New Romantics 第一部あなた 第ニ章4

小説 あなた

 実津瀬は邸に戻って自室に入った。夕餉時に弟の宗清が一緒に食事をしようと誘いに来たが、疲れているからいらないと言って追い返した。誰とも話がしたくなくて夕餉を取らずに衾を被った。稲生達といても、別れてからもこの邸にたどり着くまで、どのように歩いて来たかは記憶にない。
 ずっと考えていたことは、あれは他人の空似であると言うこと。
 あの女は雪ではない、と。雪ではない理由をいくつかあげようとしたが、その反対に化粧をしていなくても、いつもの装いでなくてもあの髪の美しさ、目元、唇、体つきはどれも雪としか思えなかった。自分の腕の中でよくよく見て知っている女人である。
 ならば、なぜ、雪は岩城一族を滅ぼそうとする一味に加担している男と連れ立って歩いているのか。宮廷から離れて、都の東の外れの道を。
 それに、雪が岩城一族滅亡の企みに加担していたとして、実津瀬に近づくことにどんな価値があるだろうか。一族の一員ではあるが階位も受けていない青年をどのように利用すると言うのだろうか。まだ、うまみはないようなに思われる。
 だからこそ、あれは雪ではないと思いたかった。雪に似た誰かだと思いたい。
 実津瀬は、衾の中で何度もあの男の後ろにいた女人を思い出し、否定し、しかし見間違うはずがないと思い直しを繰り返して、夜明けまで眠ることができなかった。

「どうしたの?」
 朝、簀子縁に立って朝日を眩しがって目の前に手をかざして立っている実津瀬を、薬草摘みが終わって庭を横切っている蓮が声を掛けた。
「なに?」
「酷い顔。寝て起きた顔には見えないもの。昨日は夕餉も食べずに寝たでしょうに」
 実津瀬は適当に蓮に返事をして、部屋の中に入った。身支度をして、宮廷に行かなければいけない。見習いの仕事が待っている。
 盥に張った水に顔を映した。目の下は黒ずんでいて、寝不足の顔が見えた。だって、夜明け前に少しばかりまどろんだだけだ。寝ていないに等しい。
 ああ、見習いの仕事、塾の講義、その後は舞の練習……そして……。
 今日は、雪と会う約束をしている……。すっぽかそうか……。会ったら、どんなことを言うかわからない。心はどうしていいかまだ決まらないのだ。
 身支度を終えて、再び簀子縁に出ると、蓮と榧が朝露に濡れた開く前の花を摘んでいた。
「きれいでしょう?盥に浮かべて楽しむの。実津瀬も帰ってきたら見てね」
「兄様、いってらっしゃい」
 朝日に照らされて輝いて見える妹二人に見送られて、実津瀬は邸を出た。
 塾の部屋に入ると、机を挟んで座って話をしている稲生達が仲間と話をしている姿が見えた。稲生の後ろの席に座ると、稲生が振り向いて話し掛けてきた。
「どうした、その顔は?寝不足か?」 
「……そう」
「昨日は、あのような男がいることに驚いたのか。別れる前から様子がおかしかったが」 
「……うん。稲生や鷹野はお爺様にいろいろと教えてもらっているのだな、と思った。私は私たちの周りのことをよく知らないのだと思い知ったよ」
「そう?じゃあ、舞の練習もいいけど、時々うちにおいでよ。お爺様のご講義を一緒に訊こうじゃないか」
 そうだね、と実津瀬は返したところで、扉から先生の付き人が入ってきて、続いて先生が登壇されたため、会話はそこで終わった。
 講義が終わると、稲生たちが館の外にたむろして話をするのに、実津瀬も付き合った。どうも、実津瀬が提案していた早良家の娘と会うために兄弟姉妹たちとの小さな集いをもとうと言ったことが、外に漏れてしまって、男女の集まりなら我も我もと手を上げるものが多くて大人数になった。大人数を収めるにうってつけは岩城本家の庭だろうと言うことになって、稲生がどうしようかと、思案しているところだ。
 邸に帰って相談しないと決められないと言い、この話は後日またということになった。
 それから、実津瀬は皆と別れてまた宮廷へと戻っていく。今日は自分の舞ではなく、楽団と共に笛を吹いて、舞の音楽を練習することにしていた。そして、その後は、雪と会う約束をしていた。
 すっぽかすことを考えていたが、やはりそれはできないという気持ちでふらふらと稽古場から待ち合わせの場所まで歩いた。
 雪は椿の樹の陰に隠れて待っているのが常である。すでに、約束の場所に来ているだろうかと、実津瀬は椿の裏へと回った。もしかして、女官の仕事が忙しくて、雪の方がすっぽかす場合もある。これまでも何度かあった。そうであればいいと思った。
 雪はいないことを祈りながら椿の樹の裏を見ると、雪が膝を抱えて座っていた。
 人の気配に気づいた雪が顔を上げて目があった。
「実津瀬様」
 囁く声が実津瀬の耳に届いた。
「待たせたかな?」
「いいえ、今来たところでした。今日は立ち仕事が多くて座り込んでしまいましたわ」
 雪は立ち上がり、実津瀬の前に立った。
 自然といつものように、実津瀬は両手を開いて雪を迎え入れた。雪はその胸の中に吸い込まれるように入って実津瀬の背中に腕を回し、胸に左頬をつけた。
 実津瀬は雪の体を抱き留めて囁いた。
「少し歩こう」
 実津瀬の胸から顔を上げた雪は頷いた。
 実津瀬は握った雪の手を引いて庭の奥へと向かった。
「梅も終わって、桜の季節ですわね。これから、暖かくなりますし、身分の高い方のお邸では近しい方を呼んで宴などを催されるでしょう。あなた様は舞手として引手あまたかもしれませんね」
 雪は楽しそうに笑って言った。
「私の舞など、お目汚しさ。大王からお褒め頂いたけど、私の技術などまだまだで」
 実津瀬がそう返事すると、雪は頬を膨らませた。
「大王からお褒めの言葉をいただけるなんて、滅多なことではありませんわ。実津瀬様の舞は人の心を惹きつけて、何か訴えるものがあるのです。そうでなければ大王もあれほどのお褒めの言葉はないでしょう。現に私はあなた様の舞が好きなのですもの」 
 雪がそう言って話す姿は、偽りのない本気の言葉で、実津瀬は嬉しい気持ちになる。
 こんなに実津瀬の舞を讃えてくれる雪を……。
 庭を抜けたところにある宮廷の使用人たちの宿舎に入り込み、そこで雪の体を貪った後に、二人でお互いの体に手を回して抱き合って、たわいもない日常の話をしたことを思い出した。
 雪は実津瀬の舞についての話を興味深く聞いてくれた。実津瀬が舞を舞うのに考えること、努力していることを率直に話すことを求めた。それを雪は頷いて聞いている。実津瀬が自分の失敗談を面白おかしく話すと、雪は涼やかな声で笑って面白がってくれた。腕の中でコロコロと笑う雪の声、仕草が蘇ってきて、愛しさが増した。
 長い徘徊のような散歩の終わりに、実津瀬は雪の手を握って立ち止まった。
「……」
 黙ったままの実津瀬に、雪は怪訝な顔で首を傾げた。
「……あなたは美しい人……。初めて見た時から私はその美しさに心惹かれていた。あなたが私の舞を好きだと言ってくれて私は有頂天になった。あなたの示す好意に私も応えた形だけど、未熟な私はあなたが与えてくる男女の喜びに打ち震える思いだった。私にとってあなたは初めての人。あなたの全てを知りたくて、のめり込み、酔いしれた。あなたのことが好きだ。その気持ちに偽りはない。……でも、私はもうあなたと会うことはできない。私はこれを最後にあなたには会わないと……決めた」
 実津瀬の言葉に、雪は発する言葉もなく袖で口元を押さえてただ立っているだけだった。
「……私を好きとおっしゃってくださるのに……」
 雪は呟くように言った。
「……好きだ……。でも会わない」
 実津瀬は雪と目を合わせず、言い切った。
「……初めから、身分違いの恋でしたから。あなた様に受け入れられたことが幸運でした。私にすがる術もありませんわ。あなた様が会わないとおっしゃるなら私はそれに従うだけですわ」
 雪は真っ白な顔に表情もなく言った。
 実津瀬は雪が泣いたり、恨み事を言ったりするとは思っていなかった。わきまえた女人だと思っていたが、とてもあっさりとした別れになる。
「……お別れだ」
 実津瀬は握っていた雪の手を離した。
 雪は直前まで実津瀬に握られていた手を胸の上にあげて両手を握り合った。
 そして、固まったように動かない雪を置いて、実津瀬は歩き出した。振り返らないようにして、宮廷を出る門に向かった。

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