Infinity 第二部 wildflower36

菊 小説 wildflower

 佐田江の庄からの旅は天気にも恵まれて上々の滑り出しだ。旅慣れない礼も、佐田江の庄で体を休められたことで、今一度旅を始める鋭気を養えた。
 礼は耳丸の決めた旅の行程に決して口を出さない。耳丸も口出ししない礼の気持ちを汲み取っている。一日でも、半日でも早く実言のところへ辿り着きたいと思っているだろうが、礼の体と馬に無理をさせないように先を進んだ。
 できるだけ整備された道を進み、民家の軒先や、時には部屋の片隅を借りて寝泊りした。しかし、ほとんどは野宿をした。旅程の三分の一ほどを進むことができ、もうすぐ佐渡国を出て遊佐国へと入る。
 佐渡国までは道も整備されて、まだ人の往来も人家も多くみられるが、この先はもっと厳しく寂しい風景が広がっているだろう。
 束蕗原を出て、十五日が過ぎた。
 耳丸は、ただただ北方の最前線基地となっている若田城まで礼を無事に連れて行くことを考えている。我が主人である実言にそぐわない女であるけれども、姉一家の窮地を救ってくれた礼には感謝している。その恩に報いたいと思うのだ。
 しかし、今まで憎まれ口を叩いてきただけに、親しく楽しい旅とはいかない。事務的な会話ばかりで、初めて見る北に続く大地の光景に驚嘆したりしても、それを分かち合うことはない。一人感動を憶えてそれを誰かに伝えたいと思っても、礼を振り向いてしまって表情を殺す。
 なんとも味気ないことだが、耳丸は礼を嫌ってきただけに、ここで急に親しげな態度に変わるなんてことは、気持ちが許さなかった。
 礼も無駄な口はきかないが、ある日、夕日が沈むところで馬を止めて見入っていた。
「きれいだ……」
 礼はそう呟く。耳丸も、声に振り向いて、「そうだな」と答えた。
 いつも、苦しそうな顔をしている礼もこの時は表情をほころばせて、笑顔になる。
 旅も二十日が過ぎた。いつも一緒にいれば、お互いの細やかな心遣いも分かってきて、耳丸の反発していた気持ちも薄らぎ、助け合う姿勢がより表面に現れてきた。
 礼は耳丸と一緒に朝の身支度で近くの小川に行った時に、耳丸の左側にいるようにしている。それが川上に立つことになる時は、耳丸と時間をずらして川のほとりに行き顔を洗っている。なんだかマゴマゴとしていると思っていたが、礼は水を使う時は眼帯を外すため、川下に立ち左顔を耳丸に見られないようにしているのだと、ようやく気付いた。
 耳丸は礼の傷を醜いと言い、実言にふさわしい妻はお前ではない、実言にそれをわからせてやると言った。礼はその言葉に傷ついただろう。自分を嫌い、憎む相手とともに、この苦しい旅をしているこの女の稀有な強さを思った。
 今も、礼は川下の耳丸の左側で水を両手にすくって顔を浸すと、手ぬぐいで顔を拭いて、耳丸に背を向けて眼帯を付け直した。
 焚き火をした場所に戻ると、二人は昨夜炊いた米の残りを食べた。今までの旅の中ではひもじい時もあったが、礼は、植物のことをよくわかっており、木になっている実を見つけるのもうまかった。耳丸もまた川に仕掛けをして魚を獲り、二人でなんとか食料を調達していた。
 耳丸は思い出している。そう、あれは、実言が礼と婚約すると言い出した時のこと。
 実言は、寛ぎたいときは家人を遠ざけるが耳丸はそばに置いた。実言が父の園栄に常盤家の朔との婚約を解消し、真皿尾家の礼と結婚したいと告げてきた後、誰も部屋に近づけず、耳丸に酒を持って来させてちびりちびりと飲み、寝転がって月見をしていた。耳丸は実言からその話を聞いて、驚き、すぐに異を唱えた。
「なぜだ?目のことは気の毒だが、実言が気にすることじゃない」
「そうかい。お前も、そう思うのか」
「常盤家はいい相手ではないか。岩城家にとってきっと力になるだろう。それに、朔様はとても美しいときいている。一度まとまったものを覆すことでもないだろう」
「……いや、私は、やはりこのままではいられないよ。お前にはわからないだろうけど、あの娘にするよ。朔には申し訳ないけれど」
 そう言って、その後自分の意思を押し通してしまった。
 耳丸は、事あるごとに実言に翻意させようとしたが、「お前もしつこいね」と言って、「私の気持ちは変わらないよ」と取り合わない。
 礼の傷が癒えるまで婚約の儀式は延期されていたが、新しい年を迎える前までには形だけは整えようと真皿尾家で婚約の儀式は行われた。耳丸は帯同しろとは言われなかった。
 帰ってきた実言は、いつもと変わらない様子だが、そばにいる耳丸には実言の心沸き立つような喜びが伝わってきた。
 部屋で寛いでいた実言は話し相手に耳丸を呼んだ。耳丸は酒の酌をしながら、実言に早くも浮気を唆す。
「なんだ?やっとわたしも、相手が決まって落ち着いたというのに、何を言うのかね」
 真皿尾は、耳丸にしたら、以前は名門の家だっただろうが今では落ちぶれていくのが目に見えている家だ。真皿尾家にとっては願ってもない話しであろうが、岩城にとっては何の得にもならない。そんな相手を正妻の座に置かなくてもいいと考える。実言にはもっと他に似合いの相手がいるはずだ。今でも、我が娘と実言との間を取り持って欲しいという依頼は後を絶たない。
「何も妻は一人と決まっているわけではない。男なら、何人もの妻を娶とることもその力の現れであろうし、家の繁栄になることだろう」
「そう、急かすものでもないだろう。私とあの娘はまだ、なにも始まっていないというのに、もう他に女性を探しているなんて噂はたてたくないものだよ」
「噂を立てるなんてことが目的ではない。秘めやかに進めればいいことだ」
「はは……そうだな。しかし、私はあの娘とも始まっていないというのに、今から他の女人を探すというのも気が引けるというものだよ」
 実言はその気なのか、そうじゃないのかはっきりしない態度と言葉で耳丸に答える。
 あるとき、家人の兼正が実言の部屋前をうろうろとしているを見咎めて耳丸が声を掛けた。
「どうされました?」
「ああ、耳丸。どうしようかと思案しているのだ。私はお断りしているのだが、相手がしつこくて、とうとう断りきれずに手紙を受け取ってしまった。河田家の娘を、実言様にとのことなのだが、実言様はもってのほかとお叱りになるような気がして、お持ちすることができないでいるのだ」
「私が渡してきましょう。ちょうど、実言様に呼ばれているところなので」
「そうか、頼むよ。河田家の娘は美人だと評判で、父親もそれが自慢でね。一目お目にかかれば、必ずや気に入ってくれると自負されていて、強く懇願されてね」
 耳丸は箱に入った河田家からの手紙を預かると、実言の部屋へと入った。
「耳丸。そこにある手紙を箱に入れておくれ。あと、この書物たちは書庫に返しておいておくれ」
 机に向かって、なにやら書きながら実言は耳丸に指示をする。
「実言……」
「……ん?何だ?」
「これを」
 耳丸はおずおずと箱を差し出した。
「手紙?真皿尾から?」
 と、手を出した。
「いえ、河田家からだそうです。取次を頼まれたとかで、兼正殿が困っておられて」
「河田?……兼正も、どういうつもりだろうか?」
 実言は迷惑そうに言ったが、箱を受け取った。
 翌日、実言は耳丸に声をかける。
「これを兼正に渡しておいておくれ。返事だから」
 昨夜の箱に紐が掛けられしっかりと結ばれている。
「お返事を……」
 耳丸の嬉々とした表情に釘をさすように実言はいった。
「お邸にお招きに預かったが、お断りするよ。お前もいい加減、わかってくれてもいいと思うけどね」
「しかし、河田家の娘はたいそうな美人で名高いそうだ、会うだけでものいいではないか」
「いや、断る。そんな思惑に弄ばれたくないからね」
 実言は、じろりと耳丸の方に顔を向けてみた。
「私は、あの娘が好きなんだ。目を瞑っても、あの娘が追いかけてくるよ」
 実言は目を瞑むり。
「だから、邪魔をしないでおくれ」
 と言って、そのまま黙った。
 それは、これまでののらくらとした態度とは違い、これ以上この話を持ってくるなら、叱られることが予想できた。
 実言は肘掛にもたれて、目を瞑った。婚約の儀の時の光景を思い出していた。
 全く不思議なことだが、あの日が礼と実言がこう面と向かってじっくりと見合った初めての日だった。それまで、覗き見たり、垣間見たり、振り向きざまに視線を交わしたことはあったが。
 部屋の真ん中に設えられた座の上で向かい合って、礼の首に親愛の首飾りをかけてやった時のこと。実言の左側に座っていた礼は、右の横顔を見せていた。とうとう向かい合ったときでも、礼は少し左を向いて、眼帯をした顔を隠そうとしていた。
「礼。こっちを向いて。そう。下を向いたままで」
 実言の囁く声に従って、礼はおもむろに下を向いて、正面に顔を向けた。
 実言は、用意した金と貝殻と赤い瑪瑙で飾りした首飾りを礼の首の後ろに手を回して渡す。礼の後ろに控えている侍女が手伝って礼の首の後ろで留めて、長い髪を直してやる。
「礼。上を向いて」
 実言の言葉に素直に従って、顔を見せるのを嫌がっていた礼は顔を上げた。
 実言はその時初めて、眼帯した礼の顔を正面から見たのだった。礼の右目が怯えているようでもあるが、澄んで清らかに輝いていて、実言は魅入られる思いだった。
 実言は無意識に礼の手を取って握った。
 十六になった礼は、傷を負う前より少し身長も伸びて、子供らしさも抜けてきたように見えるが、まだまだ人の妻になるには幼いようにも見える。
 実言はじっと礼の目を見つめ続けると、耐えかねたように、礼が視線を外した。実言が握っていた手もいつの間にか引いていて、実言の手は空を掴むのみだった。
 実言は、ふふっと笑った。
 耳丸は部屋の隅に控えていたが、実言の静かな笑い声に身じろぎした。
「あの娘の目はとてもきれいでね。右目だけというのは残念だ。しかし、左目を失わなければ、私は気付かされなかっただろうし。悲しいことだ」
 と、呟いた。
「耳丸。あの娘は私を訳もなく嫌っているのだよ。だから、きちんとあの娘には私と向き合ってもらわなくちゃ。それでも、私が嫌いというのなら、お前の言うように、かたちだけの妻として接し、あとは他の女人を見つけることにしよう。それからでも遅くないだろう。だから、礼と私の邪魔をしないでおくれ」
 やんわりとした口調で言うが、それはこれ以上他の女の話はするなということだった。
 それから、実言は九鬼谷の戦に行くことになり、礼と離れた。同行した耳丸は、これは良い機会と思ったが、実言は決して礼を忘れたりしなかった。戦に勝利したら、一目散に礼を迎えに行くと言った。
 戦が終わると、実言は礼のもとに行き、耳丸は母親が暮らす田舎に戻り、病身の母親を看病しながら田畑を耕す日々を送った。母親が亡くなると、実言はそのことをどのようなつてからか知って、耳丸を再び自分の元に呼び寄せたのだった。
 耳丸は実言が礼と結婚したことは知っていた。再び、実言のもとで家人として働き、二人の暮らしぶりを垣間見ると、実言は部屋に籠もって礼との時間を楽しんでいる。昔は、耳丸を呼んで酒の相手をさせながら、その日あったことや思ったことを話して、それに相槌を打っていたが、その役割りは礼がしているのだと知った。仲睦まじく語らう二人は、誰もが認める仲の良い夫婦だ。耳丸はそれが許せず、どうかして引き裂きたいと思っていたが、今こうして礼と旅をすると、我が主人をただ一途に思って命をかけくれる女人は他にいるだろうかと思う。礼の言う実言の状況が本当なら、それを助けられるのもこの女人しかいないだろう、と。

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