東の山の稜線からは白い光が見える。夜の終わりの中を景之亮は右手で蓮を庇い、門から外に出て歩く。途切れ途切れに蓮に向かって景之亮は声を掛ける。
「……怖い思いをさせてしまいましたね。男が蓮殿と鉢合わせになるとは思わず…私はとんだ過ちを犯すところでした…」
「それは……鷹取様が招いたことではないわ……。私が勝手に実津瀬を追いかけてきて……。あ……実津瀬は!」
「無事ですよ」
「今夜のことは……実津瀬が狙われたの?……そして、鷹取様はなぜあの場所にいらしたの……」
蓮は前を見つめて呟くように言う。背が高いため景之亮がなんと説明したものかと困っている顔を、蓮が見ることはなかった。
「私、こうも長い道のりを歩いてきたのですね……実津瀬の背中を見失うまいと必死だったから気づきませんでした。実津瀬が夜中にこんなに遠出をするとも思っていなかったので」
「ええ、夫沢施の館の庭で蓮殿を見た時は、どうやってここまで来たのかと不思議でなりませんでしたよ」
景之亮はその時の驚きが今では小さな笑いになった。
「……鷹取様から今夜のことはお聞かせいただけないのかしら……」
景之亮はちらりと隣の蓮を見たが、蓮は前を向いている。
「……ええ、しかし、必要があれば然るべき方が説明されるはずですが、今夜あの邸に蓮殿はいない人です。そして、いたことを知っているのは私だけですよ」
蓮はそう言われて、はっとした表情をした。
「そうでしたね……今夜……あの場所に鷹取様を遣わしたのは……お父さまね!どうして……実津瀬があの場所に行くことを知っていたの?」
蓮は勝手に自分の推測をしゃべりだし、頷いている。
「お父さまが知っていて、今夜のようなことになったのなら、本当に、ひどい方!」
自分の父に怒りを感じてなじる言葉を言うが、そこには情を感じる。
長い道のりと思っていたが、よくしゃべる蓮の声を聴いていると、実言邸へと帰って来た。
蓮は裏の使用人たちが使う垣に向かった。景之亮が垣の戸を押してくれた。蓮は振り返ると、景之亮は外で突っ立ったままである。
「鷹取様?…邸で手当を」
「今夜、蓮殿は私と出会う予定ではありませんでした。私がこのお邸をお訪ねする予定もありません。…後日、蓮殿に会いに来ますよ」
蓮はそれでも引き止めようと思ったが、景之亮は踵を返して歩き出した。
少し素気のない別れであるが、確かに今夜の勝手な行動が父に知れたら大変だと思い、景之亮の大きな背中を見送った。
背中が小さくなったところで、蓮は垣の中に入った。そこで、景之亮が去っていた方向から音が聞こえた。何か、地面に落ちる音……。蓮は何かを感じ取って、戸を引いて、通りへ出て景之亮の背中を探した。
「鷹取様!」
景之亮が地に蹲(うずくま)っている姿が見えた。蓮は考える間もなく、景之亮の元に走り出した。
「鷹取様?」
蓮は跪いて景之亮の顔を覗き込んだ。夜明けの薄暗い陽光に照らされた横顔は白く、汗が浮き出ている。
「……れ……」
蓮の名を呼ぼうとしても言葉が出てこない。
「待っていて、すぐに助けを呼んできます!」
景之亮が片手を上げて、蓮を止めようとしたが、上がらり切らない。蓮は走って邸に戻ると戸を押しのけて使用人たちの部屋がある棟を抜ける。その時に。
「誰か手を貸して!」
と叫んだ。そして、父と母の部屋の前の庭まで大きな声を出して走った。
「お母さま!お母さま!」
階の下に辿り着くと、下を向いて肩で息をして顔を上げた。ちょうど階の上に母の礼が寝衣姿ではなく、普段の衣装で現れた。
「どうしたの?」
「裏の通りに怪我人がいます。手当をお願いします!」
母はどう納得したのか、頷いて。
「裏の通りならあなたの部屋が近いわね、そこに運んで」
蓮は再び元来た庭を走った。蓮の大きな声に何事だと下働きの男や従者が部屋から出てきて顔を見合わせている。蓮はその者たちに言う。
「みんな、お願い。外に怪我人がいるの。体の大きな人だから、大勢の力がいるわ。助けて!」
男たちの見合わせた顔が頷き合って、蓮と一緒に外に走る者、担架を持ってくる者とに別れた。
蓮は正座したまま動かない景之亮の元に駆け寄った。顔を覗き込むと、額に汗の粒を浮き立たせ目を瞑ったまま動かない。
気を失っている……。
すぐに担架が持ってこられた。男七人と蓮が担架に景之亮を載せて垣の戸を通過した。
「大きなお方だ!」
重たい体を運ぶのに、弱音が出そうになる。
「蓮様、この方はどうなさったのですか?」
訊かれても蓮は細かなことは言えない。しいて言うなら。
「我が一族のために怪我を負われたのよ」
蓮の言葉に男たちは、心なしか表情を引き締めた。
「こちらに運んで」
蓮は先頭に立って、自分の部屋の前の庭へと導く。
蓮の部屋に続く階の上には、母の礼が立っていた。
「奥に運んで」
女主人の「早く」という声に皆は急いで階を上がった。
「この方は……」
部屋の中に入って来た怪我人の顔を見て礼は言葉を詰まらせた。
「鷹取様です」
蓮は答える。礼は頷いて、それ以上のことは言わず手当を始めた。
担架から褥の上に景之亮を移動させるのに、難儀した。礼や束蕗原から来ている男の医師、侍女たちも手伝って、大きな体を担架から降ろした。
礼はここまで景之亮を運ぶのを手伝った男たちに労いの言葉を掛けて、庭から出て行くのを見送った。その後ろでは束蕗原から来た男医師の佐田祢が景之亮の腰の帯を解いて、衣服を寛げた。
礼は母の隣、佐田祢の向かいに座って様子を窺った。
「左腕の傷と……」
上半身の傷について、佐田祢が話し始めると。
「肩にも、右肩にも傷が」
と蓮が言った。それを聞いた佐田祢は頷いて、続けた。
「右肩と、あと、胴に小さな剣の傷がいくつも」
「まあ、そんなに……」
礼は驚きの声を上げて、後ろに控えている束蕗原から来ている医者見習いの侍女、累に持ってくる塗り薬を伝えている。
邸の侍女たちは水やお湯を入れた盥を運び込んで、庇の間に控えている。
水に濡らした白布で、汗や砂そして血を拭いた。
蓮も母を見習って景之亮の肩を拭いた。そうしていると、嗚咽を漏らし始めた。
うっうっと自然と漏れる声。それとともに両目から涙が流れた。
「蓮、泣くのなら後ろで見ていなさい。邪魔になるわ」
母に言われて、蓮は膝で後ろに下がった。そして、両手を膝の上に置いた。目からこぼれ落ちる涙は膝の上の拳の上に落ちて行く。
礼は景之亮の傷口をきれいに拭いた後、持ってこさせた塗り薬を塗り、清潔な白布を巻いて覆った。
腕の剣の傷が一番ひどいが、母は佐田祢とともに顔色を変えることなく傷口をきれいにしている。
景之亮の脱がした衣服は刻まれて穴が空いている。蓮は、景之亮の頭のあたりに置かれているずたぼろの上衣を見て、さらに涙が出た。
あんなにたくさんの傷は私のせいかしら……少なくとも腕の深い傷は私のせいね……。
蓮は申し訳なく思って、泣くつもりはないが涙が出てしまう。
私は今夜、どうしたらよかったのかしら。実津瀬を追ってはいけなかった。鷹取様の言いつけを聞いて、ずっと茂みに身を隠して、景之亮が落とした矢の筒を取り上げなければよかった。
蓮は今更考えてもどうしようもないことを考えていた。
景之亮の下半身も同じように傷の有無を確認され、きれいに拭かれていった。
「足にはそこまでの傷はないようね」
塗り薬を塗り終えると景之亮に衾を掛けた。佐田祢と累は、汚れた白布や盥を持って下がって行った。
侍女たちも下がったのを確認して。
「なぜ、蓮は鷹取様の怪我のことを知っているのかしら……。問い詰めたいけど、今は鷹取様の怪我を治すことが先決……。いつまで泣いているの?泣き続けるなら私か榧の部屋に行きなさい。そんな声を聞かされていては、鷹取様はゆっくり休めないわ」
蓮は母に言われて、ぐずぐずと鼻をすすって、泣き声を出さないように大きなため息をついた。
「泣き止むということは、あなたが鷹取様の看病に着くということかしら?」
蓮はこくっと首を縦に振った。
「そう。なら、頼みますね。私もあとで様子を見に来ますからね」
礼は一人、部屋を出て行った。
蓮は膝で景之亮の傍ににじり寄って、その顔を見た。
流れていた汗はきれいに拭きとられている。
喉を潤す水も、先ほど男医師の佐田祢が頭を起こして飲ませていた。
蓮がすることは、ただ景之亮の傍で様子を見守るだけだ。
母の礼は致命的な傷はないと言っていた。腕の大きな傷はそこが膿んで、やがて体全体を蝕み死に至らしめることもあるから侮ってはいけないと言う。
大小無数の傷に体が反応して熱が出ているのか、景之亮は額に少し汗をにじませた。蓮は白布を水に浸して絞り、拭った。盥の中に自分の手を入れ冷やしてから、景之亮の額に置いた。手から伝わる景之亮の熱に驚いた。
こんな目にあわせたのは、私……実津瀬……お父さま……。岩城一族ね。
蓮はそんなことを考えながら、景之亮の様子を診て、額の汗を拭いていたのだが……次第にうとうとと睡魔に襲われた。寝てはだめよ……看病すると言ったのだから……。
蓮は何度も顔を振り、目をしばたたかせて寝ないように自分に言い聞かせた。
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