New Romantics 第一部あなた 第ニ章16

小説 あなた

 夫沢施の館の裏門を入った実津瀬は迷わず左手に進み、母屋の裏にある使用人たちの寝泊まりする棟の方に進んだ。宴が終わった後の喧騒が右側にある台所や支度部屋から聞こえてくる。前日からの準備と本番の緊張から解き放たれた使用人たちは、残った料理や酒に舌鼓を打っておしゃべりを楽しんでいる。
 雪は早々に割り当てられた寝部屋に戻ると聞いていたので、実津瀬は奥にある棟に向かった。ここから、雪とどう会うか。
 実津瀬はゆっくりとあたりを見回し、どこかに雪の影でも見えないかと思った。
 台所では、灯台の小さな明かりがともっていたが、寝部屋の棟は真っ暗である。頼りは月明りで、棟の壁を弱く照らしている。
 実津瀬はしばらく歩いて行くと、階を下りてこちらに向かって来る女人の姿が見えた。
 闇に溶け込む暗い色の袍と裳の姿の女人が近づいてくるにつれて、それが雪であると分かった。
 実津瀬は自然と笑顔になった。近づいてくる雪に両手を開いて迎えた。実津瀬の表情とは反対に雪は顔をこわばらせて走ってきた。
「雪!」
 腕の中に飛び込んできた雪の体を受け止めた。
「よかった、会えた」
 あたりが真っ暗なことをいいことに、棟の前の人目があるかもしれない場所で実津瀬は雪を抱き締めた。
「……実津瀬様……」
 雪は震える声で実津瀬を呼んだ。
「ん?」
 実津瀬の胸の中に潜り込むように伏せた顔を覗き込もうとした。
 その時。
 ひゅん!
 という、風を切る音がしたかと思うと、それを皮切りに実津瀬の背中から雪の背中へといくつかの矢が飛んできた。硬い地面に矢は突き刺さらず、地を滑って遠くへと行った。
 実津瀬は驚いて、後ろを振り向こうとしたが、雪は実津瀬の背に手を回して制した。
「だめ!狙われているのはあなたよ」
 雪は顔を上げて言うと、実津瀬の隙をついて、立ち位置を入れ替わった。実津瀬の背中が雪の背中に入れ替わった時、再び飛んできた矢は今度こそ人の体に命中した。
 雪の背中に。
 実津瀬は飛んで来る矢が見えていた。そして、一直線に自分に向かって来る。でもそれは、自分を射るのではなく、一瞬にして位置を替わって実津瀬の盾になった雪の背に突き刺さった。
「逃げて……」
 実津瀬の腕の中で崩れ落ちそうになる雪の体を抱き留めて支えた。
 実津瀬の頭の中は今何が起こっているのか、考えた。いや、一瞬にしてわかったと言った方がいい。
 雪への疑念。あの疑いは、まやかしではなく真実だったということだ。雪は今夜ここで私と落ち合うことを自分の与する勢力に話したのだ。そして、ここに自分を殺すための暗殺者がいる。狙っているのは、この私だ。なのに、射られたのは雪である。
「ああ、逃げなくては……逃げなくてはいけない。でも、私一人が逃げるのではないよ。あなたも一緒だ」
 実津瀬は立ち止まっていてはいけないと、自分に言い聞かせた。
「……私は……」
「黙って!」
 実津瀬は雪の耳元に囁くと雪の体を両腕で横抱きにして後ずさる。向こうの闇を凝視して矢を持った敵が次の攻撃を仕掛けてくるのに備えた。
 闇の中から空を切り裂く矢の飛来音を聞き分けて、実津瀬は耳で判断してその矢から体を避けて木の陰に逃げ込んだ。
 実津瀬は飛んで来る矢が止まると、背を向けて全力で敷地の奥へ走って逃げた。
 まずは自分と雪の身を隠す場所を見つけて、雪の背中の矢を取り除き、止血しなければ。そして、この夫沢施の館を抜け出し、出来ることなら我が邸に連れて帰りたい。邸に帰って母に診てもらいたい。そうすれば、雪の傷は必ず癒えるはずだ。
 実津瀬は使用人が泊まる棟の簀子縁にあがり、空いている部屋に飛び込んだ。
「……実津瀬様、私を……ここに置いて、あなたは逃げてください」
 雪は息絶え絶えに言った。
 実津瀬はゆっくりと雪を下ろした。長い柄のついた矢をどうするべきか、実津瀬は悩んだ。抜いて大量の出血になったらどうしようか。
「痛いかい?声が漏れたら相手に居場所が知れてしまう。少し我慢を」
 実津瀬は懐から白布を出して、雪の口に噛ませた。
「私が悪いのだ。私がはっきりとあなたに問いたださなかったから。もし、私があなたに訊いていたなら、あなたは本当のことを言ってくれていたはずだ。そうすれば、今日のことは違った結果になったかもしれない」
 実津瀬は囁きながら雪の背中を抑えて、矢を一気に抜いた。雪は実津瀬の告白に意識が向いていたから、矢を抜かれた時には驚きと痛みで声を上げそうになったが、我慢して咥えた布を噛んだ。
「すまない。あなたにこんな傷を負わせてしまって」
 実津瀬は雪の背子や袍を力任せに裂いて、雪にくわえさせた白布を背中の傷に当てた。矢は深く入っていた。抜いて血が溢れ出ている。実津瀬は不安になる気持ちを押しとどめた。
「少しばかり我慢を」
 実津瀬は自分の腰紐を一本取って、雪の体を起こすと胸に紐を回して背中の傷に押し付けた白布を留めるために結んだ。 
「苦しくない?ああ、愚かな質問だ。苦しくないわけがない。私を庇ったために負ったひどい傷だ」
 実津瀬は雪の体を起こして、汗の流れる額に口づけた。
「逃げよう。ここを脱出できたら、私たちは本当に一緒に朝を迎えられる」
 実津瀬は軽々と雪を横抱きに抱き上げて、隣の部屋に入って、衾を被って寝ている女官の傍を黙って通り過ぎた。女官は寝ぼけた様子で身じろぎした。簀子縁に出たら、暗殺者に見つかると思って実津瀬は棟の部屋の中を突っ切れるところまで雪を抱いて突っ切ることにした。
 腕の中で呻き声を必死で押さえる雪を気にしながら、実津瀬は棟の端まで走った。

 蓮は池から使用人たちが寝泊まりする棟の方へと彷徨い歩いていた。
 実津瀬はどこに行ったのだろうか。
 蓮は木の陰に隠れて首を左右に振ってあたりを見回していた。
 その時だ。
 突然、後ろから口を塞がれた。
 蓮は慌てて、自分の口を覆う手を掴んで抗おうとして、視線を背中を覆う人物へと向けたら、そこには口元に人差し指を立てて、静かにするように促す鷹取景之亮がいた。
 景之亮は頷く蓮の様子を見て、声を出すなという指示は伝わったかと思い、手を離すと、蓮は「ど」と大きな声で言うので、すぐにその口を塞いだ。
 蓮は再び口を塞がれて、景之亮が口の前に人差し指を突き立てているので、声を出してはいけないのだとやっと分かった。
 首を縦に振って頷くと、景之亮はおそるおそる蓮の口から手を離した。
「どうして、鷹取様がいるのですか?」
 景之亮の耳元に囁き声で蓮が言った。
「私こそ、あなたに問いたい。なぜ、あなたがここにいるのです?」
 景之亮も蓮の耳元で言った。
「夜中に邸を抜け出す実津瀬を追ってきたのです」
 景之亮は頷いた。
「そうですか。でも、あなたは今夜ここにいてはいけない人だ。どうしようか?」
 景之亮は少し思案した後。
「私と一緒に動きましょう。これから先は一人では危険だ」
 景之亮は蓮の前に立って背に蓮を庇った。
「私の質問にはお答えいただいていないわ。鷹取様はどうして、ここに?」
 景之亮は後ろを振り返った。
「私は今夜、ここに用があるのですよ」
「こんな夜更けに?」
「ええ、あなたをお邸に連れて帰りたいですが、そろそろその用の始まる時間なのですよ。だから、用が終わるまで私と一緒にいてください」
 蓮は納得したような、はぐらかされたような気分だった。その時、初めて景之亮の出で立ちをまじまじと見た。
 目の前に見える背中には矢の入った筒が背負われている。左手には弓。
 こんな出で立ちが必要な用とはどのようなものだろう。
 蓮は少しばかり緊張してきた。
 景之亮は自分の後ろに蓮がいることを確認しながら、使用人たちが使う棟の方へと歩いて行く。
「蓮殿、もう少し私の傍へ。これからは私に遅れないように、着いて来てください」 
 今日は髭を剃ってこざっぱりとした顔が後ろの蓮に向いて言った。そう言うと、景之亮は背負った筒の中から矢を取ると、弓を引いた。
 前触れはないが、無駄のない動きで矢は闇夜の中に放たれた。
 真っ暗闇の中に吸い込まれて行ったように、蓮にはそう見えたが、しばらくすると呻き声とともに、人が倒れる音がした。
 驚いた蓮は、声が出そうになったが、蓮を振り向いた景之亮が口の前に指を立てたのを見て、自分の手で口を覆った。
 景之亮が手を差し出すので蓮は反射的に口にやった手を下ろして、その手を握った。そして、景之亮が放った矢の方へと走った。
 呻き声の傍に来ると、景之亮は蓮を近くの樹の陰に隠して一人、呻き声の方に歩いて行った。
 蓮は景之亮から、この木の元に後ろ向きに座って、耳を塞いでいてくれと言われた。その言葉に頷きはしたが、従う気持ちはなかった。樹の陰に身を低くして、景之亮が歩いて行く方に目を凝らした。
 景之亮は静かに呻き声に近づいた。
 背中に矢を受けて、その痛みに耐えかねて呻き声が出る男の姿を見つけると、腰の剣を抜いて素早く近づきその背中を突き刺した。剣の柄を右に回してから、引き抜いた。
 男は叫び声を一声上げるとすぐに静かになった。
 蓮は景之亮が呻き声に近づき、うずくまると男の叫び声が聞こえた。暗くてはっきりとしたことはわからなかったが、今、景之亮は人を殺したのだと分かった。
 蓮は無意識に口を覆った自分の手が震えているのに気づいた。景之亮が後ろを向いて耳を塞いでいろと言ったことが分かった。
 ここは実津瀬が舞いを舞った夫沢施の館であろうに、今では人殺しの館になっているのだ。なぜ、こんなことになったのだろう。
 蓮は自然に目を閉じて、目の前に広がる現実を受け入れることにあらがった。
 肩に手を置かれて、蓮は顔を上げた。そこには、蓮の顔を覗き込んでいる景之亮がいた。 
 先ほど向こうで人を殺してきたであろう男とは思えない、さっぱりとした顔である。
「気分はどうですか?」
 そう訊かれて、蓮は一瞬戸惑ったが答えた。
「大丈夫です」
「……そう」
 景之亮は、蓮の膝の上の震えている手を握った。
蓮は、景之亮に手を握られても拒否する気持ちはない。
「私はこの先を進まないといけない。立てますか?」
 蓮は頷いて、景之亮に手を握られて立ち上がった。
「この先も一緒に来てくれますか?」
 景之亮の言葉に、蓮は頷いた。
「行きます。一人でいるのは怖いわ」
 景之亮も頷いて。
「怖い思いをさせてすまない。あなたが震えている通り、この先も怖い目に会わせるかもしれない。しかし、私が守ります」
 景之亮は右手に弓を持ち、左手で蓮の手を握って先を進んだ。
「……鷹取様……どうして……ここは、実津瀬が舞いを舞った宴の場所でしょう?なぜ、弓を射る必要があるのですか?それに、呻き声の人を……」
 と蓮は景之亮が止めを刺したであろう男のことが頭をよぎった。
「確かに宴の場ですが宴は終わって、別の舞台になったのですよ」
「実津瀬は……無事かしら……」
 自分をここに連れてきた……蓮が勝手について来ただけだが……実津瀬のことを案じた。
「実津瀬殿も私が守りますから」
 小さな声だが、景之亮は言った。蓮は大きな景之亮を見上げた。削げた頬が見えるだけだが、景之亮の用とは実津瀬のことではないかと思った。
「鷹取様は……」
 蓮が言いかけた時に、握る景之亮の手に力が入った。蓮もその動きに緊張し、景之亮に体を寄せた。

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