上で自分の右手で左手の手首を掴んで実津瀬に抱きついた。
「実津瀬様に会えない日々は辛かった。どうか、私を放さないでくださいまし。身分違いであることは十分に承知していますから、あなた様のお邪魔になるようなことはしません」
「……」
実津瀬は答える代わりに、自分の胴に回された雪の手の上に自分の手を置いた。そして、しばらくしてから。
「……私こそ、あなたに会えない日々がどれほど苦しいことだったか。あんな誤ったことは二度と言わない」
と実津瀬は顔だけ後ろを向いて雪を見て言った。
背中に顔を伏せていた雪は顔を上げて、実津瀬の微笑みを受けた。
今日は、父の実言が榧と宗清を連れて、懇意にしている王族の邸を訪ねたため、本家から預かっている珊は一人お留守番で、蓮は独りぼっちの珊の相手をしていた。
作った薬草を木箱や壺に入れるのを他の侍女たちと一緒に手伝って、それが終わると蓮の部屋の前の庭で、二人は歌を歌いながら両手を繋いでくるくると回って遊んだ。
珊は生まれて間もなく母親が亡くなってしまったため、父親である岩城本家の安和由に引き取られた。しかし、男親では養育も行き届かなくて、乳母を着けることなく邸の従者、侍女の子供たちと一緒に育てられていたと言ってもいい。
それがひょんなことからこの邸の主、実言と礼の子供として育てられることになった。珊は実言、礼だけでなくその子供たちである実津瀬、蓮、榧、宗清にもよくなついて、一番下の妹として屈託なく振舞っている。
未刻のころ、母の礼が邸の隣で営んでいる診療所から戻って来た。三人は部屋の中に入って、新しい遊びをしようと座ったところに診療所から女の助手が庭に走ってきた。
「礼様!大路で牛が暴れたとかで怪我人が運び込まれています。人手が足りなくて!」
助手は力の限り走ってきたため、そこで膝に手を置いて息をついた。
「どれくらいの人数?」
礼はすぐに階を下りて訊ねた。
「今……自分で歩ける人が三人ほど来ました。倒れて動けない者もいるとかで……佐田祢(さたね)さんたちが大路に走って行って」
「息が整ったら、戻って来てね」
礼は助手に言って、心配して簀子縁に出てきた蓮に言った。
「診療所に行ってくるわね。怪我人が運ばれてくるみたい」
使命感に燃える母は素早くて、もうその背中は庭の中に見えなくなっている。
「私も手伝います!」
蓮はそう言うと、珊を侍女の曜に任せて、部屋に置いていた水差しから水を注いだ椀を階の下の助手に届けた。
「飲んで、落ち着いたら戻って来てね。私も診療所に向かいます」
蓮も母を追って診療所に向かった。
邸の裏の門から出て、道を挟んで建っている診療所。裏門の向かいが診療所の裏からの入口になっていて、そこに飛び込むと診療所は盥に入れていたものをひっくり返したように、人人人でごった返していた。
裏口近くまで怪我人が来ているということは、診療所の中や表の庭はどのようになっているのかと思った。
蓮は表の庭に周るとそこは血を流した怪我人や、腕が痛いと悲鳴を上げる人、それに付き添う人達で埋め尽くされている。
「蓮様!」
束蕗原から来ている女の助手が蓮を見つけて声を掛けた。
「累!これはどうなっているの」
「軽傷の人は裏庭の方へと移動してもらって、出血が多い人は診療所の中に運んでいます。庭にいる人はまだ判別ができていない人ですわ。大路には岩城の方が向かわれて、怪我人をこちらに運ぶように算段されているのです。牛が大暴れをしたようで、思った以上に怪我人が多いようです」
蓮は頷いて、累という助手とともに痛いと叫ぶ怪我人の手当てにあたった。
都の外から荷を運んできた二頭の牛が急に暴れだして、従者がそれを静めようとしたが言うことをきかず往来している人々を巻き込んでしまったのだ。こちらに突進してくる牛に驚いた人々は後ろを向いて一目散に逃げようとしたが、他の人にぶつかって転んでしまったり、牛にぶつかられて吹っ飛ばされたりしたのだ。
少々名の知れた診療所であるここに、怪我人たちが助けを求めてきて、この惨状を知った岩城の家の者たちが大路まで行って怪我人を運び込んでいるという状況だった。
付き添いの人も入れて三十人ほどが集まっている。
連の隣に座っている壮年の男は腕が痛いと訴える。累が腕を持つと、ことさらに痛がった。
「骨が折れているのかもしれません」
添木をしようと、累は館の中に道具を取りに行った。蓮は桶の中に入った水を椀に入れてここまで来た者たちに水を飲ませていた。椀を回し飲みして、なくなればその椀は蓮に突き出されるのだ。
累が戻って来て、蓮は添えた木を腕にくくるのを手伝った。それからも、求められれば水を与え、累の指示のもと怪我人の手当てを手伝った。
「もし?……この方はどちらに運べばよいか、教えてもらえまいか」
頭上から聞いたことのある声が降ってきて蓮は顔を上げた。そこには鷹取景之亮が小柄な男を横抱きに抱いて立っていた。
「この方はどのような怪我を?」
累は立ち上がって訊ねた。
「わからない。どうにも立ち上がれなくてね。足をくじいたのか、それとも」
「そうですか、館の中では出血した方を先に見ていますので、こちらに寝かせてあげてください」
そう言って累は空いている筵を指し示した。
景之亮は足元に横たわっている人々をよけて、その空いている場所まで行き男を下ろした。
蓮は桶を持って景之亮の傍に駆け寄った。
「鷹取様!」
蓮の声に景之亮は振り向いた。
「蓮殿」
「どうなさったのです?こちらにお越しの用があったのですか?」
「いいえ。ちょうど宮廷から下がって大路を歩いていると、岩城の人たちが倒れた人たちを助けているのが見えて、近寄って私にできることがあればと申し出たのです。それで、この怪我人をここまで連れてきたのです」
「まあ、それはありがたいことです」
「私にできることがあれば、なんなりと言ってください。力だけはあるので、人を運ぶことはできる」
傍で聞いていた累は、それなら、と。
「そこの体の大きい方、申し訳ありませんが、こちらの方を館の中に運んでくださいませんか?」
景之亮は頷いて、累の元に行き女人を抱き上げた。付き添いの年老いた女人が、心配そうな顔で後ろをついて館の中に入って行った。
蓮は二人の後ろ姿を見送って、下を向くと持っている桶の中に水がなくなっていることに気づいた。裳を引っ張られて足元の怪我人から水が欲しいと言われて、蓮は診療所裏の井戸に向かった。
予期せぬ鷹取様の登場にすこしびっくりしているわ、と蓮は思った。前に会ったのは、母が部屋に連れてきた時だ。でも、その時は何一つ話せなくて、愛想のない女と思われただろうかと、少しばかり気にしていた。
蓮は水を汲んで戻ると、束蕗原から来ている佐田祢という男の医者と一緒に庭に横たわっている怪我人を診るのを手伝った。
一旦、怪我の手当てを受けた人々は落ち着いたら、帰って行った。一時、狭い庭は人で埋め尽くされていたが、今では庭に座り込んでいるのは数人ほどだ。
骨折や出血などのひどい怪我を負った者は、館の中で手当てを受けていた。もう、診療所のいつもの人数で対応できるようになったため、蓮は隣の邸に戻ろうとした。
ああ、鷹取様はどうされただろう。もう、帰られたのかしら……。
蓮は館の中に入って、土間から景之亮がいないかと首を伸ばして中の様子を窺った。そうしていると。
「蓮殿?」
後ろから呼ばれて、蓮は驚き、飛び上がりそうになった。早鐘を打つ心の臓を手で押さえて、振り向くとそこには景之亮がいた。
「何をされているのです?」
蓮が中を窺っている様子を後ろから眺めていての質問であるが。
「鷹取様こそ、どうなさったのです?」
と蓮は問うて返した。
「私は…あなたを探していたのですよ。もう、怪我人の治療も落ち着いたということなので、帰ります。また、お会いしましょう」
とあっさり言って、土間から外へと出て行った。
蓮は慌ててその後ろを追いかけた。
「鷹取様、お手伝いをしてくださったのに、そのままお返しするなんてできません。どうぞ、隣の邸で休んでいってください。お疲れでしょう」
蓮の申し出に、少し間を置いて。
「それでは、お言葉に甘えよう」
と景之亮は答えた。
「では、こちらに」
と蓮は先に立って、小路を挟んだ邸の裏門に景之亮を案内した。
「邸の中におあがりください」
蓮はそう言うが、景之亮はこれにはうんと言わない。
「いや、今日はこちらに寄る予定はなかったため、このようなみすぼらしい格好。それに、人を運ぶのに往来の砂ぼこりを被った。こちらで結構。階に腰かけてもいいかな」
「まあ、そのように気になさらなくていいのに」
蓮は侍女の曜が持って来た盥を階の半ばに置いて、景之亮に手を洗わせた。しずくの落ちる手を下から白布で覆って、その水気を取った。
「では、ここで少しばかり、お待ちくださいませ」
蓮は急いで台所に行って、裏の山から湧く水を入れた椀を盆に載せて景之亮の待つ庭に向かった。
背筋を伸ばして、真っすぐに庭の奥を眺めていた景之亮は、足音に気づいて振り向いた。
「どうぞ、喉を潤してください」
そう言って、蓮は盆の上の椀を差し出し、景之亮は椀を取って、一気に喉の奥に流し込んだ。
「ああ、冷たいおいしい水だ」
と言った。蓮は景之亮から椀を受け取った。
「もう一杯、いかがですか?休む暇もなく館の中で働いてくださったのでしょう。母を始め、医者は怪我人を助けるためが一番ですから、誰であろうと元気な人はそのために使うのです」
「ははは、確かに、礼様が立ち働かれている姿は勇ましかったな。私に的確に指示をされていた。なので、大きな男がおろおろすることなく、働けた。少々喉が渇いていたようだ。もう一杯、おいしい水をいただこうかな」
蓮は頷いて、また台所へと向かって、先ほどと同じことを繰り返した。
「さあ、どうぞ」
「かたじけない」
今度は、数回に分けて、ゆっくりと景之亮は椀の中のものを味わった。
「館や庭には怪我人やその付き添いがたくさんいるので、今炊き出しをしています。鷹取様にも邸に上がって、粥を召し上がっていただきたいわ」
先ほど、台所をのぞいたら巨釜に粥を作っていた。どうやら、母が命じたらしい。この家では、このように怪我人や病人が集まると炊き出しをしてその者たちや近所に振舞う。それは父が言い出して始めたことで、母もそれに賛同しているのだ。
「いいえ、このように汚い格好だから、お気持ちだけで。水で喉が潤った。清々しい気持ちで自邸に帰れます。では、私は帰ります」
景之亮は立ち上がって、手に持っていた椀を蓮の持っている盆の上に置いた。蓮は真っすぐに景之亮を見上げた。
景之亮がいうように、初めてこの邸に来た時と同じように着古した衣装を身にまとい、髭が頬を覆っていた。しかし、大きな体が機敏に怪我人を運び、怪我人を気遣っている姿は身なりなど関係なく心強かった。
蓮は去っていく景之亮になんと声を掛けていいか、わからずその背中を黙って見送った。
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