New Romantics　第一部あなた　第ニ章18

　あれは、新年の行事も終わって宮廷全体がほっとして花の季節前の少しばかりのゆったりとした時間を過ごしているときに、岩城実言が左近衛府の詰所にふらりと現れた。岩城実言の顔はよく知られていて、すれ違う者は皆、小さな会釈をして行く。
　景之亮は机について書類を睨んでいるとそこに陰が射して、顔を上げると実言が立っていた。もちろん景之亮も岩城実言の顔は知っていたが、その人が自分の目の前でにこりとしている状況が飲み込めず、少しぽかんとして見上げていた。周りがざわついてきたので、慌てて立ち上がった。
「ああ、そのままでいいのだよ」
　実津瀬は笑顔のままで言った。
「何か、問題がありましたか？」
　景之亮の仕事は宮廷警備であるが、直々にその不手際について言いに来たのではないかと考えたのだ。
「いいや、今日はあなたに個人的なお願いがあって来たのだよ。少し、いい？」
　景之亮は声なく首だけ縦に振った。
「今日の勤務は？」
「……もうすぐ終わります」
「そう、では、終わったら私の邸に来てくれる？」
「……はい」
　景之亮の返事に実言は再びにっこりと笑みを作った。
「……うちの場所はわかる？」
「……はい」
「では、待っているから仕事が終わったら来て」
　そう言うと、実言は体を翻して詰所から出て行った。こんな場所に岩城実言がいることに気づいた官僚たちは訝りながらも、丁寧に挨拶をする。実言は誰にも同じ柔和な笑顔を見せて去って行った。
　岩城実言が出て行った後、景之亮の周りに多くの同僚が集まってきて、岩城とはどういう関係か、何を言われたのかと口々に訊かれた。しかし、岩城実言が訪ねてきたことに景之亮はまったく心当たりがない。景之亮の一族は岩城家とは関わりがなく、景之亮自身も実言や他の岩城家の人々との関わりがないのだ。景之亮は何も言えず、頭をかきながら。
「はて、全く思い当たることはないのだが、どのようなお話だろうか」
　そう言って仕事を早々に終わらせて、詰所を出て行った。
　岩城実言の邸は五条の通りにある。通りに入ってどこまでも続く塀が続き、もう塀は実飽きたと思ったところに立派な門が見えた。門の前には門番が一人立っていた。訪ねてきたいきさつを話すと、聞いていたようですぐに門の内側にいた従者に取り次がれて、邸の中に案内された。
　広い邸、舎人に先導されて進む簀子縁から見える庭はなみなみと水を湛えた池とその向こうに生い茂った樹々が見えて、奥行きのある庭が広がっていることがわかる。邸の御簾、几帳の類の調度はどれも質の高いものばかりで、景之亮は自邸の古びた調度を思い浮かべ恥ずかしく思った。
　庇の間に足を踏み入れると、部屋の奥に詰所で見た時とは違って、寛いだ衣装に身を包んだ岩城実言が座っていた。
「ああ、悪いね、こんなところに呼びつけて。あなたの邸とは方向も違うのに」
　目の前にある円座に座るように促されて、景之亮は座った。呼ばれたことを不思議に思いながら、実言の言葉を聞いた。
「あなたは弓の名手だ」
　そう言われて、景之亮は否定の言葉を口にしようとした。
「私がこの目で見て思ったことを言っているのだから、変に謙遜なんてしないでおくれよ。私の見る目がないみたいじゃないの」
　景之亮は開きかけた口を閉じた。
「そして、あなたは口の堅い人だと分かるから、これから言う我が一族の置かれた状況を秘密にしてくれると思う。それでね、その腕と、あなたの人柄を見込んでのお願いだ。私の力になってほしいのだよ。協力してくれるなら、それなりの見返りは渡すつもりだよ」
　実言の言葉に、景之亮は黙って聞いた。権力者のありがたい言葉をそのまま信じてもいいものだろうか。
「どう？嫌なら、ここを立って去ってくれてもかまわない。そうしないなら、この先の話を始めさせてもらうよ」
　景之亮が座ったままでいると、実言は景之亮が了承したと認めて話し始めた。
　実言は、敵が息子の実津瀬に女人を差し向けて篭絡させようとしていることを掴んでいた。息子もその女人に心を奪われているという。間に入って女を遠ざけようとするのかと思ったが、実言は楽観的で。
「まだどうなるかわからない。人の心を捻じ曲げるのは嫌だな」
　と言って、静観するとのことだが、その間をただ見守っているだけではなく、考えられることは備えておこうと、景之亮を引き入れたのだった。そして、これで話は終わったかと思ったら。
「もう一つ、あなたを見込んでお話したいことがあるんだ」　
　と話を向けられた。
　景之亮は何だろうと、顔を上げた。
「私には四人の子供がいるのだけと、先ほど話した息子の実津瀬と同じ年の娘がいるんだよ。年ごろだろう。娘に誓った人がいるのであれば、反対するものではないのだけど、今のところ相愛の相手はいないようだ。いい相手はいないかと、探していたのだが……。それで、私の目に留まったのがあなた、ということだ。あなたは独身だけど、もし、心に決まった人がいるというのならそう言って。でも、自由を謳歌中ということであれば、そろそろ身を固めてはどうかだろう。これから、娘をここに呼ぶから会ってみてくれないかい」
　突然の思ってもみなかった申し出に、景之亮は驚いて額から汗が出るほど慌てた。
「ええ……この歳まで独り身ですが、それは私が不甲斐ないからなのですよ。……心に思う女人がいるわけではありませんが……岩城様の大切な娘様を私になど……」
　と顔を伏せた。
「なに？嫌なの？しかし、まずは会ってから決めてよ」
　軽いのりで実言は言うが、景之亮は会ってしまったら、断ることもできないと考え、なんと答えようかと悩んだ。
「そんなに深く考えなくてもいいのに。合わない二人を無理やりくっつけるつもりはないからさ」
　実津瀬は笑顔で言う。何を言っても、この場を離れることはできないようだ。そして、蓮と会うことになった。
　それから、実言は一族と実津瀬を守るために実津瀬の周りの探索を続け、今夜の凶行を嗅ぎつけた。景之亮の弓の腕を借りて、阻止する手段に出たのだ。
　そこに、蓮がいることは想定外であったが、この状況で自分とこうして出会えてよかった。事情を知らない蓮を最後まで守れるのは自分しかいないだろうと景之亮は秘かに思った。
　夫沢施の宮殿とは別に使用人たちが寝泊まりする館が立ち並ぶ中を、景之亮は背中に蓮を庇いながら連れて歩いて行く。
　この館は池の水を引いている場所に辿り着くと、蓮は水の流れる小川に喜びの声を上げた。
「池の水はここから取っているのですね」
　蓮の言葉に景之亮は頷いたが、すぐに険しい顔をして耳をそばだてた。
　まだ宮殿の台所や詰所には人が残っていて、宴の後片づけや遅い食事をしている音がしている。その中でこちらに近づく足音が聞こえた。
　景之亮は蓮の肩を抱いてその場にしゃがみ、低木の陰に潜り込んだ。
「たかと」
　しっ！と景之亮は口の前に人差し指を立てて、蓮の言葉を遮った。
「……敵だ。身を低く」
　景之亮は蓮の耳元で鋭く言った。
　男の声の会話が聞こえてきた。
「あっちに行ったのか？」
「そうだ、女は捨てていない」
「連れているのか」
　男たちの声はだんだんと近づいてくる。
　景之亮は樹の陰に寝そべって自分の胸の上に蓮を抱いた。
「大丈夫、私がついていますから」
　男たちの声に蓮は緊張して、景之亮の胸の上で身を固くした。それを感じた景之亮が声を掛けた。
　自分の荒い呼吸が近くを通って行く男たちに聞こえて、身を隠していることがわかってしまったらと、蓮は落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。
　そして、耳を澄ませるとゆっくりと打つ鼓動が聞こえた。景之亮の胸に付けていた耳から聞こえる、それは景之亮の心の臓の音だとわかった。こんな状況なのにゆっくりと打っていることに驚いた。
　この人はこんな修羅場を何度も経験しているのかしら？こんなにゆったりとした鼓動。私の胸はこんなに早く打って、勢いで口から飛び出してしまいそうなのに。
　蓮はぴったりと景之亮の胸に耳をつけて、その鼓動を聞くことに集中していると落ち着いてきた。この人と同じように呼吸をしていればいいのだわ。
　景之亮は連の肩を丸ごと抱いて、景之亮の胸に置いている蓮の左手を握ってくれている。
　こうしていると、景之亮が言ったように守ってくれるという安心感があった。
　男たちは会話に気を取られてあたりに気を配ってはいない。景之亮と蓮が隠れている低木の傍を通り過ぎて行った。
　男たちが行ってからだいぶたって、景之亮は蓮と一緒に体を起こした。
「あなたは好奇心旺盛な方だ。見るなと言われたら、見たくなるのでしょう。先ほどまでの私がした殺生を見ていらっしゃることだろうから。あなたの傍でそんな惨たらしく恐ろしいことを一つでも少なくしたかったのですよ。あなたは度胸もある人だから平静を保てているが」
　起き上がった景之亮は蓮に手を貸してその体を立たせた。
「まあ、私…鷹取様のことを責めたりしていないわ。ただ、夜を抜け出していく実津瀬を追ってきただけなのに……どうして、こんな恐ろしいことが起こっているのかしら……鷹取様に出会わなければ、私、今ごろどうなっていたことか」
　景之亮が地に置いていた弓を手に取ると、蓮がそのそばの矢の入った筒を両手で持ち上げた。蓮は景之亮を見上げて胸に抱えた筒を差し出した。
「鷹取様の足手まといにならないようにします。できることなら、お手伝いしたい。でも、やはり足手まといね。邪魔をしないようについて行きます」
　蓮が宣言するように言うと、景之亮は少しばかり唇の端を上げて微笑んだ。
「心強い言葉だ。今夜の私の使命を全うするのに身が引き締まる思いです」
　使命？
　蓮は少し首を傾げた。
　景之亮は蓮から矢の筒を受け取ると背中に背負って、再び歩き始めた。