陽光がさんさんと奥の寝室にも届くようになったころ、蓮は目を覚ました。目だけであたりを窺うと、どうやら褥の上に寝ているようだ。
なぜ自分が景之亮の寝ていた場所に寝ているのか?と驚き、体を起こした。すると、昨夜の激しい動きで手足やお腹が痛いし、頭はくらくらとめまいがした。喉も乾いていたので、枕元に置いてあった椀を取ってその中の水を飲んだ。飲み干してから、またすぐに横になった。
ああ、この陽の陰りだと、昼の間は過ぎたかしら。
蓮は部屋の明るさから思った。
さっきの椀には水が入っていたけど、鷹取様が飲み残したものかしら……。
鷹取様は、どこに行ってしまったの?あの怪我では、もう一晩ここで休んだ方がいいはずなのに。
蓮は目を瞑って、景之亮を看病していた時のことを思い出した。
鷹取様の寝顔を見つめていた。額やこめかみの汗があれば拭っていた。だけど……。
鷹取様の鼻筋、通っていて高い……唇は少し厚い。顎は少し張っていて……。
顔をまじまじと見て、伊緒理と違う……なんてことは思わなかった。鷹取様は鷹取様。
とても男らしい方……勇敢で。力強くて。頼りになる……。
そんなことを考えていたら眠ってしまったみたい。
蓮が衾の中でごろごろと寝返りを打っていると、簀子縁を歩く足音が聞こえた。侍女の曜かと思ったら、違った。
「あら、目が覚めた?」
それは母の礼の声だった。
蓮はそうとわかると飛び上がらんばかりに起き上がった。
「お母さま!…………鷹取……様は?」
「お帰りになったわ」
「いつ?」
「午刻(正午)頃だったかしら」
「でも……もう一晩くらいここでお休みされた方がよかったのでは…」
「ええ、私ももう少し横になって休むようにお願いしたのだけど、聞き入れていただけなかったわ。逃げるように裏門からお帰りになった」
蓮はそれを聞いて、視線を下に落とした。
「……私は…」
「私がこの部屋に入って来た時、ちょうど、あなたを抱き上げてそこにゆっくりと下ろしていたの。多くは説明されないのだけど、私に大事な娘であるあなたを危険な目に会わせて申し訳なかったととても恐縮して謝られたわ……。どういうことかしら」
蓮は昨夜のことを母にどう説明したらいいのかわからず、その返事はしなかった。
「ああ……私、鷹取様の看病をしようと思っていたのに……こんなにもぐっすりと眠ってしまうなんて」
蓮は両頬に手を当てて、眠ってしまった自分を恥じた。
「あなたには小さな傷一つなかったわ……鷹取様が守ってくださったのね……」
礼があさっての方向を向いて、呟くように言った。
「実津瀬は上着に血がついているのに、手当をさせてくれないわ。……自分の血ではないからと言ってね。本当にそうかしら?」
「実津瀬は……帰っているの?」
「ええ、でも、自分の部屋にこもってしまって。旦那様も今は一人にしておけとおっしゃるし」
礼は息子の様子に心を痛めて、小さな声で答えた。
倉の二階で一人むせび泣いていると、肩を叩かれた。顔を上げると、再び父がいた。
「帰ろう」
実津瀬はここで初めてなぜ、この夫沢施の館に父がいるのだろうという疑問がわいた。
「おまえはここにいてはいけない人物だ。私もこんな時刻にここにいてはいけない。長居は無用だ。立ち上がれるかい?」
実津瀬は頷いたが、差し出された父の手は取らなかった。自分で立ち上がり、自分の身を入れていた箱と箱の間から抜け出て、父の脇をすり抜けて行った。
実言は目も合わせず歩いて行ってしまう息子を振り返って、後ろを着いて行った。梯子を下まで降りたのを見届けて、実言も降りた。
実津瀬は一階の扉の前に来た。壊されて外れた扉が、実津瀬が積んだ箱の上に倒れている。その間を抜けて倉の外に出た。そこには二人の男が倒れた男たちを板に載せているところだった。
「すぐにここを片付けてしまわないといけない」
後ろから実言がそう言った。
「……雪は……」
「あの女人は、見えないように上着を掛けて運び出した」
「何処へ?」
「実津瀬が知る必要はない」
実津瀬はその無碍な言葉に、計らずも父を睨んだ。しかし、実言はそんな様子をとがめるでもなく、涼しい顔をして倉の前から裏門へと向かう道に足先を向けた。
「さあ、行こう」
倒れている男たち……すでに絶命している者たちの体を片付けるのとは別に、実言の警護についている者たちに実津瀬は囲まれて父の後ろを歩く。
それから家までの道のりをどうやって帰ったかは、はっきりとしない。夜明け前の薄暗い中をこの二本の足で歩いて帰ったとはわかっているが、道中の記憶はないに等しい。父の背中を見つめていたと思っていたが、意識は違うところへ……この手の中で亡くなった雪の方へと行った。
雪……雪……
邸の門をくぐると、女人の声で名前を呼ばれた。
それが、母の声であるとはすぐにはわからなかった。
「実津瀬!」
実津瀬の前には実言が立っていたが、その姿は透けているかのように礼は後ろの実津瀬の姿を捉えて、駆け寄った。
「胸は……血が……」
実津瀬の上着の左胸は左肩から斜めに布が切れている。飛沫と滲む血、拭ったように赤く染まっている部分がある。
「私に傷はありません……」
伸ばした母の手を避けて、実津瀬は静かな声で言った。
「父上……今夜は勝手をして申し訳ありませんでした……」
母を避けて父の前まで歩いて行った実津瀬は、肩越しに父に言うと、父母を残して庭を突っ切り自分の部屋へと向かった。
部屋の前の階を上がりながら沓を脱ぎ捨て、簀子縁から庇の間に入った。そこで膝から崩れ落ちた。両手を板の上について上半身を支えたが、それも無理でその場に突っ伏した。体が力尽きたのだ。それから実津瀬は体を転がして、褥を敷いている部屋と向かった。褥の前に立てていた几帳に体がぶつかり実津瀬の体の上に倒れた。実津瀬は物が落ちてぶつかる痛みを感じたが、その物をどかす気力もなく、その場にあおむけのまま、天井を見上げた。
いつもとわからない部屋の天井である。でも、この変わらない光景を見ている自分は変わってしまった。心が躍るような気持ちや充実した思いに浸ることはもうないだろう。
実津瀬はそんなことをぼんやりと考えていたら、気を失ってしまった。
眩しい……昼間の明るさに実津瀬の瞼は反応して、目を開けた。
すると、自分の顔を覗き込んでいる人が視界に飛び込んできた。
「わっ!……蓮!」
実津瀬は驚き、声を上げた。そして、体を起こしたら、自分の上に載っているものがあって、すぐには起きられなかった。
そうだ、几帳が倒れてきたけど、体の上に載せたまま寝転がっていたのだった。
「そうやって上から見ていないで、起こしてくれたらいいじゃないか」
実津瀬はもう一度上半身を起こして、腹の上に載っている几帳の足をどかした。蓮も上差の布を取って、一緒にどかすのを手伝った。
「だって、瞼が動いていたからもうすぐ起きるのだと思ったのだもの」
実津瀬は起き上がって、蓮を見ると笑っている。
「すぐそこにふかふかの褥があるというのに、どうしてこんな硬い板の上で寝ているの?それもこんな重しを載せて?」
先ほどどけた几帳を指して蓮は言った。
「それに酷い顔よ。汗と土で真っ黒」
蓮は用意していた盥の水の中に白布を浸けて絞り、実津瀬の左頬に置くと容赦なくごしごしと顔を拭いた。実津瀬は左頬は任せたが、右頬を拭こうとした時に蓮の手を取って、白布を奪った。自分でする、との意思表示だ。蓮は白布を実津瀬に預けた。拭き終わると、別の盥を実津瀬の前に置いた。
「手を洗って」
実津瀬は言われるとおりに、盥の中に手をつけた。深い井戸から汲んだ冷たい水が、手から実津瀬の体を通って、脳天へと突き通った。
「目は覚めた?」
蓮は顔を拭いていた布を洗って、実津瀬の顔のまだ汚れの拭き足りないところをもう一度拭いてやった。
「うん……覚めたよ。ありがとう……」
実津瀬は小さな声で言った。
「硬い床の上は足が痛いわ。褥の上で話しましょう」
蓮は薬箱を持って先に立ち、実津瀬の褥の上に上がった。実津瀬も続いて、蓮の前に座った。
「……お母さまが心配していたわ。実津瀬が自分は怪我なんてしていない、なんて言って部屋に入ってしまったから、追いかけて本当に怪我をしていないのか確認できなかったって。だから私が遣わされたの」
蓮はにこにこと笑って言う。
「本当に怪我していないの?上着には血の跡……胸を切られている……」
蓮は正面に座る実津瀬の胸に手を伸ばした。
「これ……上着だけが切られているわけじゃない……実津瀬の体まで届いているわ……上着を脱いで見せて」
蓮は上着の前の帯を取って、解いた。実津瀬は抵抗することなく上着の襟を持って、脱ごうとしたとき、胸から胡坐をかいた足の上に何かが落ちた。それも、数個。
実津瀬はそれを一つ一つ拾い上げた。
胸から落ちた時に、それが何なのかはわかっていた。今まで忘れていたことを申し訳なく思って、目の縁に涙が溜まった。
「それは何?」
蓮は実津瀬の手の中を覗き込んで、それをじっと見た。
「……指?」
気味悪がることなく言った。
「……うん。そうだ」
「誰の?」
「……雪という女人……」
「……雪?」
実津瀬と蓮はしばらくその……雪の指を見つめた。
「……それって、実津瀬の好きな人?」
蓮の問いに実津瀬は黙って頷いた。
「その人は今どこに?」
「……わからない。父上がその亡骸を持って行った」
「お父さま?……亡骸……って」
「私の腕の中で亡くなった……」
蓮は清潔な白布を取って、実津瀬の前に差し出した。
「ここに置いて」
実津瀬は頷いて、四本の指先を一つずつ布の上に置いた。それを、蓮は褥の脇に置き、実津瀬の上着を脱がせた。
「……まあ、血が出ている」
蓮は、水で浸して硬く絞った白布を実津瀬の胸に当てた。
「傷口が不思議……。左肩から斜めに切られているのに途中で途切れて、また傷口が始まっている。何かを胸の上に置いていたの?」
「雪の手、だよ。剣を振り下ろされた時に雪が後ろから手を出して体を後ろに引いてくれてね、剣の先が深く入らなかった。そして、雪の指が落ちたんだ。本当に、私の命を救ってくれた。自分の体を犠牲にして……」
「……そう……」
蓮は痛がる実津瀬をいたわりながら傷口の血を拭いて、薬を塗り、清潔な布を当ててその上から胸を白布で巻いた。
「これでいいわ。お水をどうぞ。お粥を持って来ましょうか?」
実津瀬は首を横に振った。
「そう……なら、今度こそ褥の上でしっかりと眠った方がいいわ。起きたらお腹も空いているでしょう?その時はお粥を持ってくるわね」
蓮は実津瀬を褥の上に横にならせると、衾を掛けて、部屋を出て行った。
先ほどまで寝ていたのに、またすぐに眠れるものかね……。
実津瀬はそんなことを思っていると、すぐに瞼は重くなった。
……ああ、お母さまの差し金か……水と言ってその中には眠りの薬を混ぜていたのか……。
意識は遠くなり、実津瀬は眠りに落ちて行った。
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